1775年

アメリカ独立戦争: ケベックの戦い

アメリカ独立戦争中、植民地軍がケベック攻略を試みるも失敗に終わった戦いです。
ケベックの戦いは1775年12月31日に始まり、アメリカ植民地軍がイギリス軍支配下のケベック市を包囲しました。指揮を執ったリチャード・モントゴメリーとベネディクト・アーノルドは厳しい寒さや強固な防御に苦しみ、攻撃は失敗に終わりました。戦いの結果、植民地軍は大きな損害を被り、独立戦争初期の苦戦を象徴する出来事となりました。
1775年 アメリカ独立戦争 ケベックの戦い
1862年

南北戦争: ストーンズリバーの戦い

テネシー州で行われた南北戦争の激戦で、両軍に大きな犠牲者が出ました。
ストーンズリバーの戦いは1862年12月31日に始まり、ユニオン軍と連合軍がテネシー州のミュリエルズバーグ付近で衝突しました。戦闘は翌年1月2日まで続き、約24,000人の死傷者を出す激戦となりました。戦略的に重要な地点をめぐる攻防であり、ユニオン軍は最終的に地域支配を維持し、その後のテネシー進撃に弾みをつけました。戦いの犠牲の大きさは南北戦争の過酷さを象徴しています。
1862年 南北戦争 ストーンズリバーの戦い
1942年

第二次世界大戦・ガダルカナル島の戦い: 大本営がガダルカナル島からの撤退を決定。

大本営がガダルカナル島からの撤退を決定し、戦局が転換点を迎えた。
1942年12月31日、第二次世界大戦中のガダルカナル島の戦いにおいて日本軍大本営は撤退を正式に決定した。激戦を続ける中で人員と物資の消耗が激化し、制海権・制空権を奪回できないまま苦渋の撤退となった。この撤退は太平洋戦線における日本軍の攻勢が終焉へ向かう象徴的な出来事とされる。以降、連合軍はガダルカナル島を足がかりに南方攻略を加速させた。
1942年 第二次世界大戦 ガダルカナル島の戦い 大本営
1942年

第二次世界大戦: バレンツ海海戦が行なわれる。

バレンツ海海戦が行われ、北極海上の護送船団攻防戦が激化した。
1942年12月31日、北極海のバレンツ海で連合軍の護送船団とドイツ海軍戦隊との間で海戦が勃発した。護送船団JW51Bを護る英海軍駆逐隊とドイツ駆逐艦部隊が衝突し、激しい砲戦が繰り広げられた。激しい砲撃戦の末、両軍に損害を与えながらも、連合軍の護送任務が継続された。この戦いは北極航路の安全保障を巡る重要な海戦とされ、その後の戦局に影響を与えた。
バレンツ海海戦
1944年

第二次世界大戦: ハンガリーがドイツに宣戦布告。

ハンガリーがドイツに宣戦布告し、同盟関係が断絶された。
1944年12月31日、第二次世界大戦末期にハンガリーはドイツに対して宣戦布告を行った。これは親独政権によるドイツ支配からの脱却を図ったもので、枢軸国内部で異例の動きとされた。ハンガリー軍は直後にドイツ軍との衝突が避けられず、ヨーロッパ戦線に混乱をもたらした。この宣戦布告はハンガリーの戦後処理にも大きな影響を与えることになった。
1944年 ハンガリー ドイツ
1977年

カンボジアがベトナム軍の国境侵略を理由としてベトナムと断交。

1977年12月31日、カンボジア政府がベトナム軍の国境侵入を理由に断交を宣言した。
1977年末、ポル・ポト率いるカンボジア民主カンプチア政権は越境したベトナム軍の侵入を口実に、隣国ベトナムとの外交関係を一方的に断絶しました。 両国間では1975年以降度重なる小規模な衝突が続いており、この断交はその対立のエスカレートを象徴する出来事となりました。 国連や国際社会は紛争の激化を懸念し、両国に対話と和平を呼び掛けましたが、以降も国境では緊張状態が続きました。 この断交は東南アジア地域の冷戦構造に影響を与え、後のベトナム軍によるカンボジア侵攻(1978年)への伏線ともなりました。 地域安定の重要性を浮き彫りにする歴史的事件です。
1977年 カンボジア ベトナム