1858年
ヴィクトリア英女王がオタワをカナダの首都と定める。
ヴィクトリア女王がカナダ連邦の首都としてオタワを正式に指定しました。
1858年12月31日、ヴィクトリア女王は当時まだ統一前のカナダ植民地においてオタワを首都に定める勅令を発しました。オタワは英仏二文化の折衷地であり、軍事的防衛面でも優れていると評価されました。この決定により、首都機能はケベックやモントリオールからオタワに移転し、パーラメントヒルを中心とした都市開発が進みました。後のカナダ連邦成立にも影響を与えた重要な行政判断となりました。
1858年
ヴィクトリア
オタワ
カナダ
首都
1945年
GHQが「修身・日本史および地理の授業停止と教科書回収に関する覚書」を提示。
GHQが修身・日本史・地理の授業停止と教科書回収を命じ、戦後教育改革を進展させた。
1945年12月31日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は修身、日本史、地理の授業停止および関連教科書の回収を指示する覚書を提示した。これにより軍国主義教育の温床と見なされた科目が一時的に排除され、民主主義思想の普及を図る教育改革が加速した。文部省や学校現場では新カリキュラムの策定が急がれ、戦後日本の教育制度再構築に大きな影響を与えた。
1945年
GHQ
修身
日本史
地理
教科書
1947年
内務省が廃止される。
戦後改革の一環として内務省が廃止され、行政機構が再編された。
1947年12月31日、GHQの指導の下で内務省が正式に廃止された。内務省は明治時代以来、警察や地方行政を統括していたが、中央集権的な統制が問題視されていた。廃止後は自治省および警察庁などに権限が分散され、日本の行政機構は地方分権型へと再編された。これにより地方自治の発展が促され、現代の行政制度の基盤が築かれた。
1947年
内務省
1963年
イギリス保護領ローデシア・ニヤサランド連邦が解体され、北ローデシア(現 ザンビア)・南ローデシア(現 ジンバブエ)・ニヤサランド(現 マラウイ)に分裂。
1953年に設立されたローデシア・ニヤサランド連邦が解体され、北ローデシア(現ザンビア)、南ローデシア(現ジンバブエ)、ニヤサランド(現マラウイ)の3地域に分割された。
1953年に設立されたローデシア・ニヤサランド連邦は、北ローデシア、南ローデシア、ニヤサランドの3地域から構成されていました。
英政府は統治効率を理由に連邦化を推進しましたが、民族的対立や独立運動の高まりを抑えきれず、政情は不安定化。
1963年12月31日に連邦は正式に解体され、それぞれ北ローデシア(後のザンビア)、南ローデシア(後のジンバブエ)、ニヤサランド(後のマラウイ)に分割されました。
北ローデシアとニヤサランドは1964年にそれぞれザンビア、マラウイとして独立を達成しました。
南ローデシアは1965年に一方的に独立宣言を行ったものの国際的承認を得られず、1980年にジンバブエとして最終的に独立しました。
1963年
ローデシア・ニヤサランド連邦
北ローデシア
ザンビア
南ローデシア
ジンバブエ
ニヤサランド
マラウイ
1965年
中央アフリカの国軍参謀総長ジャン=ベデル・ボカサが軍事クーデターを開始。
1965年12月31日、中央アフリカ共和国で参謀総長ジャン=ベデル・ボカサが軍事クーデターを開始した。
ジャン=ベデル・ボカサは1965年12月31日、国軍参謀総長として大統領デビッド・ダコをクーデターで追放する作戦を開始しました。
この政変によりデビッド・ダコ政権は崩壊し、ボカサは翌1966年1月に大統領に就任します。
ボカサはその後1972年に国家元首の終身大統領となり、さらに1976年には皇帝を自称し『中央アフリカ皇帝国』を樹立しました。
彼の統治は専制的かつ華美で知られ、斬新だが独裁的な政策を多く導入しました。
このクーデターは中央アフリカの政治的混乱の始まりとなり、長期にわたる政情不安を招いた重要な転換点となりました。
1965年
中央アフリカ
ジャン=ベデル・ボカサ
1966年
核拡散防止条約は、この日までに核実験を成功させた国のみに核武装の権利を認める。
核拡散防止条約(NPT)はこの時点で核実験を成功させた国にのみ核保有を認める枠組みを確定した。
NPT(核拡散防止条約)は世界の核兵器保有国と非保有国を明確に区分し、1966年12月31日までに核実験を行った国にのみ核材料と兵器の保有を認める原則を確立しました。
これによりアメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国の5か国が核保有国として条約体制に組み込まれ、それ以外の国は核開発と取得を厳しく制限されることになりました。
条約は国際的核軍縮を目指すと同時に、核兵器の拡散防止を法的に裏付ける重要な国際協定として位置付けられています。
発効は1968年ですが、この1966年末時点の決定が後の条約内容の基礎となりました。
現在でもNPTは核不拡散体制の中核を担う条約として、多くの国際安全保障政策に影響を与え続けています。
核拡散防止条約
核実験
核武装
1977年
カンボジアがベトナム軍の国境侵略を理由としてベトナムと断交。
1977年12月31日、カンボジア政府がベトナム軍の国境侵入を理由に断交を宣言した。
1977年末、ポル・ポト率いるカンボジア民主カンプチア政権は越境したベトナム軍の侵入を口実に、隣国ベトナムとの外交関係を一方的に断絶しました。
両国間では1975年以降度重なる小規模な衝突が続いており、この断交はその対立のエスカレートを象徴する出来事となりました。
国連や国際社会は紛争の激化を懸念し、両国に対話と和平を呼び掛けましたが、以降も国境では緊張状態が続きました。
この断交は東南アジア地域の冷戦構造に影響を与え、後のベトナム軍によるカンボジア侵攻(1978年)への伏線ともなりました。
地域安定の重要性を浮き彫りにする歴史的事件です。
1977年
カンボジア
ベトナム
1981年
ガーナでジェリー・ローリングスが2度目の軍事クーデターを起こしヒラ・リマン政権を打倒。
1981年12月31日、ガーナの軍将校ジェリー・ローリングスが二度目のクーデターを起こし、ヒラ・リマン政権を打倒した。
ジェリー・ローリングスは1979年にもクーデターを起こして臨時軍事政府を樹立しましたが、文民統治移行後のヒラ・リマン政権に対して批判を強めていました。
1981年12月31日、彼は再びクーデターを実行し、民選政府を打倒するとともに自らが指導する国家防衛評議会(PNDC)を発足させました。
この政変によりガーナは軍政下に戻り、経済政策や社会改革が軍部主導で進められることになりました。
ローリングス政権は腐敗排除や経済再建を掲げましたが、同時に人権抑圧や言論統制も行われ、賛否両論を呼びました。
彼はこの後も長期にわたりガーナの実権を握り、アフリカにおけるカリスマ的指導者として知られるようになりました。
1981年
ガーナ
ジェリー・ローリングス
ヒラ・リマン
1994年
キリバスのフェニックス諸島とライン諸島で標準時がUTC 11・UTC 10からUTC+13・UTC+14に変更され、12月30日の翌日が1月1日となる。
キリバスの一部地域で標準時が大幅に変更され、30日の翌日が1月1日となりました。
1994年12月31日、キリバス共和国はフェニックス諸島とライン諸島の標準時を従来のUTC-11・UTC-10からUTC+13・UTC+14へと変更しました。これにより国土の東西で同じ日付を共有できる世界初の国家となりました。結果として12月30日の翌日は1月1日となり、新年を二度祝う国として国際的に注目されました。地理的に大きく広がる島嶼国家としての統一を図る政策判断であり、時刻制度の柔軟性を示す事例となりました。
1994年
キリバス
フェニックス諸島
ライン諸島
標準時
UTC-11
UTC-10
UTC+13
UTC+14
1999年
ボリス・エリツィンがロシア連邦大統領を辞任し、後任にウラジーミル・プーチン首相を指名。
ボリス・エリツィンがロシア連邦大統領を辞任し、後任にプーチン首相を指名しました。
1999年12月31日、初代ロシア連邦大統領ボリス・エリツィンが突然辞任を発表しました。テレビ演説で辞任を表明し、政治改革の疲弊や経済課題を理由に挙げました。後任の大統領代行には当時首相を務めていたウラジーミル・プーチンを指名し、翌年3月の大統領選への布石としました。この決定は国内外に大きな衝撃を与え、ロシア政治の新たな章の幕開けとなりました。
1999年
ボリス・エリツィン
ロシア連邦大統領
ウラジーミル・プーチン
1999年
アメリカ合衆国がパナマ運河とパナマ運河地帯をパナマに返還。
アメリカがパナマ運河と運河地帯をパナマに完全返還しました。
1999年12月31日、アメリカ合衆国は1977年に締結されたパナマ運河条約に基づき、パナマ運河と運河地帯の管理権をパナマ政府に移管しました。アメリカの長年にわたる統治が終結し、パナマ側の主権が回復されました。返還式典には両国首脳が参加し、平和的な権益移転として国際的にも高い評価を受けました。パナマ運河は世界貿易に不可欠な海上交通路であり、その運営権移譲は地政学的にも重要な出来事でした。
アメリカ合衆国
パナマ運河
パナマ運河地帯
パナマ