1600年

イギリス東インド会社設立。

1600年に王室の特許状を得て設立されたイギリス東インド会社は、アジア貿易を独占し巨大な影響力を持ちました。
イギリス東インド会社は1600年12月31日にエリザベス1世の後継者から特許状を授与され設立されました。香辛料や茶、絹などアジア諸国との貿易を独占し、インドや東南アジアに拠点を築きました。莫大な利益を背景に植民地支配を拡大し、後の帝国主義政策にも大きな役割を果たしました。会社は独自の軍隊や行政権を有し、事実上の植民地政府として機能しました。これにより世界経済の構図が大きく変化しました。
1600年 イギリス東インド会社
元禄16年11月23日

元禄地震。南関東に大きな被害。

1703年に発生した元禄地震は南関東一帯を襲い、甚大な被害をもたらしました。
元禄地震は1703年12月31日に発生し、江戸湾沿岸を中心に大津波や家屋倒壊を引き起こしました。堤防の破壊や塩害により農地も甚大な被害を受け、多くの村落が壊滅しました。幕府は復旧に膨大な財政支出を強いられ、遠隔地からの物資調達や復興工事を急ぎました。江戸・相模・伊豆地方などで数千人規模の死者が出たとされ、当時の社会構造や治水対策にも大きな影響を与えました。
1703年 元禄 11月23日 元禄地震 関東
1775年

アメリカ独立戦争: ケベックの戦い

アメリカ独立戦争中、植民地軍がケベック攻略を試みるも失敗に終わった戦いです。
ケベックの戦いは1775年12月31日に始まり、アメリカ植民地軍がイギリス軍支配下のケベック市を包囲しました。指揮を執ったリチャード・モントゴメリーとベネディクト・アーノルドは厳しい寒さや強固な防御に苦しみ、攻撃は失敗に終わりました。戦いの結果、植民地軍は大きな損害を被り、独立戦争初期の苦戦を象徴する出来事となりました。
1775年 アメリカ独立戦争 ケベックの戦い
1858年

ヴィクトリア英女王がオタワをカナダの首都と定める。

ヴィクトリア女王がカナダ連邦の首都としてオタワを正式に指定しました。
1858年12月31日、ヴィクトリア女王は当時まだ統一前のカナダ植民地においてオタワを首都に定める勅令を発しました。オタワは英仏二文化の折衷地であり、軍事的防衛面でも優れていると評価されました。この決定により、首都機能はケベックやモントリオールからオタワに移転し、パーラメントヒルを中心とした都市開発が進みました。後のカナダ連邦成立にも影響を与えた重要な行政判断となりました。
1858年 ヴィクトリア オタワ カナダ 首都
1862年

南北戦争: ストーンズリバーの戦い

テネシー州で行われた南北戦争の激戦で、両軍に大きな犠牲者が出ました。
ストーンズリバーの戦いは1862年12月31日に始まり、ユニオン軍と連合軍がテネシー州のミュリエルズバーグ付近で衝突しました。戦闘は翌年1月2日まで続き、約24,000人の死傷者を出す激戦となりました。戦略的に重要な地点をめぐる攻防であり、ユニオン軍は最終的に地域支配を維持し、その後のテネシー進撃に弾みをつけました。戦いの犠牲の大きさは南北戦争の過酷さを象徴しています。
1862年 南北戦争 ストーンズリバーの戦い
1889年

新国立銀行券5円が廃止。

明治政府は新国立銀行券の5円券を廃止し、通貨制度の統一を進めました。
1889年12月31日、明治政府は金融制度改革の一環として新国立銀行券の5円券を廃止しました。これは各地方銀行券を整理し、統一通貨制度を確立するための措置でした。後に日本銀行券への切り替えが進み、国の信用を背景とする中央銀行発行紙幣が国内の主要な決済手段となりました。この改革により金融の安定化が図られ、近代的な経済基盤の構築に寄与しました。
1889年
1899年

「政府発行紙幣通用廃止ニ関スル法律」発効により改造紙幣が使えなくなる。

政府発行の改造紙幣が法令により一斉に使用停止となりました。
1899年12月31日に「政府発行紙幣通用廃止ニ関スル法律」が発効し、旧来の政府発行紙幣が無効となりました。これは日本銀行紙幣への完全移行を目指す通貨統一政策の一環で、全国で改造紙幣の回収が行われました。市中の混乱を抑えるため、交換期間や手続きが定められ、金融機関も協力して対応しました。これにより中央銀行制度が確立し、通貨制度の近代化が完成に近づきました。
1899年 改造紙幣
1900年

福澤諭吉の提案で、翌年の幕開けにかけて慶應義塾生らと「19世紀・20世紀送迎会」を開催。

福澤諭吉が主催し、慶應義塾生を中心に世紀をまたぐ送迎会が開かれました。
1900年12月31日、福澤諭吉の発案で慶應義塾の学生や教職員が集まり、「19世紀・20世紀送迎会」を開催しました。時代の転換を祝い、教育や文明開化への期待を語り合う場となりました。会場には洋装と和装が混ざり合い、近代化と伝統の狭間を象徴する雰囲気が漂いました。この催しは日本が新しい世紀に向けて歩み始める象徴的なイベントとされています。
1900年 福澤諭吉 慶應義塾 19世紀・20世紀送迎会
1906年

紀州徳川家中屋敷跡地に新しい東宮御所(現在の迎賓館)が完成。

かつての徳川屋敷跡に建てられた東宮御所が完成し、後の迎賓館の原型となりました。
1906年12月31日、紀州徳川家の中屋敷跡地に西洋風の東宮御所が完成しました。設計は片山東熊によるネオバロック様式で、当初は皇太子の住居として使用されました。周囲の庭園や装飾も西洋美術の影響を受けており、日本における近代建築の先駆けと評価されています。1974年には国賓をもてなす迎賓館として改修され、現在に至るまで国家的儀礼の舞台となっています。
1906年 紀州徳川家中屋敷跡地 東宮御所 迎賓館
1909年

ニューヨークのマンハッタン島とブルックリンを結ぶマンハッタン橋が完成。

マンハッタン橋が開通し、ブルックリンとマンハッタンの交通網が強化されました。
1909年12月31日に開通したマンハッタン橋は、レオン・モイセフ設計のハンギングケーブル式橋です。全長約2,089メートル、当時最新の技術を導入し、鉄道や自動車、歩行者を同時に通行可能としました。完成により、混雑が激しかったブルックリン橋の負担が大幅に軽減され、ニューヨーク市内の物流や通勤が飛躍的に改善されました。現在も市民の重要な交通手段として稼働しています。
1909年 ニューヨーク マンハッタン島 ブルックリン マンハッタン橋
1927年

除夜の鐘(寛永寺)が初めて中継放送される。

寛永寺の除夜の鐘がラジオで初めて全国中継され、大晦日の風物詩が家庭に届けられた。
1927年12月31日、東京・寛永寺において大晦日の除夜の鐘が初めてラジオで全国放送された。この中継は年越しの鐘の音を遠方まで届ける試みとして注目を集め、以後大晦日のラジオ聴取の定番企画となった。鐘の音が放送を通じて広く共有されることで、年末の風情をより多くの人々が感じるようになった。現在では各地の寺院による除夜の鐘中継が年末の重要な文化行事となっている。
1927年 除夜の鐘 寛永寺
1931年

新宿に軽演劇の劇場「ムーランルージュ新宿座」が開場する。

新宿に軽演劇専用劇場『ムーランルージュ新宿座』が開場し、演劇文化の新たな拠点となった。
1931年12月31日、新宿に軽演劇を専門とする劇場『ムーランルージュ新宿座』がオープンした。華やかな舞台装置とユーモラスな演出で知られ、多くの大衆を劇場に引き寄せた。軽演劇の発展に寄与し、新宿が演劇文化の一大中心地となる契機を作った。戦後まで続く娯楽施設の先駆けとして評価されている。
1931年 新宿 劇場 ムーランルージュ新宿座