1370年
グレゴリウス11世がローマ教皇に即位。
1370年にピエール・ロジェ・ド・ボーフォールがグレゴリウス11世としてローマ教皇に即位し、アヴィニョン教皇庁期の終焉を迎えました。
ピエール・ロジェ・ド・ボーフォールはアヴィニョン出身の枢機卿で、グレゴリウス11世として、1370年12月30日にローマ教皇に選出されました。
彼はアヴィニョンにあった教皇庁をローマに戻すことを決意し、1377年にローマ帰還を果たしました。
これにより約七十年続いたアヴィニョン教皇庁期が終わり、ルネサンス期における教皇権の強化が促されました。
グレゴリウス11世の治世は短かったものの、教会改革への布石となり、後の教皇たちに大きな影響を与えました。
彼の死後、教会は分裂する教会大分裂(大シスマ)へと突入しました。
1370年
グレゴリウス11世
ローマ教皇
1853年
アメリカ合衆国が現在のアリゾナ州南部およびニューメキシコ州にあたる地域をメキシコから購入することで両国が合意(ガズデン購入)。
1853年、アメリカ合衆国がメキシコからガズデン購入で現在のアリゾナ州南部とニューメキシコ州の一部を取得しました。
ガズデン購入は、1853年12月30日にアメリカとメキシコ間で締結された土地売買条約です。
当時米国国務長官ジェームズ・G・ビュートンが交渉を担当し、約1000万ドルで2万7000平方キロを取得しました。
この地域は南部横断鉄道の建設ルートとして重要視され、西部開拓を加速させました。
条約は翌年上院で批准され、アメリカ南西部の現在の国境線がほぼ確定しました。
ガズデン購入は米墨関係に長期的な影響を与え、鉄道網拡大の鍵となりました。
1853年
アメリカ合衆国
アリゾナ州
ニューメキシコ州
メキシコ
ガズデン購入
1889年
日本で決闘罪ニ関スル件公布。
1889年、日本で決闘罪を定める法令『決闘罪ニ関スル件』が公布され、武士の決闘慣習が禁止されました。
明治22年(1889年)12月30日、明治政府は近代刑法制定に先立ち『決闘罪ニ関スル件』を公布しました。
これにより公然の決闘行為は犯罪とされ、罰金や懲役が科されることになりました。
従来の武士階級における名誉のための決闘慣習が法的に否定され、近代国家としての治安維持が図られました。
本法令は後の大日本帝国刑法(明治39年)に統合され、刑事法制の整備に寄与しました。
これにより日本社会は西洋型の法秩序を受け入れ、社会の近代化が一歩進みました。
1889年
決闘罪ニ関スル件
1896年
フィリピンの独立運動家・ホセ・リサールが処刑される。
1896年、フィリピン独立運動家ホセ・リサールがスペイン当局により処刑され、民族運動に大きな衝撃を与えました。
ホセ・リサールはフィリピンの知識人で、小説『ノリ・メ・タンゲレ』などを通じてスペイン統治の矛盾を批判しました。
1896年12月30日、マニラ市内で反乱教唆の容疑により銃殺刑に処されました。
彼の死は抗スペイン抵抗運動の象徴となり、フィリピン革命の火付け役となりました。
現在もリサールはフィリピンの国民的英雄として敬愛され、多くの記念碑や施設が彼を称えています。
彼の思想と行動は東南アジアにおける反植民地運動にも影響を与えました。
1896年
フィリピン
ホセ・リサール
1906年
全インド・ムスリム連盟結成。
英領インドでムスリムの政治的利益を代表する組織、全インド・ムスリム連盟が結成されました。
1906年12月30日、現在のバングラデシュ・ダッカでムハンマド教育会議の会合中に結成が提案された。
ナワーブ・サリムッラー・ハーンら指導者によって設立され、英領インドにおけるムスリムの権益保護を目的とした。
ヒンドゥー多数派を背景とするインド国民会議に対抗し、ムスリムの政治的発言力強化を図った。
連盟は教育・経済・政治など多彩な活動を行い、後のパキスタン建国運動に大きな影響を与えた。
1947年のパキスタン分離独立後も存続し、その理念は南アジアの歴史に刻まれています。
1906年
全インド・ムスリム連盟
1922年
ソビエト社会主義共和国連邦が建国。
ロシアを中心とした複数の共和国が結集し、ソビエト連邦が成立しました。
1922年12月30日、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ・ザカフカースの4共和国が条約を締結。
これにより正式にソビエト社会主義共和国連邦(USSR)が建国された。
レーニンらボリシェヴィキ指導部が統治し、共産主義体制の連邦国家が誕生。
広大な領域を一元的に管理する体制は冷戦構造の形成にも影響を与えた。
1991年まで約69年間存続し、世界史における大国の一つとして位置づけられた。
1922年
ソビエト社会主義共和国連邦
1947年
ルーマニアで、王制を廃止し人民共和国を宣言。
ルーマニアで国王が退位し、人民共和国の成立が宣言されました。
1947年12月30日、ルーマニア国王ミハイ1世が退位を強いられ帝政が終焉を迎えた。
共産党主導の臨時政府が国王の退位を承認し、ルーマニア人民共和国を宣言。
ソビエト連合の影響下で社会主義体制へと移行し、国名も変更された。
国王一家は国外追放となり、モナコ公室に亡命した。
これにより東欧における共産主義政権樹立の動きが一層加速した。
1947年
ルーマニア
1949年
インドが中華人民共和国を承認。
1949年12月30日、インドが中華人民共和国を正式に承認し、1950年代の国際秩序に大きな影響を与えた。
中国共産党が1949年に国共内戦に勝利して中華人民共和国が成立したのを受け、インドは同年12月30日に一早く新政権を承認。
ネル首相率いるインド政府の決定は非同盟運動の立場にもかない、アジア諸国の外交関係構築に大きな役割を果たした。
これにより中印両国の公式国交が樹立され、貿易や文化交流の基盤が整備された。
しかし国境問題などを巡る対立は後に1962年の中印国境戦争にも影響を及ぼすこととなった。
冷戦構造下での新興独立国家の外交政策を象徴する重要な一歩とされる。
1949年
インド
中華人民共和国
承認
1965年
フェルディナンド・マルコスがフィリピン大統領に就任。
1965年12月30日、フェルディナンド・マルコスがフィリピンの第10代大統領に就任した。
フェルディナンド・マルコスは1965年の大統領選挙で勝利し、同年12月30日にフィリピン共和国第10代大統領に就任。
就任後はインフラ整備や経済近代化を掲げたが、汚職や人権問題も多く指摘された。
1972年には戒厳令を布告して独裁体制を強化し、1986年の「ピープルパワー革命」まで政権を維持。
マルコス政権は20年以上にわたりフィリピン政治に大きな影響を与えた。
就任当初の期待と後の独裁化が対照的なリーダーとして知られる。
1965年
フェルディナンド・マルコス
フィリピン大統領
1988年
長谷川峻法務大臣がリクルート事件に関連して、リクルートからの政治献金発覚をうけて辞任。わずか4日で辞任という戦後最短の閣僚となる。
1988年12月30日、長谷川峻法務大臣がリクルート事件の政治献金問題で就任からわずか4日で辞任した。
リクルート事件とはリクルート社による政治家への未公開株提供問題。
当時法務大臣に就任した長谷川峻は、野党調査で自らもリクルート社から献金を受けていた事実が発覚。
1988年12月30日、就任4日目に辞任を余儀なくされ、戦後最短在任記録を更新。
この辞任は政治不信を象徴する出来事となり、その後の政治改革議論にも影響を与えた。
リクルート事件は日本の汚職問題の代表例として記憶されている。
長谷川峻
法務大臣
リクルート事件
リクルート
閣僚
1993年
イスラエルとバチカンが国交樹立の合意書に調印。
1993年12月30日、イスラエルとバチカンが歴史的に初の国交樹立に合意した。
1993年12月30日、イスラエル国とバチカン市国が正式に国交樹立の合意書に調印。
ユダヤ教とカトリック教会の間で50年以上続いた外交関係不在に終止符を打った。
合意は宗教的寛容と中東和平プロセスへの後押しと位置づけられ、国際社会から歓迎された。
バチカンはユダヤ人に対する歴史的な教会の立場を見直し、和解の象徴ともなった。
両国の関係樹立は宗教外交の重要事例として評価されている。
1993年
イスラエル
バチカン
国交
2006年
サッダーム・フセイン元イラク共和国大統領の死刑執行。
2006年12月30日に元イラク大統領サッダーム・フセインの死刑が執行されました。
サッダーム・フセインは1980年代からイラクを統治し、湾岸戦争や2003年のイラク戦争で国際的に注目された独裁者です。
2003年の米英主導の軍事介入により失脚し、2003年12月にクウェート侵攻罪などで拘束されました。
イラク特別法廷で裁判が行われ、2006年11月に大量虐殺罪などで死刑判決が確定しました。
12月30日にバグダッド郊外で絞首刑が執行され、世界中で賛否両論の声が上がりました。
彼の処刑はイラク国内の治安情勢や宗派対立に影響を与え、地域の不安定化を深める一因ともなりました。
2006年
サッダーム・フセイン
イラク共和国
大統領
死刑