1370年
グレゴリウス11世がローマ教皇に即位。
1370年にピエール・ロジェ・ド・ボーフォールがグレゴリウス11世としてローマ教皇に即位し、アヴィニョン教皇庁期の終焉を迎えました。
ピエール・ロジェ・ド・ボーフォールはアヴィニョン出身の枢機卿で、グレゴリウス11世として、1370年12月30日にローマ教皇に選出されました。
彼はアヴィニョンにあった教皇庁をローマに戻すことを決意し、1377年にローマ帰還を果たしました。
これにより約七十年続いたアヴィニョン教皇庁期が終わり、ルネサンス期における教皇権の強化が促されました。
グレゴリウス11世の治世は短かったものの、教会改革への布石となり、後の教皇たちに大きな影響を与えました。
彼の死後、教会は分裂する教会大分裂(大シスマ)へと突入しました。
1370年
グレゴリウス11世
ローマ教皇
1460年
薔薇戦争: ウェイクフィールドの戦い。ランカスター派勝利、ヨーク公リチャードとソールズベリー伯リチャード・ネヴィルが殺害される。
薔薇戦争中の1460年、ランカスター派がウェイクフィールドの戦いで勝利し、ヨーク公リチャードとソールズベリー伯リチャード・ネヴィルが討たれました。
薔薇戦争は15世紀イングランドでランカスター家とヨーク家が王位継承を巡り争った内乱です。
1460年12月30日のウェイクフィールドの戦いでは、ランカスター派が奇襲を仕掛けヨーク公リチャードらを討ち取りました。
この勝利によりランカスター派は優位に立ち、一時的にヘンリー6世の王位が強固になりました。
敗れたヨーク公は戦殺され、その死はヨーク派の結束を促しました。
この戦いは戦争の帰趨を左右し、後のエドワード4世の即位へとつながりました。
1460年
薔薇戦争
ウェイクフィールドの戦い
1853年
アメリカ合衆国が現在のアリゾナ州南部およびニューメキシコ州にあたる地域をメキシコから購入することで両国が合意(ガズデン購入)。
1853年、アメリカ合衆国がメキシコからガズデン購入で現在のアリゾナ州南部とニューメキシコ州の一部を取得しました。
ガズデン購入は、1853年12月30日にアメリカとメキシコ間で締結された土地売買条約です。
当時米国国務長官ジェームズ・G・ビュートンが交渉を担当し、約1000万ドルで2万7000平方キロを取得しました。
この地域は南部横断鉄道の建設ルートとして重要視され、西部開拓を加速させました。
条約は翌年上院で批准され、アメリカ南西部の現在の国境線がほぼ確定しました。
ガズデン購入は米墨関係に長期的な影響を与え、鉄道網拡大の鍵となりました。
1853年
アメリカ合衆国
アリゾナ州
ニューメキシコ州
メキシコ
ガズデン購入
1877年
ヨハネス・ブラームスの『交響曲第2番』が初演。
1877年、ブラームスの交響曲第2番がウィーンで初演され、その温かく田園的な雰囲気が奏でられました。
交響曲第2番はブラームスが夏季を過ごしたオーストリアの山荘で作曲を進めた作品です。
1877年12月30日、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によりハンス・リヒターの指揮で初演されました。
第1楽章から第4楽章まで、明るくのびやかな旋律と豊かなハーモニーが特色です。
田園的な要素が随所に散りばめられ、聴衆を自然の風景へ誘いました。
この作品はブラームスの交響曲の中でも親しみやすい作風と評価されています。
1877年
ヨハネス・ブラームス
交響曲第2番
1884年
アントン・ブルックナーの『交響曲第7番』が初演。
1884年、ブルックナーの交響曲第7番がライプツィヒで初演され、ワーグナーへの敬意を込めた壮大な音楽が響き渡りました。
交響曲第7番はブルックナーがリヒャルト・ワーグナーへの献辞を込めて作曲した代表作です。
1884年12月30日、ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団によりアルトゥール・ニキシュ指揮で初演されました。
第1楽章は荘厳な主題で幕を開け、第2楽章のアダジオは深い祈りのような静謐さが感じられます。
最終楽章では力強いクライマックスを迎え、観客に強い印象を残しました。
この交響曲は後世に大きな影響を与え、20世紀の作曲家たちにも賞賛され続けています。
1884年
アントン・ブルックナー
交響曲第7番
1889年
日本で決闘罪ニ関スル件公布。
1889年、日本で決闘罪を定める法令『決闘罪ニ関スル件』が公布され、武士の決闘慣習が禁止されました。
明治22年(1889年)12月30日、明治政府は近代刑法制定に先立ち『決闘罪ニ関スル件』を公布しました。
これにより公然の決闘行為は犯罪とされ、罰金や懲役が科されることになりました。
従来の武士階級における名誉のための決闘慣習が法的に否定され、近代国家としての治安維持が図られました。
本法令は後の大日本帝国刑法(明治39年)に統合され、刑事法制の整備に寄与しました。
これにより日本社会は西洋型の法秩序を受け入れ、社会の近代化が一歩進みました。
1889年
決闘罪ニ関スル件
1896年
フィリピンの独立運動家・ホセ・リサールが処刑される。
1896年、フィリピン独立運動家ホセ・リサールがスペイン当局により処刑され、民族運動に大きな衝撃を与えました。
ホセ・リサールはフィリピンの知識人で、小説『ノリ・メ・タンゲレ』などを通じてスペイン統治の矛盾を批判しました。
1896年12月30日、マニラ市内で反乱教唆の容疑により銃殺刑に処されました。
彼の死は抗スペイン抵抗運動の象徴となり、フィリピン革命の火付け役となりました。
現在もリサールはフィリピンの国民的英雄として敬愛され、多くの記念碑や施設が彼を称えています。
彼の思想と行動は東南アジアにおける反植民地運動にも影響を与えました。
1896年
フィリピン
ホセ・リサール
1901年
相馬愛蔵・黒光夫妻がパン屋・中村屋を創業。
1901年、相馬愛蔵と妻の黒光が東京・上野でパン店『中村屋』を創業し、日本に洋菓子文化を広めました。
1901年12月30日、東京・上野で相馬愛蔵と妻の黒光がパンと洋菓子の店『中村屋』を創業しました。
彼らは西洋の製パン技術を取り入れ、一般庶民にも手軽な洋菓子やパンを提供しました。
後にカレーパンやインドカレーなど多彩なメニューを開発し、日本の食文化に新風を吹き込みました。
店は庶民の憩いの場として人気を博し、のちに菓子・飲食業へと事業を拡大しました。
現在でも老舗として高い評価を受けています。
1901年
相馬愛蔵
黒光
中村屋
1903年
シカゴ・イロコイ劇場火災。避難時の混乱により死者602人・負傷者250人の大惨事となる。
1903年、シカゴ・イロコイ劇場で発生した火災により602人が死亡し、米国劇場史上最悪の惨事となりました。
イロコイ劇場は1903年11月に開場したばかりの最新式劇場でした。
12月30日、本番中に舞台装置の火花がカーテンに引火し火災が発生しました。
非常口の案内表示不足や扉の構造不良で避難が混乱し、多数の観客が圧死や窒息で犠牲となりました。
死者数602人、負傷者250人以上と記録され、劇場の安全基準見直しを促す契機となりました。
この惨事は米国の建築・防火規制強化に大きく寄与しました。
1903年
シカゴ
1905年
フランツ・レハールのオペレッタ『メリー・ウィドウ』が初演。
1905年、レハールのオペレッタ『メリー・ウィドウ』がウィーンで初演され大ヒットしました。
オペレッタ『メリー・ウィドウ』はレハールが作曲し、ヴィクトール・レオンとレオ・シュタインが台本を手がけました。
1905年12月30日、ウィーンのアンダー・デア・ヴィーン座で初演され、その華やかな楽曲と舞台演出が話題を呼びました。
主題曲『ヴィルジャの歌』など魅力的な曲が続き、ヨーロッパ各地に瞬く間に広まりました。
『メリー・ウィドウ』はその後も世界中で上演され、オペレッタの金字塔とされる作品となりました。
この成功によりレハールは一躍欧州オペレッタ界のスター作曲家となりました。
1905年
フランツ・レハール
オペレッタ
メリー・ウィドウ
1906年
全インド・ムスリム連盟結成。
英領インドでムスリムの政治的利益を代表する組織、全インド・ムスリム連盟が結成されました。
1906年12月30日、現在のバングラデシュ・ダッカでムハンマド教育会議の会合中に結成が提案された。
ナワーブ・サリムッラー・ハーンら指導者によって設立され、英領インドにおけるムスリムの権益保護を目的とした。
ヒンドゥー多数派を背景とするインド国民会議に対抗し、ムスリムの政治的発言力強化を図った。
連盟は教育・経済・政治など多彩な活動を行い、後のパキスタン建国運動に大きな影響を与えた。
1947年のパキスタン分離独立後も存続し、その理念は南アジアの歴史に刻まれています。
1906年
全インド・ムスリム連盟
1914年
青函航路で鉄道車両の航送を開始。当初はハシケを用いた航送であった。
青函航路で鉄道車両の海上輸送が開始され、本格的な鉄道連絡の一歩となりました。
1914年12月30日、青函航路で鉄道車両の航送が正式に始まりました。
当初は蒸気機関車などをハシケと呼ばれる平底船に載せて運搬する方式が採用。
極寒の津軽海峡を越えて鉄道車両を移動させる技術的・運用上の試みでした。
この航送により本州と北海道間の貨物輸送効率が向上し、経済交流の促進につながった。
後に専用船舶の導入やスクリュー式フェリーへの切り替えが進み、サービスはさらに拡充しました。
1914年
青函航路
ハシケ