1170年

カンタベリー大司教トマス・ベケットがイングランド王ヘンリー2世の部下により暗殺。

1170年12月29日、カンタベリー大司教トマス・ベケットがヘンリー2世の支持者により暗殺されました。
1170年、ヘンリー2世と教会権威の対立が深刻化する中、カンタベリー大司教トマス・ベケットは教会の自立を主張しました。 数々の摩擦を経て、王は「この僧侶を除いてくれ」との発言をし、それを聞いた支持者たちが行動に移します。 同年12月29日、ベケットはカンタベリー大聖堂内で王の騎士団により暗殺されました。 彼の死はヨーロッパ中に衝撃を与え、教会権力の象徴的な殉教となりました。 数年後、ベケットは聖人として列聖され、カンタベリー大聖堂は巡礼地として栄えました。
1170年 カンタベリー大司教 トマス・ベケット イングランド ヘンリー2世
1786年

フランス革命: 最後の名士会が召集される。

1786年12月29日、財政難に直面するフランス王政下で最後の名士会が召集されました。
ルイ16世治下の財政難に対応するため、1786年12月29日に最後の名士会が召集されました。 貴族や高位聖職者たちは税制改革案を審議しましたが、多くが特権階級の利益を守る立場をとりました。 改革案の頓挫は国民の不満を高め、後に全国三部会開催の決定を促します。 この動きが1789年のフランス革命の大きなきっかけとなり、王政崩壊への道が開かれました。 名士会の召集は、旧体制の終焉を象徴する歴史的事件として記憶されています。
1786年 フランス革命 名士会
1845年

テキサス併合: テキサス共和国がアメリカ合衆国に併合され、28番目の州・テキサス州となる。

1845年12月29日、テキサス共和国がアメリカ合衆国に編入され、28番目の州となりました。
アメリカ合衆国への加盟を目指していたテキサス共和国は、連邦議会での討議を経て1845年12月29日に正式に併合されました。 これによりテキサスは合衆国の28番目の州(テキサス州)となりました。 併合は南北戦争の背景にも影響を与え、領土拡大と奴隷制問題の対立を深めました。 テキサスの加入は西部開拓を加速させ、独自の歴史と文化を持つ地域として成長しました。 今日のテキサス州はアメリカで2番目に人口が多い州として知られています。
1845年 テキサス併合 テキサス共和国 アメリカ合衆国 テキサス州
1911年

モンゴル(ボグド・ハーン政権)が清からの独立を宣言。

1911年12月29日、モンゴルのボグド・ハーン政権が清からの独立を宣言しました。
清末の混乱期を背景に、1911年12月29日、モンゴル高原ではボグド・ハーンを指導者とするモンゴル政権が清からの独立を公式に宣言しました。 この動きは辛亥革命と連動し、外モンゴルの自治権拡大をもたらしました。 独立宣言後、モンゴルはロシア帝国の保護下に入り、1915年には中露協定で主権が承認されました。 しかしその後、中国の反発と内政問題により、完全な独立は暫定的なものとなり、1924年の人民共和国成立へとつながります。 この出来事はモンゴル民族の国家意識形成に大きな転換点となりました。
1911年 モンゴル ボグド・ハーン政権
1920年

フランス社会党が分裂。多数派がフランス共産党を結成しコミンテルンに加盟。

1920年12月29日、フランス社会党が分裂し、多数派がフランス共産党を結成しました。
第一次世界大戦後の社会主義運動の分岐点として、1920年12月29日にフランス社会党(SFIO)は大会でコミンテルン加盟を巡り激しい論争が起きました。 その結果、マルクス主義者を中心とする多数派が離脱し、フランス共産党(PCF)を結成しました。 新党はコミンテルンへ加盟し、国際共産主義運動の一翼を担う存在となりました。 一方、残留したSFIOは改良主義路線を維持し、戦間期のフランス政治における二大社会主義勢力として併存します。 この分裂はフランスの労働運動と政治地図に永続的な影響を与えました。
1920年 フランス社会党 フランス共産党 コミンテルン
1928年

易幟。奉天派を率いていた張学良が、北洋政府の五色旗を国民政府の青天白日満地紅旗に替え、降伏の意を示す。蔣介石の北伐が終了し、中国国民党が中国を統一。

1928年12月29日、張学良が奉天派の旗を下ろし、国民政府の青天白日満地紅旗を掲げて北伐が終了しました。
1928年、国民革命軍による北伐が進行する中、奉天派を率いていた張学良は12月29日に奉天(現在の瀋陽)で降伏を表明しました。 彼は北洋政府の五色旗を下ろし、国民政府の青天白日満地紅旗を掲げる「易幟」を行いました。 これにより蒋介石率いる中国国民党が象徴的に中国全土の統一を達成し、南京に国民政府を樹立します。 易幟は中国近代史における重要な政治的転換点とされ、国民政府の正統性を国内外に示しました。 その後の中国は国民党政権下で近代化政策を進めることとなります。
1928年 易幟 奉天派 張学良 北洋政府 国民政府 青天白日満地紅旗 蔣介石 北伐
1934年

日本がワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告。

日本がワシントン海軍軍縮条約の破棄をアメリカに通告し、国際軍縮体制に異議を唱えた。
1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約は主要海軍国間の軍備制限を定めた。 日本は条約発効以降、軍備制限への不満を強めていた。 1934年12月29日、破棄通告をアメリカに行い、条約脱退の意向を公式に表明した。 この通告は国際的な軍拡競争の再燃を招き、太平洋地域の緊張を高める転機となった。 以降の海軍増強が日中戦線や太平洋戦争への歩みを加速させる一因となった。
1934年 ワシントン海軍軍縮条約
1937年

アイルランド自由国で新憲法が施行。アイルランド(エール)に改称し、英連邦王国から共和国に移行。

アイルランド自由国で新憲法が施行され、国名をアイルランド(エール)に変更し共和制へ移行した。
1937年12月29日、アイルランド自由国は新憲法を施行し、国号をアイルランド(エール)に改めた。 新憲法では大統領を元首とする共和制を採用し、議会制度や司法の独立強化が図られた。 イギリス国王は形式的な地位を失い、国家主権の全面的確立を明確にした。 この改革は英連邦王国からの実質的な脱却を意味し、国際社会での独立性を高めた。 後に続く内政・外交政策にも大きな影響を及ぼし、現代アイルランドの基盤となった。
1937年 アイルランド自由国 アイルランド 英連邦王国
1959年

第34国会召集(1960年7月15日閉会)。

第34回国会が召集され、翌年夏までの重要法案審議が開始された。
1959年12月29日、第34回国会が召集され、各種法案や外交問題の審議が始まった。 会期は1960年7月15日までとされ、予算審議や条約承認など多岐にわたる議論が行われた。 国内復興や社会保障、教育改革に関する重要法案が審査対象となった。 日米安全保障条約改定を巡る論争も激しく、政局への影響が注目された。 活発な質疑応答と委員会審議を経て、多くの政策が成立または廃案となった。
1978年

スペインで1978年憲法が発効。

1978年12月29日にスペインで新憲法が施行され、民主的な立憲君主制への移行が正式に開始されました。
スペインは長年のフランコ独裁体制を経て、民主化への歩みを進めていました。 1978年10月に国民投票で承認された新憲法が同年12月29日に発効し、立憲君主制と議会制民主主義を定めました。 憲法は地域の自主管理権を認め、カタルーニャやバスクなど州の自治拡大を規定しました。 また、基本的人権や労働者の権利、言論の自由を明確に保障し、現代スペイン国家の法的基盤を築きました。 この憲法は現在も改正を重ねながら、スペインの民主主義と統合の象徴となっています。
1978年 スペイン 1978年憲法
1992年

ブラジル大統領フェルナンド・コロール・デ・メロが辞任。

1992年12月29日、ブラジル大統領フェルナンド・コロール・デ・メロが汚職疑惑を受けて辞任しました。
フェルナンド・コロール・デ・メロは1989年の大統領選で初の直接選挙で当選し、改革への期待が高まりました。 しかし在任中に側近による贈収賄事件(“マネーランド”疑惑)が発覚し、議会で弾劾手続きが進行しました。 証拠資料として使途不明金の報告書が示され、世論の批判が頂点に達しました。 弾劾裁判を前に1992年12月29日に自主辞任し、副大統領イタマール・フランコが大統領職を引き継ぎました。 コロールは8年間の公民権剥奪処分を受けましたが、後に政治活動に復帰しています。
1992年 ブラジル大統領 フェルナンド・コロール・デ・メロ
2009年

中国が麻薬密輸罪でイギリス人の死刑執行。

中国政府が麻薬密輸罪で英国人を死刑執行した。
中国では麻薬密輸に対して厳罰が科されており、2009年12月29日にイギリス人が麻薬密輸罪で死刑を執行されました。この処罰は中国の法制度と国際的な人権基準との対立を浮き彫りにし、多くの人権団体や英国政府から抗議の声が上がりました。被害者の氏名や詳細は公表されていないものの、国際刑事司法における法の適用基準が議論されました。事件は中国の対外政策や司法改革のあり方にも影響を与え、現在に至るまで稀有なケースとして記録されています。また、この事案は外国人に対する死刑適用の是非についても世界的な注目を集めました。
2009年 中国 麻薬