元亨元年12月28日

後醍醐天皇が、後宇多法皇の院政を廃して親政を敷く。

後醍醐天皇が院政を廃止し、親政を開始した日。
1321年、後醍醐天皇は父である後宇多上皇が行っていた院政を廃止し、朝廷の実権を取り戻しました。 これにより日本の政治は院政体制から天皇直接の統治へと大きく転換します。 後醍醐天皇は改革を進め、文武両道の重視や中央集権化に努めました。 しかし朝廷内外の反発や武士階級との対立が深まり、後に建武の新政へとつながる混乱期の始まりともなります。 この決断は日本中世史における重要な転換点として評価されています。
1321年 元亨 12月28日 後醍醐天皇 後宇多法皇 院政 親政
1767年

タイのトンブリー王朝初代国王タークシンが戴冠。

タイのトンブリー王朝初代国王タークシンが戴冠した日。
1767年、ビルマ軍に滅ぼされたアユタヤ王朝の復興を目指し、タークシンはトンブリーで即位しました。 彼はその後『タークシン大王』と呼ばれ、国内の各地を統一してシャン州などを再征服しました。 トンブリーを新たな都と定めた彼の統治は、タイの国家再編と西洋との交易の発展を促します。 タークシンの即位はビルマ支配からの解放を象徴し、後のチャクリー王朝成立への礎となりました。 その勇猛果敢なリーダーシップはタイ民族の誇りとされています。
1767年 タイ トンブリー王朝 タークシン
1832年

アメリカ合衆国副大統領ジョン・カルフーンが上院議員に転出するため、史上初めて副大統領を辞任。

ジョン・カルフーンが上院議員に就任するため、副大統領を史上初めて辞任した日。
1832年、当時のアメリカ副大統領ジョン・C・カルフーンは自身の地元サウスカロライナ州選出の上院議員に転出するため、副大統領を辞任しました。 これはアメリカ史上初めての副大統領辞任であり、政界の異例ともいえるキャリア移行でした。 カルフーンは南部州権論を代表する政治家であり、『無効化権』論争などで重要な役割を果たしました。 退任後も上院議員として長く活動を続け、南北戦争前夜の政治的緊張を高めた立役者の一人とされます。 彼の辞職は政務と私選挙の関係性を問い直す契機ともなりました。
1832年 アメリカ合衆国副大統領 ジョン・カルフーン
1836年

スペインがサンタマリア・カラトラバ条約に調印し、メキシコの独立を承認。これによりメキシコは、主権を宣言したスペインの最初の植民地になる。

スペインがサンタマリア・カラトラバ条約に調印し、メキシコの独立を承認した日。
1836年、スペイン政府はサンタマリア・カラトラバ条約に調印し、ようやくメキシコの独立を正式に承認しました。 メキシコ独立戦争は1821年に終結しましたが、スペイン側の承認は長らく得られていませんでした。 この条約の締結は両国の国交を正常化し、ラテンアメリカにおけるスペイン帝国の影響力低下を象徴します。 条約の内容には領土保全や市民権の扱いなどが盛り込まれ、経済関係の再構築に道を開きました。 メキシコ側では独立後の国家建設が一層本格化し、国内政治の安定化が進みます。
1836年 スペイン サンタマリア・カラトラバ条約 英語版 メキシコ
1846年

アイオワ準州が州に昇格し、アメリカ合衆国29番目の州・アイオワ州となる。

アイオワ準州が州に昇格し、アメリカ合衆国29番目のアイオワ州が誕生した日。
1846年、アメリカ合衆国議会はアイオワ準州を州として認可し、アイオワ州が正式に成立しました。 中西部に位置するアイオワは農業を中心とした地域で、豊かな土壌が移民の注目を集めていました。 州昇格に伴い、州憲法が制定され、議会や行政機構が整備されていきます。 この動きは『マニフェスト・デスティニー』と呼ばれる西部開拓の潮流の一環とされています。 アイオワ州は後にトウモロコシや豚肉の生産で全米有数の農業州となりました。
1846年 アイオワ準州 アメリカ合衆国 アイオワ州
1885年

イギリス領インド帝国でインド国民会議結成。

イギリス領インド帝国でインド国民会議が結成された日。
1885年12月28日、インド独立への足掛かりとなるインド国民会議が初めて組織されました。 設立を提唱したのはイギリス人行政官A.O.ハミルトンとインドの進歩的知識人たちです。 初会合には約70名の参加者が集まり、立憲改革や公共教育の拡充などを議論しました。 以後、INCは次第に穏健派から急進派へと変化し、ガンジーの非暴力運動を通じて独立運動を牽引します。 現在ではインド最大の政党として、現代インド政治における重要な位置を占めています。
1885年 イギリス領インド帝国 インド国民会議
1945年

旧宗教団体法を廃止し、勅令「宗教法人令」を公布・施行。

戦後日本で旧宗教団体法を廃止し、宗教法人令を公布・施行した日。
1945年12月28日、旧宗教団体法を廃止し、勅令「宗教法人令」を公布・施行しました。 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示に応じた宗教制度改革の一環です。 新たな制度は宗教法人の設立要件を明確化し、信教の自由を保障する内容を盛り込みました。 国家管理からの脱却と宗教活動の自主性確立を目指し、戦前の統制体制を大きく見直しました。 以後の宗教法人の運営に影響を与え、現在に至る宗教法人制度の基盤となりました。
1945年 宗教法人令
1972年

北朝鮮で前日に制定された新憲法に基づき、金日成が新設の国家主席に就任。

1972年、北朝鮮は新憲法に基づき国家主席制を新設し、金日成が初代国家主席に就任しました。
1972年12月27日に制定された新憲法により、翌28日、北朝鮮は国家主席の職を新設しました。最高指導者としての地位を強化するための制度改正であり、金日成が初代国家主席に選出されました。この憲法改正により体制の一層の個人崇拝と権力集中が進められ、国家の最高権力機構が再編されました。金日成は既存の最高人民会議常任委員長職に加え、新たに国家主席として法的地位を確立し、政権運営の権限を拡大しました。これ以降、北朝鮮の政体は世襲制の色彩を強めつつ、金日成一族による支配が確立しました。
1972年 北朝鮮 新憲法 金日成 国家主席
1994年

自衛隊ルワンダ難民救援派遣が終了。

1994年、自衛隊によるルワンダ難民救援派遣が終了し、最後の部隊が帰国しました。
1994年12月28日、自衛隊のルワンダ難民救援派遣が正式に終了し、最後の部隊が帰国しました。数ヶ月にわたり国連の要請を受けて行われた支援活動では、医療支援や物資輸送を通じて現地の難民救援に貢献しました。隊員たちはキャンプでの衛生指導やインフラ整備に携わり、多くの難民の健康と生活改善に寄与しました。帰国後、得られた経験はその後の国際平和協力活動に活かされました。自衛隊による海外人道支援の一例として注目されました。
自衛隊ルワンダ難民救援派遣
1995年

前日の新進党党首選挙で羽田孜を破った小沢一郎が第2代党首に就任。

1995年、前日の党首選で小沢一郎が羽田孜を破り、新進党の第2代党首に就任しました。
1995年12月28日、新進党の党首選挙で小沢一郎が羽田孜を破り、党の第2代党首に選出されました。小沢は自民党から離脱した議員らの結集に貢献し、党内で強い支持基盤を築いていました。就任後は党の組織再編や政策立案を主導し、次期衆議院選挙への戦略を練りました。しかし党内の意見対立や結党時の理念の乖離など課題も残り、今後の党勢拡大が注目されました。新進党は1990年代の政治再編期における重要な野党勢力として位置付けられました。
1995年 新進党 羽田孜 小沢一郎
2015年

日本の外相岸田文雄と韓国外相の尹炳世が、日本軍慰安婦問題で「最終的かつ不可逆的に解決」として合意。

2015年12月28日、日本の岸田文雄外相と韓国の尹炳世外相が慰安婦問題で最終的かつ不可逆的な解決に合意しました。 歴史的課題の解消を目指す日韓の合意は、外交上の大きな一歩となりました。
慰安婦問題は第二次世界大戦中の女性慰安施設運営をめぐる深刻な人権問題。 2015年12月28日、東京で岸田文雄外相と尹炳世外相が会談を実施。 両外相は「最終的かつ不可逆的に解決する」と明記した合意文書に署名。 日本政府は10億円の拠出金を設立し、韓国側はこれを受け入れることで問題の最終的解決を確認。 この合意は日韓関係改善への布石となったが、国内外から賛否両論を呼びました。
2015年 岸田文雄 尹炳世 日本軍慰安婦問題
2024年

ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が12月25日のカザフスタンのアゼルバイジャン機墜落事故について、ロシアの防空システムによる誤射があったことを示唆する内容をアゼルバイジャンのイルハム・アリエフ大統領に電話会談で伝え、謝罪する。

2024年12月28日、プーチン大統領がカザフスタン機墜落事故についてロシア防空システムによる誤射の可能性を示唆し、アリエフ大統領に謝罪しました。
2024年12月25日にカザフスタンからアゼルバイジャンへ向かっていた旅客機が墜落し、多数の犠牲者が出ました。 12月28日、ウラジーミル・プーチン大統領はイルハム・アリエフ大統領に電話会談を行い、ロシアの防空システムによる誤射の可能性を示唆。 その上で、誤射が事実であれば深く謝罪すると表明しました。 両国首脳による直接的な謝罪と情報共有は、緊張緩和に向けた重要な一歩となりました。 事故原因の究明と犠牲者遺族への支援が喫緊の課題とされています。
2024年 ロシア ウラジーミル・プーチン 12月25日 カザフスタン アゼルバイジャン イルハム・アリエフ