1065年

ロンドンのウェストミンスター寺院が竣工し、聖別される。

ロンドンのウェストミンスター寺院が竣工し、聖別された日。
1065年、イングランド王エドワード懺悔王がウエストミンスター寺院の建立を完了し、聖ペテロに捧げた聖別式を執り行いました。 寺院はロマネスク様式の壮麗な建築で、その荘厳な姿が印象的です。 この出来事は後の王室の戴冠式や国葬の舞台となる伝統の始まりとなりました。 ウエストミンスター寺院は歴代国王の戴冠式をはじめ、文学者や科学者の墓所としても知られます。 現在ではユネスコ世界遺産に指定され、多くの観光客を集める歴史的名所です。
1065年 ロンドン ウェストミンスター寺院 聖別
元亨元年12月28日

後醍醐天皇が、後宇多法皇の院政を廃して親政を敷く。

後醍醐天皇が院政を廃止し、親政を開始した日。
1321年、後醍醐天皇は父である後宇多上皇が行っていた院政を廃止し、朝廷の実権を取り戻しました。 これにより日本の政治は院政体制から天皇直接の統治へと大きく転換します。 後醍醐天皇は改革を進め、文武両道の重視や中央集権化に努めました。 しかし朝廷内外の反発や武士階級との対立が深まり、後に建武の新政へとつながる混乱期の始まりともなります。 この決断は日本中世史における重要な転換点として評価されています。
1321年 元亨 12月28日 後醍醐天皇 後宇多法皇 院政 親政
1767年

タイのトンブリー王朝初代国王タークシンが戴冠。

タイのトンブリー王朝初代国王タークシンが戴冠した日。
1767年、ビルマ軍に滅ぼされたアユタヤ王朝の復興を目指し、タークシンはトンブリーで即位しました。 彼はその後『タークシン大王』と呼ばれ、国内の各地を統一してシャン州などを再征服しました。 トンブリーを新たな都と定めた彼の統治は、タイの国家再編と西洋との交易の発展を促します。 タークシンの即位はビルマ支配からの解放を象徴し、後のチャクリー王朝成立への礎となりました。 その勇猛果敢なリーダーシップはタイ民族の誇りとされています。
1767年 タイ トンブリー王朝 タークシン
1832年

アメリカ合衆国副大統領ジョン・カルフーンが上院議員に転出するため、史上初めて副大統領を辞任。

ジョン・カルフーンが上院議員に就任するため、副大統領を史上初めて辞任した日。
1832年、当時のアメリカ副大統領ジョン・C・カルフーンは自身の地元サウスカロライナ州選出の上院議員に転出するため、副大統領を辞任しました。 これはアメリカ史上初めての副大統領辞任であり、政界の異例ともいえるキャリア移行でした。 カルフーンは南部州権論を代表する政治家であり、『無効化権』論争などで重要な役割を果たしました。 退任後も上院議員として長く活動を続け、南北戦争前夜の政治的緊張を高めた立役者の一人とされます。 彼の辞職は政務と私選挙の関係性を問い直す契機ともなりました。
1832年 アメリカ合衆国副大統領 ジョン・カルフーン
1836年

スペインがサンタマリア・カラトラバ条約に調印し、メキシコの独立を承認。これによりメキシコは、主権を宣言したスペインの最初の植民地になる。

スペインがサンタマリア・カラトラバ条約に調印し、メキシコの独立を承認した日。
1836年、スペイン政府はサンタマリア・カラトラバ条約に調印し、ようやくメキシコの独立を正式に承認しました。 メキシコ独立戦争は1821年に終結しましたが、スペイン側の承認は長らく得られていませんでした。 この条約の締結は両国の国交を正常化し、ラテンアメリカにおけるスペイン帝国の影響力低下を象徴します。 条約の内容には領土保全や市民権の扱いなどが盛り込まれ、経済関係の再構築に道を開きました。 メキシコ側では独立後の国家建設が一層本格化し、国内政治の安定化が進みます。
1836年 スペイン サンタマリア・カラトラバ条約 英語版 メキシコ
1846年

アイオワ準州が州に昇格し、アメリカ合衆国29番目の州・アイオワ州となる。

アイオワ準州が州に昇格し、アメリカ合衆国29番目のアイオワ州が誕生した日。
1846年、アメリカ合衆国議会はアイオワ準州を州として認可し、アイオワ州が正式に成立しました。 中西部に位置するアイオワは農業を中心とした地域で、豊かな土壌が移民の注目を集めていました。 州昇格に伴い、州憲法が制定され、議会や行政機構が整備されていきます。 この動きは『マニフェスト・デスティニー』と呼ばれる西部開拓の潮流の一環とされています。 アイオワ州は後にトウモロコシや豚肉の生産で全米有数の農業州となりました。
1846年 アイオワ準州 アメリカ合衆国 アイオワ州
1857年

アロー戦争: 広州の戦いはじまる。

アロー戦争の広州の戦いが始まった日。
1857年、イギリス・フランス連合軍が広州を攻撃し、アロー戦争における広州の戦いが勃発しました。 清朝側との衝突は、アヘン貿易を巡る外交問題から発展した紛争の一部です。 連合軍は海上封鎖や陸上攻勢を展開し、広州港を重要拠点として制圧を目指しました。 広州攻略はアロー戦争の流れを決定づけ、清朝政府に対してさらなる屈服を迫る要因となります。 最終的に戦争は北京条約締結へとつながり、中国の国際関係に大きな影響を及ぼしました。
1857年 アロー戦争 広州の戦い
1885年

イギリス領インド帝国でインド国民会議結成。

イギリス領インド帝国でインド国民会議が結成された日。
1885年12月28日、インド独立への足掛かりとなるインド国民会議が初めて組織されました。 設立を提唱したのはイギリス人行政官A.O.ハミルトンとインドの進歩的知識人たちです。 初会合には約70名の参加者が集まり、立憲改革や公共教育の拡充などを議論しました。 以後、INCは次第に穏健派から急進派へと変化し、ガンジーの非暴力運動を通じて独立運動を牽引します。 現在ではインド最大の政党として、現代インド政治における重要な位置を占めています。
1885年 イギリス領インド帝国 インド国民会議
1888年

文部省がすべての学校に対し、毎年4月に生徒の活力検査(身体検査)を実施するよう訓令する。

文部省が全国の学校に対し、毎年4月に生徒の身体検査を義務付ける訓令を出した日。
1888年、明治政府の文部省はすべての小中学校に対し、年に一度4月に生徒の身体検査を実施するよう訓令を出しました。 これは近代教育制度の確立と国民の健康増進を目的としたもので、学校保健の先駆けとなります。 検査内容には身長・体重の測定や視力検査などが含まれ、成長障害や病気の早期発見に寄与しました。 のちに制度は拡充され予防接種や口腔検査も加えられ、現在の学校保健指導の基盤となりました。 この政策は日本の児童青少年の健康促進に大きな役割を果たしました。
1888年
1890年

ウンデット・ニーの虐殺 スー族インディアンのバンドに対して、米軍の第7騎兵連隊が行った民族浄化。

ウンデット・ニーの虐殺で第7騎兵連隊がスー族を襲撃した日。
1890年12月28日、アメリカ第7騎兵連隊が南ダコタのウンデット・ニー河畔でスー族の集落を襲撃しました。 この虐殺で女性や子供を含む約150名から300名の先住民が犠牲となり、アメリカ先住民戦争の象徴的事件となります。 事件は当初、ゴーストダンス運動の抑制を名目に始まりましたが、過剰な武力行使が批判を呼びました。 この出来事はアメリカにおける先住民政策の転換点とされ、後の同化政策強化へとつながります。 現在では和解と追悼の場として記念碑が建てられ、歴史的教訓として語り継がれています。
1890年 ウンデット・ニーの虐殺 スー族 第7騎兵連隊 民族浄化
1895年

パリでリュミエール兄弟がシネマトグラフを初めて商業公開。

リュミエール兄弟が開発した映画撮影・上映装置「シネマトグラフ」をパリで初めて有料公開した日。
1895年12月28日、パリのグラン・カフェ内サロン・インディアンで行われた初の商業上映会。 リュミエール兄弟が開発したシネマトグラフは、撮影・現像・上映を一体化した革新的な装置です。 この日上映された10本の短編作品は、観客に新しい映像体験をもたらし、入場料は1フランでした。 商業公開として世界初とされるこの興行は、映画産業の発展に決定的な役割を果たしました。 以後、映画技術と文化は急速に広まり、20世紀の大衆文化の一翼を担うまでに成長しました。
1895年 リュミエール兄弟 シネマトグラフ
1908年

メッシーナ地震。地震と津波で死者推定8万2000人。

イタリア・シチリア島で大規模な地震と津波が発生し、多くの犠牲者を出した日。
1908年12月28日にシチリア島とメッシーナで発生した大地震(Mw7.1)。 続いて高さ約10メートルの津波が沿岸部を襲い、都市や村落を一瞬で壊滅させました。 犠牲者は推定8万2000人に上り、当時の欧州史上最悪の自然災害の一つとされています。 建物の多くが石造りだったため倒壊被害が甚大となり、救援や復興には長い時間と莫大な費用を要しました。 この惨事は地震学や津波研究の重要性を浮き彫りにし、防災対策の転機となりました。
1908年 メッシーナ地震 津波