562年
558年に崩壊したコンスタンティノープルの大聖堂アヤソフィアが再建される。
ビザンツ帝国皇帝ユスティニアヌス1世の統治下で、崩壊したアヤソフィア大聖堂が再建された日です。
558年の地震で崩壊したアヤソフィア大聖堂は、皇帝ユスティニアヌス1世の命により再建作業が開始された。
562年12月24日に完成し、新たな壮麗なドームが頂部に設置された。
再建には当時の先進的な建築技術が駆使され、ビザンツ建築の代表例となった。
東ローマ帝国では宗教的・政治的中心地として機能し、西方への影響力を示す象徴となった。
その後オスマン帝国時代にモスクへと改修され、現在は博物館として世界中から観光客を集めている。
562年
558年
コンスタンティノープル
アヤソフィア
1294年
ボニファティウス8世がローマ教皇に就任。
1294年12月24日、ボニファティウス8世が第194代ローマ教皇に選出され就任した日です。
1294年12月24日にベネデット・カエターニが教皇ボニファティウス8世として選出、即位した。
彼は教皇権の強化を推進し、フランス王フィリップ4世との対立で「ウナム・サンクタム」勅書を発布した。
この勅書は教皇が聖俗両権を掌握する根拠とされ、国家権力との緊張を高めた。
また南イタリア遠征や対異教布教計画など、教会の国際的影響力拡大を試みた。
1303年にローマ近郊で没したが、その教皇権論はカトリック教会の教義形成に影響を与え続けた。
1294年
ボニファティウス8世
ローマ教皇
1777年
英国の探検家ジェームズ・クックが太平洋の小島に到着し、クリスマス島(キリスィマスィ島)と命名。
1777年12月24日、ジェームズ・クックが太平洋の島を発見しクリスマス島と命名しました。
1777年12月24日、イギリス海軍の探検家ジェームズ・クックが第3次太平洋探検航海中に南太平洋の環礁に到着した。
到着がクリスマス・イヴであったことから、島を「クリスマス島(キリスィマスィ島)」と名づけた。
島はサンゴ礁から成り、現在はキリバス共和国の一部として知られている。
クックは航海日誌に島の地理や先住民の様子を詳細に記録し、ヨーロッパに情報を伝えた。
この命名は以後、欧州の世界地図に新たに記載される契機となった。
1777年
ジェームズ・クック
キリスィマスィ島
1798年
第二次対仏大同盟結成。
1798年12月24日、ヨーロッパ列強がフランス革命政府に対抗して第二次対仏大同盟を結成しました。
1798年12月24日、イギリス、オーストリア、ロシアを中心とする第二次対仏大同盟が成立した。
フランス革命政府の拡大を抑制し、ヨーロッパの旧体制を維持することを目的として結成された同盟である。
オスマン帝国やナポリ王国、ポルトガルなども参加し、複数の戦線がイタリア半島やエジプト、ライン方面に広がった。
同盟軍はナポレオン軍と戦闘を繰り広げたが、ナポレオンの軍事的成功により次第に劣勢となった。
最終的には1802年のアミアンの和約で一旦終結し、ヨーロッパ情勢に大きな影響を与えた。
1798年
第二次対仏大同盟
1814年
米英戦争の停戦条約・ガン条約に調印。
1814年12月24日、ガン条約の調印により米英戦争が終結しました。
1814年12月24日、アメリカ合衆国とイギリス王国がベルギー(当時オランダ領)のガンにてガン条約に調印した。
この条約により米英戦争(1812年戦争)は正式に終結し、戦前の領土状況が主に維持された。
条約ではインディアン勢力保護などの問題は先送りされ、多くの根本的解決は達成されなかった。
戦闘は条約批准後も一部継続したが、約2か月後に全面的な停戦が実現した。
ガン条約はその後の米英関係改善と北米地域の安定に寄与した。
1814年
米英戦争
ガン条約
嘉永7年11月5日
安政南海地震。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日)、安政南海地震が発生しました。
1854年12月24日(嘉永7年11月5日)、駿河湾から紀伊半島沖を震源とする安政南海地震が発生した。
推定マグニチュード8級の大地震と津波により、紀伊・四国・九州南部沿岸で甚大な被害が出た。
多くの家屋が倒壊し、沿岸部では集落が津波に飲まれた記録が残っている。
江戸幕府は復旧に向けた土木工事や救援活動を実施し、後の防災対策に影響を与えた。
この地震は南海トラフ巨大地震に関する研究資料としても重要視されている。
1854年
嘉永
11月5日
安政南海地震
1871年
ヴェルディ作曲のオペラ『アイーダ』がエジプトカイロで初演。
1871年12月24日、ヴェルディ作曲のオペラ『アイーダ』がカイロで初演されました。
1871年12月24日、エジプト・カイロのケディブ劇場(カイロ・オペラハウス)でオペラ『アイーダ』が初演された。
作曲はジュゼッペ・ヴェルディ、台本はアントニオ・ギスランツォーニが手がけた。
本作はエジプト王イブラヒーム・パシャの後援を受けて制作され、特別に設計された劇場で上演された。
物語は古代エジプトを舞台に王女アイーダと将軍ラダメスの悲恋を描き、豪華な舞台演出が特徴的であった。
『アイーダ』は大成功をおさめ、その後も世界中のオペラハウスで愛されるヴェルディの代表作となった。
1871年
ヴェルディ
アイーダ
エジプト
1865年
南部連合の退役軍人らがクー・クラックス・クラン (KKK) を設立。
1865年12月24日、クー・クラックス・クラン(KKK)が設立されました。
1865年12月24日、米南北戦争終結後のテネシー州パルーキーで南部連合の退役軍人らがクー・クラックス・クランを結成した。
当初は秘密結社として構成され、黒人や共和党支持者への恐怖扇動や暴力行為を繰り返した。
初代クランの指導者には元将軍ナサニエル・ベドフォード・フォレストが名を連ねたとされる。
KKKはレコンストラクション政策に強く反発し、南部社会の白人優越主義を支える役割を果たした。
その後も組織形態を変えながら再興を繰り返し、20世紀以降の人種差別運動にも関与した。
1865年
南部連合
クー・クラックス・クラン
明治4年11月13日
宍戸・水戸・笠間・下館・下妻・松岡の各県の合併で茨城県が成立する。
1871年12月24日(明治4年11月13日)、茨城県が新たに設置されました。
1871年12月24日(明治4年11月13日)、廃藩置県に伴い宍戸・水戸・笠間・下館・下妻・松岡の6県が統合されて茨城県が設立された。
新設県は旧水戸藩領を中心に構成され、県庁は水戸に置かれた。
明治政府は地方自治体制の近代化を進めるため、この統合を実施した。
これにより、行政効率の向上や財政基盤の整備が図られた。
以降、茨城県は農業生産や鉱工業の発展を通じて日本の近代化に貢献した。
明治
11月13日
茨城県
1878年
大背美流れ
大背美流れ
1889年
日本で山縣有朋が第3代内閣総理大臣に就任し、第1次山縣内閣が発足。
明治政府の重鎮であった山縣有朋が第3代内閣総理大臣に就任し、日本の内閣制度を発展させた。
山縣有朋は陸軍大臣や内務大臣などを歴任し、政治的実力者として知られる。第1次山縣内閣は1889年12月24日に発足し、議会との対立や政治改革に取り組んだ。憲法公布後初の内閣であり、近代日本の政党政治の黎明期を迎えた。内府を中心とする官僚支配の色彩が強く、自由民権運動との緊張も抱えていた。内閣は1891年5月6日まで続き、山縣は後に再び首相を務めた。
1889年
山縣有朋
内閣総理大臣
第1次山縣内閣
1905年
京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)の品川(八ツ山橋) 神奈川間全通。
京浜急行電鉄の前身である京浜電気鉄道が品川と神奈川を結ぶ区間を全通させた。
1905年12月24日、京浜電気鉄道(現・京浜急行電鉄)が品川(八ツ山橋)-神奈川間の営業を開始した。これにより東京と神奈川を結ぶ初の本格的な電気鉄道ネットワークが完成し、通勤・通学の利便性が大きく向上した。京浜地域のベッドタウン化を後押しし、沿線開発が加速した。後に路線は延伸・複線化され、現在の京急線の礎となった。都市間短距離輸送の先駆けとして高く評価される。
1905年
京浜急行電鉄
神奈川