69年

「四皇帝の年」における三番目のローマ皇帝アウルス・ウィテッリウスがウェスパシアヌス軍に捕らえられ殺害される。

69年の「四皇帝の年」に、三番目の皇帝ウィテッリウスがウェスパシアヌス軍に捕らえられ、処刑されました。
四皇帝の年はネロ没後の政情不安期であり、複数の皇帝が交代で即位しました。 ウィテッリウスはオトの死後に皇帝に就いたものの、ウェスパシアヌスの反乱軍との対立を避けられませんでした。 決戦後、ローマに入城したウェスパシアヌス軍に囚われ、暴行を受けた末に処刑されました。 この事件によりフラウィウス朝が開かれ、帝国の権力構造は大きく変化しました。 ローマ帝政期における軍事クーデターの代表例として知られます。
69年 四皇帝の年 アウルス・ウィテッリウス ウェスパシアヌス
1135年

ブローニュ伯エティエンヌがスティーブン王としてイングランド王に就任し戴冠式を行った。

1135年、ブローニュ伯エティエンヌがスティーブン王としてイングランド王位に即位し、戴冠式を挙げました。
ウィリアム1世の孫にあたるエティエンヌは、ヘンリー1世の死後の王位継承争いで支持を集めました。 彼はウェストミンスター寺院で戴冠式を行い、スティーブン王として正式に即位しました。 しかしその治世は「無政府時代(The Anarchy)」と呼ばれる内乱期に突入しました。 貴族間の抗争が激化し、国政の混乱が長期化したのです。 この出来事は中世イングランド史における重要な転機となりました。
1135年 ブローニュ伯 英語版 エティエンヌ イングランド王
文治元年11月29日

鎌倉幕府による守護・地頭の設置が後白河法皇によって正式に認められる。

1185年、鎌倉幕府が配置した守護・地頭が後白河法皇によって正式に承認されました。
源頼朝が設立した鎌倉幕府は、国内統治のため守護・地頭を置いていました。 文治元年11月29日、後白河法皇はその制度を公認し、幕府の統治権が法的に裏付けられました。 守護は国衙の治安維持を、地頭は荘園や公領の管理を担う役職です。 この公認を通じて武家政権としての基盤が強化されました。 日本の武家政治の礎が築かれた歴史的な出来事です。
1185年 文治 11月29日 鎌倉幕府 守護 地頭 後白河法皇
1216年

ローマ教皇ホノリウス3世がドミニコ修道会を承認。

1216年、教皇ホノリウス3世がドミニコ修道会の設立を正式に承認しました。
スペインの司祭ドミニコ・デ・グスマンが創設したドミニコ修道会は、学問と説教を重視しました。 1216年にホノリウス3世の承認を得て、カトリック教会内で新たな修道会として認められました。 彼らは異端の防止や教育活動に尽力し、中世ヨーロッパの知的文化に大きな影響を与えました。 後の神学や哲学の発展にも寄与し、修道会は長く教会教育の中心的存在となりました。
1216年 ホノリウス3世 ドミニコ修道会
寛永6年11月8日

紫衣事件で後水尾天皇が明正天皇に譲位。称徳天皇以来859年ぶりの女性天皇が誕生。

1629年の紫衣事件を契機に後水尾天皇が譲位し、859年ぶりに明正天皇として女性天皇が即位しました。
江戸幕府と朝廷の権力抗争の一環である紫衣事件が発端となりました。 幕府は天皇家の紫の衣服着用を禁じた布衣禁制を強化し、後水尾天皇は反発しました。 結果として1629年12月22日、天皇は譲位を余儀なくされ、幼少の孫明正天皇が即位しました。 明正天皇の即位は称徳天皇以来約859年ぶりの女性天皇の復活であり、話題となりました。 この事件は天皇と幕府の関係を象徴的に示す重要な出来事です。
1629年 寛永 11月8日 紫衣事件 後水尾天皇 明正天皇 称徳天皇 女性天皇
1808年

ベートーヴェンの交響曲第5番・第6番がウィーンで初演。

1808年、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」と第6番「田園」がウィーンで同日に初演されました。
1808年12月22日、ウィーンの劇場で行われた演奏会で両作品が同時に初演されました。 5番「運命」は劇的な動機による構成、6番「田園」は自然への賛歌として知られています。 会場は寒さと長時間の演奏で過酷な環境でしたが、聴衆は革新的な音楽に魅了されました。 このコンサートはベートーヴェンの創造力を象徴し、後世の交響曲作曲家に多大な影響を与えました。
1808年 ベートーヴェン 交響曲第5番 第6番 ウィーン 初演
1849年

フョードル・ドストエフスキーが死刑執行直前に特赦が与えられ、シベリアへの流刑に減刑になる。

1849年、ドストエフスキーは死刑執行直前に恩赦を受け、シベリア流刑へと減刑されました。
反政府活動で逮捕されたドストエフスキーは死刑判決を受けました。 1849年12月22日、処刑台に赴く直前で恩赦が下り、刑はシベリア流刑に変更されました。 厳しい塩坑労働と孤立は彼の世界観と文学に深い影響を与えました。 帰国後の著作には人間の苦悩と贖罪を扱う作品が多く、世界文学に不朽の名作を残しました。
1849年 フョードル・ドストエフスキー
1885年

日本で内閣制度が発足。伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任して、第1次伊藤内閣を組閣。また、それに伴い官営鉄道の運営母体が「工部省鉄道局」から内閣所属「鉄道局」へと改組。

1885年に日本で内閣制度が導入され、伊藤博文が初代総理大臣に就任。併せて鉄道局の組織改編も行われました。
明治18年(1885年)12月22日、太政官制を廃し内閣制度が正式に発足しました。 初代総理大臣には伊藤博文が任命され、近代的な行政機構の基盤が整備されました。 同日、官営鉄道の運営主体が工部省鉄道局から内閣所属の鉄道局へ改組されました。 これにより鉄道政策は中央政府直轄の下で推進されることになりました。 近代国家への転換を象徴する重要な制度改革です。
1885年 内閣 伊藤博文 内閣総理大臣 第1次伊藤内閣
1891年

日本の帝国議会で樺山資紀海相がいわゆる「蛮勇演説」を行う。

1891年、帝国議会において海相樺山資紀が「蛮勇演説」と呼ばれる強硬な演説を行いました。
第4議会開会中の1891年12月22日、海軍大臣樺山資紀は国防予算を巡って激しい演説を展開しました。 彼の直截的かつ強硬な発言は与野党を問わず議場を驚かせ、「蛮勇演説」と称されました。 この演説は言論統制や議会政治のあり方に関する議論を呼び起こしました。 後に樺山は海軍大臣を辞任し、政治的評価に影響を残しました。 近代日本の議会政治史における名場面の一つです。
1891年 帝国議会 樺山資紀 海相 蛮勇演説
1894年

ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』が初演。

1894年、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』が初演され、印象主義音楽の新境地を開きました。
詩人マラルメの同名詩に触発された本作品は、1894年12月22日に初演されました。 冒頭のフルート独奏による印象的なモチーフが特徴で、色彩的なオーケストレーションが展開します。 従来の調性や形式にとらわれない自由な構成は西洋音楽に革新をもたらしました。 本作は印象主義音楽を象徴する名曲として、後世の作曲家や聴衆に大きな影響を与えました。 現在も世界中で高く評価され続けています。
1894年 ドビュッシー 牧神の午後への前奏曲
1895年

野中到・千代子夫妻、冬季富士山頂における連続気象観測中、病に倒れる。救援隊の助けにより下山を開始。

1895年、野中到・千代子夫妻は冬の富士山頂での気象観測中に体調を崩し、救援隊の助けで無事に下山を開始した出来事です。
1895年12月22日、日本の登山家・野中到とその妻・千代子は、富士山頂にて冬季連続気象観測を行っていた極寒の環境下で高山病と低体温症を発症しました。救援要請を受けた隊が到着し、彼らは担架で安全に下山することができました。この試みは日本における冬山気象観測の先駆的な例とされ、後の山岳気象研究に大きな影響を与えました。野中夫妻が残した観測データは、近代日本の気象学史において貴重な資料となっています。過酷な条件下での挑戦は、日本の登山史にも深い足跡を残しました。
1895年 野中到
1902年

年齢計算ニ関スル法律施行。それまでの数え年に代えて、満年齢を使用するよう定められる。

1902年に年齢計算ニ関スル法律が施行され、従来の数え年から満年齢への切り替えが定められました。
1902年12月22日、明治政府は「年齢計算ニ関スル法律」を施行しました。それまで日本では生まれた年を1歳とする数え年が一般的でしたが、本法律により誕生日を基準とする満年齢の使用が義務付けられました。これにより戸籍や行政手続きにおける年齢計算の正確性が向上し、国際基準にも近づきました。また、数え年は一部の慣習行事で限定的に残るものの、公式文書では満年齢が標準となりました。本法律は現代の年齢表記制度の基盤を築いた重要な改革とされています。
1902年 年齢計算ニ関スル法律 数え年 満年齢