217年
ローマ教皇ゼフィリヌスが死去。カリストゥス1世が後任に選出されるが、神学者ヒッポリュトスに反対される。
217年12月20日、ローマ教皇ゼフィリヌスが没し、カリストゥス1世が選出されるも神学者ヒッポリュトスの反対に遭いました。
ゼフィリヌスは217年から教皇職を担い、キリスト教教義の統一と組織の安定に尽力しました。
彼の死去により、カリストゥス1世が後任に選出されます。
カリストゥス1世は貧者救済や教会権限の強化を推進しました。
しかし、著名神学者ヒッポリュトスが教義上の見解を巡り異議を唱えました。
この対立は初期キリスト教における正統性と教皇権の位置付けを巡る重要な論争となりました。
217年
ローマ教皇
ゼフィリヌス
カリストゥス1世
ヒッポリュトス
1582年
フランスがグレゴリオ暦を採用する(後に中断)。
1582年12月20日、フランス王国はグレゴリオ暦を正式に採用しました。
グレゴリオ暦はローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の誤差を修正して制定した暦法です。
1582年に教皇庁が最初に導入し、その後ヨーロッパ各国が順次採用していきました。
フランスはイタリアやスペインに続き12月20日に切り替えを実施しました。
しかし宗教的・政治的背景から一部地域では反発や一時的な中断も発生しました。
最終的にフランス全土で新暦が定着したのは数年後のこととされています。
1582年
グレゴリオ暦
康熙61年11月13日
清で康熙帝が没し雍正帝が即位。
康熙61年12月20日(1722年)、清の康熙帝が崩御し、雍正帝が即位しました。
康熙帝は在位64年にわたり清朝を治め、国家統一と文教政策を推進しました。
彼の治世で清朝は最大の版図を誇り、多民族国家としての基盤を築きます。
康熙帝の崩御後、第三子の胤禛が雍正帝として皇位を継承しました。
雍正帝は財政再建と官僚機構の改革に着手し、乾隆帝時代の繁栄への道を開きます。
この継承劇は宮廷内の権力闘争と後継者選定の問題を浮き彫りにしました。
1722年
康熙
11月13日
清
康熙帝
雍正帝
1830年
ベルギー独立革命: イギリス・フランスなど列国がベルギーのネーデルラント連合王国からの独立を承認。
1830年12月20日、イギリスとフランスなど列強がベルギーの独立を承認しました。
ベルギー独立革命は1830年にネーデルラント連合王国からの分離を目指して勃発しました。
12月20日にイギリス、フランスをはじめとする主要列強が新国家の独立を公式に認めます。
これによりベルギーはヨーロッパの国際秩序において独立王国として地位を確立しました。
列強はベルギーの中立維持を条件とし、ヨーロッパの勢力均衡に一役買いました。
翌1831年にはレオポルト1世が初代ベルギー王に就任し、近代国家の礎を築きました。
1830年
ベルギー独立革命
ベルギー
ネーデルラント連合王国
独立を承認
1848年
ルイ・ナポレオンがフランス第二共和政大統領に就任。
1848年12月20日、ルイ・ナポレオン・ボナパルトがフランス第二共和政の大統領に就任しました。
ルイ・ナポレオンはナポレオン1世の甥にあたり、共和制下で初の大統領に選出されました。
1848年2月革命後に成立した第二共和政は混乱の中、彼に国家再建の期待を寄せます。
国民投票を経て圧倒的支持を獲得し、12月20日に正式に就任しました。
彼は在任中に権限強化を進め、1851年のクーデターへ繋がる布石を打ちました。
この就任はフランス政体の不安定期を象徴する重要な転換点とされています。
1848年
ルイ・ナポレオン
フランス第二共和政
大統領
1860年
サウスカロライナ州がアメリカ合衆国から離脱。南部諸州がこれに続き、翌年2月にアメリカ連合国を結成。
1860年12月20日、サウスカロライナ州がアメリカ合衆国から離脱しました。
サウスカロライナ州は奴隷制度を巡る連邦政府との対立から離脱を宣言しました。
これを皮切りに南部諸州が相次いで離脱し、1861年2月にアメリカ連合国を結成します。
離脱宣言は州権論と連邦統一の対立を顕在化させ、南北戦争への直接的な前兆となりました。
当時の政治家や新聞は連邦再統一への最後通牒と受け止め、緊張が一気に高まりました。
この出来事はアメリカ史における州権vs連邦権の根深い問題を象徴しています。
1860年
サウスカロライナ州
アメリカ合衆国
アメリカ連合国
1917年
ソ連初の秘密警察「チェーカー」設立。
1917年12月20日、ソビエト政府が初の秘密警察機関チェーカーを設立しました。
チェーカーはロシア内戦下のソビエト政権による反革命勢力の鎮圧を目的として設立されました。正式名称は『非常勤救済委員会』で、レーニンの指示によりフェリックス・ジェルジンスキーが初代長官に任命されました。拷問や暗殺を含む過酷な手段を用いて数万人が処罰されたとされ、その活動は後のGPUやKGBへと継承されました。国内外で恐怖政治の象徴とされ、ソビエト統制の根幹を支える機関となりました。1922年にGPUへと改組されるまで、チェーカーの存在は革命政権の独裁的手法の象徴でした。
1917年
ソ連
秘密警察
チェーカー
1924年
ミュンヘン一揆を主導した罪でランツベルク刑務所に収監されていたアドルフ・ヒトラーが出所。
1924年12月20日、ミュンヘン一揆を主導した罪で収監されていたアドルフ・ヒトラーがランツベルク刑務所から釈放されました。
アドルフ・ヒトラーは1923年11月のミュンヘン一揆(ビアホール・プッチ)の首謀者として逮捕・起訴され、1924年に懲役5年の判決を受けました。釈放されたのは刑期の一部を終えた後で、ランツベルク刑務所では比較的自由な環境で『我が闘争(Mein Kampf)』の執筆を開始しました。釈放後、ヒトラーはナチ党の再建に着手し、政治活動を本格化させることになります。この出来事は彼の政界復帰の第一歩となり、その後の欧州歴史に大きな影響を与えました。この時期の動きが後のナチス・ドイツ台頭の基盤を築いたと言われています。
1924年
ミュンヘン一揆
ランツベルク刑務所
アドルフ・ヒトラー
1940年
神奈川県小田原市が市制施行。
1940年12月20日、神奈川県小田原市が市制を施行し正式に市として発足しました。
小田原市は神奈川県西部に位置し、城下町として歴史のある地域です。もともと小田原町として栄え、沿岸部と内陸部を結ぶ物流の拠点でした。1940年12月20日に市制を施行し、小田原市として発足したことで行政区画が拡充されました。これにより市民サービスや公共事業が強化され、戦前期の地方自治体の整備に寄与しました。現在も歴史的建造物や観光資源を活かしたまちづくりが続けられています。
1940年
小田原市
1946年
首相官邸デモ事件。首相官邸が在日朝鮮人に襲撃され、警察官に負傷者が出るとともに拳銃が奪われる。
1946年12月20日、首相官邸デモ事件が発生し、在日朝鮮人らが首相官邸を襲撃して拳銃が奪われました。
第二次世界大戦後の混乱期に起きた事件で、在日朝鮮人が抗議活動を行った際に首相官邸が襲撃されました。警察官が負傷し、複数の拳銃が奪われるなど治安に大きな衝撃を与えました。当時のGHQ下の日本社会における在日朝鮮人への差別や不満が背景にあったとされます。事件後、治安維持のための取り締まりが強化され、デモ活動やヘイトクライムに関する議論が高まりました。政治的緊張が続く中で、戦後日本の社会課題を浮き彫りにした出来事です。
1946年
首相官邸デモ事件
首相官邸
在日朝鮮人
1947年
臨時石炭鉱業管理法公布。炭鉱が国家管理下に置かれる。
1947年12月20日、臨時石炭鉱業管理法が公布され、炭鉱が国の管理下に置かれました。
戦後のエネルギー不足と労働争議を背景に、炭鉱の安定的な供給を確保するために臨時石炭鉱業管理法が制定されました。これにより戦前に民間が所有していた炭鉱が一時的に国有化され、経営や労働条件が国の統制下に置かれました。法の施行によって石炭生産量の回復が図られ、復興期の産業基盤を支えました。しかし、管理体制の硬直化や労使関係の摩擦も生じ、その後のエネルギー政策や国鉄バスなど他の国営事業に影響を与えました。1950年代に入ると再び民営化の動きが出て、最終的には炭鉱管理体制が見直されていきました。
1947年
臨時石炭鉱業管理法
1948年
「日本専売公社法」「日本国有鉄道法」公布。
1948年12月20日、「日本専売公社法」と「日本国有鉄道法」が公布され、公的サービスの運営体制が大きく改められました。
戦後の財閥解体と公企業再編の一環として、12月20日に公布されました。
「日本専売公社法」はタバコと塩の専売事業を「日本専売公社」という法人に移管する規定を定めました。
「日本国有鉄道法」は鉄道事業を国有鉄道として組織化し、運営と管理方法を明確化しました。
これにより政府直営から独立性のある公社方式へ移行し、効率化と財務の明確化を図りました。
後の民営化や分割民営化の基礎となり、日本の輸送と専売事業の近代化に大きく寄与しました。
1948年
日本専売公社法
日本国有鉄道法