217年

ローマ教皇ゼフィリヌスが死去。カリストゥス1世が後任に選出されるが、神学者ヒッポリュトスに反対される。

217年12月20日、ローマ教皇ゼフィリヌスが没し、カリストゥス1世が選出されるも神学者ヒッポリュトスの反対に遭いました。
ゼフィリヌスは217年から教皇職を担い、キリスト教教義の統一と組織の安定に尽力しました。 彼の死去により、カリストゥス1世が後任に選出されます。 カリストゥス1世は貧者救済や教会権限の強化を推進しました。 しかし、著名神学者ヒッポリュトスが教義上の見解を巡り異議を唱えました。 この対立は初期キリスト教における正統性と教皇権の位置付けを巡る重要な論争となりました。
217年 ローマ教皇 ゼフィリヌス カリストゥス1世 ヒッポリュトス
天平宝字6年12月1日

多賀城碑が建立される。

奈良時代の東北地方にて、多賀城の正門前に多賀城碑が建立されました。
多賀城碑は762年に多賀城の歴史や築城の経緯を後世に伝えるために立てられた石碑です。 碑文には高句麗や蝦夷など当時の辺境情勢や朝廷の意向が記されています。 建立は元正天皇の勅命によるとされ、東北地方の政治的支配を象徴します。 考古学的資料として重要で、平安時代以降の地方行政や文化交流の解明に貢献しています。 現在は現地に復元された碑と史跡公園が整備され、多くの観光客が訪れます。
762年 天平宝字 12月1日 多賀城碑
1582年

フランスがグレゴリオ暦を採用する(後に中断)。

1582年12月20日、フランス王国はグレゴリオ暦を正式に採用しました。
グレゴリオ暦はローマ教皇グレゴリウス13世がユリウス暦の誤差を修正して制定した暦法です。 1582年に教皇庁が最初に導入し、その後ヨーロッパ各国が順次採用していきました。 フランスはイタリアやスペインに続き12月20日に切り替えを実施しました。 しかし宗教的・政治的背景から一部地域では反発や一時的な中断も発生しました。 最終的にフランス全土で新暦が定着したのは数年後のこととされています。
1582年 グレゴリオ暦
康熙61年11月13日

清で康熙帝が没し雍正帝が即位。

康熙61年12月20日(1722年)、清の康熙帝が崩御し、雍正帝が即位しました。
康熙帝は在位64年にわたり清朝を治め、国家統一と文教政策を推進しました。 彼の治世で清朝は最大の版図を誇り、多民族国家としての基盤を築きます。 康熙帝の崩御後、第三子の胤禛が雍正帝として皇位を継承しました。 雍正帝は財政再建と官僚機構の改革に着手し、乾隆帝時代の繁栄への道を開きます。 この継承劇は宮廷内の権力闘争と後継者選定の問題を浮き彫りにしました。
1722年 康熙 11月13日 康熙帝 雍正帝
1830年

ベルギー独立革命: イギリス・フランスなど列国がベルギーのネーデルラント連合王国からの独立を承認。

1830年12月20日、イギリスとフランスなど列強がベルギーの独立を承認しました。
ベルギー独立革命は1830年にネーデルラント連合王国からの分離を目指して勃発しました。 12月20日にイギリス、フランスをはじめとする主要列強が新国家の独立を公式に認めます。 これによりベルギーはヨーロッパの国際秩序において独立王国として地位を確立しました。 列強はベルギーの中立維持を条件とし、ヨーロッパの勢力均衡に一役買いました。 翌1831年にはレオポルト1世が初代ベルギー王に就任し、近代国家の礎を築きました。
1830年 ベルギー独立革命 ベルギー ネーデルラント連合王国 独立を承認
1848年

ルイ・ナポレオンがフランス第二共和政大統領に就任。

1848年12月20日、ルイ・ナポレオン・ボナパルトがフランス第二共和政の大統領に就任しました。
ルイ・ナポレオンはナポレオン1世の甥にあたり、共和制下で初の大統領に選出されました。 1848年2月革命後に成立した第二共和政は混乱の中、彼に国家再建の期待を寄せます。 国民投票を経て圧倒的支持を獲得し、12月20日に正式に就任しました。 彼は在任中に権限強化を進め、1851年のクーデターへ繋がる布石を打ちました。 この就任はフランス政体の不安定期を象徴する重要な転換点とされています。
1848年 ルイ・ナポレオン フランス第二共和政 大統領
安政4年11月5日

吉田松陰が松下村塾を開講する。

1857年12月20日、吉田松陰が維新志士育成のため松下村塾を開講しました。
松下村塾は長州藩士の私塾として吉田松陰が主催し、実践的な教育を行いました。 吉田は討幕論や殖産興業論など先進的な思想を説き、多くの若者を触発します。 門下生には高杉晋作や伊藤博文など明治維新の中核を担う人材が名を連ねました。 少人数制と討論を重視する教育方針は、封建的制度への挑戦ともみなされました。 この塾の精神は維新後も受け継がれ、日本の近代化に寄与しました。
1857年 安政 11月5日 吉田松陰 松下村塾
安政5年11月16日

西郷隆盛が、清水寺の僧侶月照とともに錦江湾へ入水自殺した。西郷は救助されたが、月照はそのまま亡くなった。

1858年12月20日、西郷隆盛と僧侶月照が錦江湾で入水自殺を図りました。
西郷隆盛は幕末の薩摩藩士として、藩論対立を避けるため自ら死を覚悟して入水しました。 同行した清水寺の僧・月照は佐賀の乱後に追われる身であり、運命を共にしようとしました。 二人は錦江湾に身を投じますが、西郷は地元の漁師に救助され奇跡的に生還します。 一方、月照は重傷のまま息を引き取り、幕末期の悲劇として語り継がれます。 この事件は西郷の義侠心と不屈の精神を象徴し、後の活躍に大きな影響を与えました。
1858年 安政 11月16日 西郷隆盛 清水寺 月照 錦江湾
1860年

サウスカロライナ州がアメリカ合衆国から離脱。南部諸州がこれに続き、翌年2月にアメリカ連合国を結成。

1860年12月20日、サウスカロライナ州がアメリカ合衆国から離脱しました。
サウスカロライナ州は奴隷制度を巡る連邦政府との対立から離脱を宣言しました。 これを皮切りに南部諸州が相次いで離脱し、1861年2月にアメリカ連合国を結成します。 離脱宣言は州権論と連邦統一の対立を顕在化させ、南北戦争への直接的な前兆となりました。 当時の政治家や新聞は連邦再統一への最後通牒と受け止め、緊張が一気に高まりました。 この出来事はアメリカ史における州権vs連邦権の根深い問題を象徴しています。
1860年 サウスカロライナ州 アメリカ合衆国 アメリカ連合国
1899年

東京郵便電信局で、初めて年賀郵便特別扱いを開始。翌年から15日受付開始となる。

1899年12月20日、東京郵便電信局で年賀郵便の特別扱いが初めて開始されました。
年賀郵便は新年の挨拶を全国に届けるため、他郵便物と区別して優先的に扱う制度です。 東京郵便電信局は1899年にこの制度を試行導入し、全国的拡大の先駆けとなりました。 翌1900年からは毎年12月15日からの受付開始が正式に定められ、現在の慣習の礎となります。 この仕組みにより元日に年賀状が届くよう配慮され、日本の新年行事の一部として定着しました。 近代郵便制度の発展とともに年賀状文化は日本独自のコミュニケーション様式を形成しました。
1899年 年賀郵便 15日
1904年

三越呉服店創立。三井との連名で「デパートメントストア」宣言を行う。

1904年12月20日、三越呉服店が創立され、三井とともに日本初のデパートメントストア宣言を行いました。
三越呉服店は江戸時代の越後屋を起源とする老舗呉服店です。1904年12月20日に三井物産と連名で『デパートメントストア』を宣言し、百貨店としての新たな営業形態を掲げました。これにより、衣料品以外の商品やサービスの提供が可能となり、日本の流通業に大きな影響を与えました。店舗は商品陳列や定価販売、荷物預かりサービスなどが導入され、現代の百貨店の基礎を築きました。宣言後、三越は全国に支店を展開し、百貨店文化の先駆けとなりました。
1904年 三越呉服店 三井 デパートメントストア
1914年

東京駅開業。東海道本線の起点を新橋駅から東京駅に変更。横浜の高島町駅までとの間で京浜線電車の運行を開始。

1914年12月20日、東京駅が開業し東海道本線の起点が新橋駅から移され、京浜線電車の運行が開始されました。
東京駅は辰野金吾らによる設計で赤レンガ造りの外観が特徴の駅舎です。1914年12月20日に開業し、東海道本線の起点が新橋駅から東京駅に変更されました。同日に横浜・高島町間で京浜線電車の運行が始まり、都心と神奈川を結ぶ重要路線となりました。開業当時は丸の内口と八重洲口の二つの玄関が設けられ、東京の新たな玄関口として注目されました。その後も増築や改修を重ねながら、現在に至るまで日本の鉄道網の中枢を担い続けています。
1914年 東京駅 東海道本線 新橋駅 高島町駅 京浜線電車