324年

ローマ皇帝リキニウスが退位。

リキニウス帝が退位し、コンスタンティヌス1世の単独統治が確立された。 ローマ帝国の体制に大きな影響を与えた出来事です。
ローマ帝国内でコンスタンティヌス1世との内戦に敗北したリキニウスは、324年12月19日に帝位を退きました。 これにより、コンスタンティヌス1世がローマ帝国の単独皇帝となり、キリスト教保護政策を進める基盤を固めました。 リキニウスはテッサロニカへ追放された後も存命でしたが、翌325年に処刑されたとされています。 この退位は、帝国統治の一極集中とキリスト教会の台頭を促す重要な契機となりました。 ローマ帝国史における転換点として歴史的意義が大きい出来事です。
324年 リキニウス
1154年

初代イングランド王ヘンリー2世が戴冠。

ヘンリー2世がイングランド王として戴冠し、プランタジネット朝の歴史が本格的に始動した。
中世イングランドの王位継承争いを収束させたヘンリー2世は、1154年12月19日にウェストミンスター寺院で戴冠しました。 彼はアンジュー伯としてフランス大陸に領地を持ち、イングランドと大陸領域を併せ持つ強力な支配体制を築きました。 ヘンリー2世は教会との対立を通じて法制度の整備を進め、後のコモンローの基礎を築きました。 また、エレノア・オブ・アキテーヌとの結婚により、西欧で最も広大な領域を支配した君主となりました。 イングランド王権の確立と司法改革は、その後の欧州政治に大きな影響を及ぼしました。
1154年 イングランド ヘンリー2世
慶長19年11月19日

大坂冬の陣: 木津川口の戦い。豊臣方と徳川方が戦闘状態に突入。

豊臣方と徳川方が木津川口で激突し、大坂冬の陣の幕開けとなった戦闘です。
大坂冬の陣は1614年、徳川家康が大坂城包囲を開始した一連の戦いです。 中でも木津川口の戦いは12月19日に起こり、豊臣方の水軍と徳川水軍が激しく衝突しました。 豊臣方は水上拠点を築いて防戦し、徳川軍は物資補給路の遮断を狙いました。 両軍ともに大きな損害を出しながらも決定的な勝敗はつかず、戦線は膠着状態に陥りました。 この戦いを契機に講和交渉が進み、双方の緊張が一時的に緩和されました。 しかしその後も大坂の攻防は続き、最終的に豊臣氏が滅亡へと追い込まれていきます。
1614年 慶長 11月19日 大坂冬の陣 木津川口の戦い
享保15年11月10日

徳川吉宗が田安家を創設する。

徳川吉宗が田安家を創設し、幕府内部の権力配分に変化をもたらした出来事です。
享保15年(1730年)11月10日、8代将軍・徳川吉宗は側室の子を分家させ、田安家を創設しました。 この分家政策は幕府直系の後継者不足に備えたもので、将来の将軍継嗣問題を緩和する狙いがありました。 田安家はやがて「御三卿」の一つとして、幕政への影響力を持つことになります。 吉宗は享保の改革を推進する中で、幕府内の統制強化と権力均衡を図りました。 この創設は、江戸幕府の安定的な統治構造を維持するための重要な施策でした。
1730年 享保 11月10日 徳川吉宗 田安家
1843年

チャールズ・ディケンズ作『クリスマス・キャロル』が出版される。

ディケンズの名作『クリスマス・キャロル』が刊行され、世界中で親しまれるクリスマス物語が誕生しました。
チャールズ・ディケンズは1843年12月19日に『クリスマス・キャロル』を発表しました。 物語は冷酷な老人スクルージがクリスマスの精霊と出会い、慈悲と温かさを取り戻す内容です。 刊行直後から大ベストセラーとなり、クリスマス文化の象徴的作品となりました。 ディケンズは一度の出版で作家としての地位を不動のものとし、その後の社会風刺作品へとつなげました。 作品は舞台化や映画化を重ね、現代に至るまで多くの人々に愛され続けています。
1843年 チャールズ・ディケンズ クリスマス・キャロル
元治元年11月21日

江戸幕府が英米仏蘭と横浜居留地覚書を結ぶ。

江戸幕府が英米仏蘭と横浜居留地覚書を締結し、外国人居留地の制度を整備しました。
元治元年(1864年)11月21日、江戸幕府は英米仏蘭四国と横浜居留地について覚書を交わしました。 この覚書は外国人居留地の範囲や治外法権などを定め、幕府の対外関係を制度化するものでした。 条約改正を目指す幕府にとって、局地的合理化策としての意味を持っていました。 居留地制度の整備は横浜の急速な発展と日本の近代化を促す契機となりました。 一方で政治的背景には攘夷運動との対立があり、幕府の内政・外交両面に影響を及ぼしました。
1864年 元治 11月21日 江戸幕府
1876年

現在の松阪市で地租減免を要求した農民を巡査が挑発したことから、集合した農民が激昂し暴動に発展(伊勢暴動の始まり)。

松阪で地租減免を求めた農民たちが暴動を起こし、伊勢暴動が勃発しました。
1876年12月19日、三重県松阪付近で高い地租に苦しむ農民が減税を要求しました。 交渉にあたった巡査の挑発的態度を受け、集まった農民は激昂して役所や警察に乱入しました。 暴動は伊勢地方一帯に拡大し、兵力を動員して鎮圧される事態となりました。 この事件は明治政府の税制不満が表面化した最初の大規模な民衆蜂起として注目されます。 伊勢暴動は後の地方税制改革や民権運動の契機の一つとなり、社会・政治の変革を促しました。
1876年 松阪市 地租 巡査 伊勢暴動
1909年

ドイツのサッカークラブ、ボルシア・ドルトムント創設。

ドイツ・ドルトムントにサッカークラブ、ボルシア・ドルトムントが創設されました。
1909年12月19日、ドイツ北西部の都市ドルトムントでサッカークラブ「ボルシア・ドルトムント」が設立されました。 創設当初は学生中心の小さなクラブでしたが、その後急速に成長を遂げました。 チームカラーの黒と黄色は街の象徴となり、地元市民から熱い支持を集めます。 ドルトムントはドイツ国内外の大会で数多くのタイトルを獲得し、欧州トップクラブの一角に数えられます。 現在も世界有数の人気チームとして、サッカー文化に大きな影響を与え続けています。
1909年 ドイツ サッカー ボルシア・ドルトムント
1910年

徳川好敏工兵大尉が代々木錬兵場でアンリ・ファルマン機で、日野熊蔵陸軍歩兵大尉がハンス・グラーデ機で、日本初の動力飛行に成功。

徳川好敏と日野熊蔵が日本で初めて動力飛行に成功した歴史的瞬間です。
1910年12月19日、東京・代々木練兵場において日本陸軍の徳川好敏大尉がアンリ・ファルマン機で、 日野熊蔵大尉がハンス・グラーデ機で相次いで飛行に成功しました。 両者は短距離ながら安定した飛行を達成し、公式に日本初の動力飛行と認められました。 この成功は日本における航空技術研究の端緒となり、後の軍用・民間航空発展に大きく寄与しました。 以降、日本は飛行機製造や飛行士養成に力を注ぎ、国産機開発が急速に進展しました。
1910年 徳川好敏 代々木錬兵場 アンリ・ファルマン機 日野熊蔵 日本初
1916年

第一次世界大戦: ヴェルダンの戦いが終結。

第一次世界大戦の激戦、ヴェルダンの戦いが終結し、多大な犠牲の末に決着しました。
1916年2月21日に始まったヴェルダンの戦いは、12月19日に正式に終結しました。 約10ヶ月間にわたりドイツ軍とフランス軍が激突し、両軍合わせて約70万人以上の死傷者を出しました。 フランスはヴェルダン要塞を死守し、国内の士気を高揚させる象徴的勝利を収めました。 長期砲撃戦による塹壕戦の苛烈さは、後の西部戦線戦術に大きな影響を与えました。 この戦いは第一次大戦の象徴的な血の海と呼ばれ、戦争の残酷さを刻印する出来事となりました。
1916年 第一次世界大戦 ヴェルダンの戦い
1920年

コンスタンティノス1世がギリシャ王に即位。

1920年12月19日、コンスタンティノス1世がギリシャ王に即位し、第一次世界大戦後の政治混乱期に王政復帰を果たした。
第一次世界大戦後、ギリシャは国王アレクサンドロス1世の死去に伴い政治的混乱に陥っていた。 1920年10月の国民投票で共和制が否定され、亡命先のイギリスからの帰還が決定。 12月19日にアテネで即位式を挙行し、コンスタンティノス1世は正式に王位に復帰した。 即位後は国内統一と外交関係の再構築を目指したが、周辺国との関係改善には課題を残した。 復位はギリシャの政治地図を大きく塗り替え、次なる王政の運命を左右する出来事となった。
1920年 コンスタンティノス1世
1932年

BBCの国際放送「BBCエンパイアサービス」(現在のBBCワールドサービス)が放送開始。

1932年12月19日、BBCの国際放送サービス「BBCエンパイアサービス」が放送を開始し、世界各地へ英語番組を届け始めた。
BBCエンパイアサービスは英国放送協会(BBC)が設立した国際向けラジオ放送。 初回放送はグリニッジ標準時19:00に開始され、海外の英語話者を対象としたニュースや文化番組を編成。 第二次世界大戦前後に帝国各地で情報網を強化する役割を担った。 後に「BBCワールドサービス」と改称され、現在も多言語での放送を続けている。 国際放送の先駆けとして通信技術や番組制作の基盤を築いた。
1932年 BBC 国際放送 BBCワールドサービス