876年
清和天皇が譲位。貞明親王が践祚し、第57代天皇陽成天皇となり即位する。
876年12月18日、清和天皇が譲位し、貞明親王が第57代天皇陽成天皇として即位した。
清和天皇は幼少で即位して以来長い治世を経てこの日に譲位を決意した。
譲位後、貞明親王が陽成天皇として践祚し、平安時代中期の宮廷政治を担った。
即位式には朝廷の重臣や地方からの使節が参加し、儀式は華やかに執り行われた。
若年の即位であったため摂政や関白の権力が強まり、後の院政につながる政治構造の一端を示した。
この譲位は日本の天皇制における典型的な譲位事例として歴史に残る。
876年
清和天皇
陽成天皇
至元8年11月乙亥
クビライがモンゴル帝国の国号を元に改める。
1271年12月18日、クビライ・ハンがモンゴル帝国の国号を「元」に改称し、中国式統治を開始した。
クビライ・ハンは中央アジアから中国全土を制圧後、国号を「元」と定め、中国の伝統的統治制度を採用した。
都を大都(現在の北京)に定め、科挙制度や中央集権的行政組織を導入した。
「至元」という元号を用い、正式な皇帝としての地位を確立した。
この改革はモンゴル帝国の中国化を進め、後の元朝の基礎を築いた。
東西交易路の整備や文化交流も活性化し、シルクロードの繁栄に寄与した。
1271年
至元
クビライ
モンゴル帝国
元
1352年
インノケンティウス6世がローマ教皇に選出される。
1352年12月18日、アヴィニョン教皇庁でインノケンティウス6世がローマ教皇に選出された。
インノケンティウス6世(本名ピエール・ロトゥティ伯)は、アヴィニョン教皇庁時代に選出された教皇である。
彼は教会内部の腐敗是正と財政再建を掲げ、教会法の整備や教皇領の統治強化に取り組んだ。
百年戦争の最中、フランス王との関係にも配慮しつつ、教皇権の独立維持を図った。
在位期間中に多くの修道院再建や教育機関の支援を行い、教会改革の端緒を開いた。
アヴィニョン教皇庁はこの後も続き、教会史に特有の時代を形成した。
1352年
インノケンティウス6世
ローマ教皇
1787年
ニュージャージー州がアメリカ合衆国憲法を批准し、アメリカ合衆国3番目の州となる。
1787年12月18日、ニュージャージー州がアメリカ合衆国憲法を批准し、第3番目の州として連邦に加盟した。
アメリカ独立戦争後に制定された合衆国憲法は、全13州中9州の批准で発効する仕組みだった。
ニュージャージー州は連邦派の推進で憲法を議会で承認し、3番目に批准を完了した。
これにより統一的な中央政府の権限が確立し、連邦制が軌道に乗り始めた。
批准を巡っては州内で連邦派と反連邦派の激しい論論が交わされ、市民の政治参加意識も高まった。
ニュージャージー州の決定は新政府の安定に寄与し、他州の追随を促す契機となった。
1787年
ニュージャージー州
アメリカ合衆国憲法
批准
アメリカ合衆国
1825年
サーニー家のサーニー・ビン・ムハンマドがカタールの初代首長となる。
1825年12月18日、サーニー・ビン・ムハンマドがカタールの初代首長に就任し、アル=サーニー家の統治が始まった。
アル=サーニー家の家長であったサーニー・ビン・ムハンマドは、オスマン帝国の支配下にあったカタールで独立的統治を目指した。
彼の就任はカタール半島における部族政権の基礎を築き、後の首長国の形成につながった。
サーニー家は貿易ルートの保護や部族間調停に努め、地域の安定を図った。
この政治基盤は現代のカタール国家体制の礎となり、世襲制エミール制へと発展していった。
外部勢力との外交関係や内部統治の仕組みも整備された重要な転換点である。
1825年
サーニー家
カタール
首長
1865年
アメリカの奴隷制度を完全に廃止するアメリカ合衆国憲法修正第13条が成立に必要な27州で批准されたことが布告される。
1865年12月18日、アメリカ合衆国憲法修正第13条が27州で批准され、奴隷制度が完全に廃止されたことが公式に布告された。
南北戦争終結後、奴隷制度廃止を定めた憲法修正第13条の発効には3分の4以上の州の批准が必要だった。
12月18日に27州が批准を完了し、修正条項が正式に発効した。
これにより法的に全米で奴隷制度が禁止され、黒人奴隷は自由を獲得した。
この出来事はアメリカ史上の大転換点となり、レコンストラクション(再建期)の開始を告げた。
しかし人種差別撤廃にはさらに長い闘争が続くこととなり、後の公民権運動へとつながっていく。
1865年
アメリカ
奴隷制度
アメリカ合衆国憲法修正第13条
州
1891年
足尾鉱毒事件: 改進党議員の田中正造が、足尾鉱毒問題に関する初の質問書を衆議院に提出。
足尾銅山からの鉱毒が周辺農村を荒廃させ、田中正造が国会で初めて問題提起した歴史的事件です。
足尾銅山は19世紀後半に日本最大級の銅山として稼働したが、その副産物である鉱毒が渡良瀬川を通じて周辺農村を深刻に汚染した。
1880年代から住民らの抗議運動が高まり、改進党の田中正造は1891年12月18日に衆議院で初の質問書を提出し、政府と銅山経営者の責任を追及した。
この質問は日本における環境問題提起の先駆けとなり、その後の公害対策や環境保護運動に大きな影響を与えた。
田中は現地調査を重ねて被害実態を国会に訴え続け、社会問題としての公害認識を広めた。
1891年
足尾鉱毒事件
改進党
田中正造
1914年
第一次世界大戦開戦に伴い、エジプトがオスマン帝国の名目上の宗主権から切り離され、イギリスの保護国となる。
第一次世界大戦の勃発に伴い、エジプトがオスマン帝国の宗主権から切り離され、イギリスの保護国となりました。
1914年12月18日、英国政府はオスマン帝国に対しエジプトの名目上の宗主権放棄を通告し、正式に保護国化を宣言した。
エジプトは1882年の英軍進駐以来イギリスの実質的支配下にあったが、法的にはオスマン帝国領とされていた。
保護国化によりスエズ運河の安全保障が強化され、英海軍の戦略的拠点としての価値が高まった。
エジプト国内では民族主義運動が活発化し、後の独立運動の伏線となった。
この出来事は中東における欧州列強の植民地支配の一端を示すものとして歴史的意義がある。
1914年
第一次世界大戦
エジプト
オスマン帝国
イギリス
保護国
1925年
ソ連の第14回共産党大会でスターリンが主張する一国社会主義を採択。
ソ連共産党大会でスターリンの一国社会主義論が公式に採択されました。
1925年12月18日にモスクワで開かれたソ連第14回共産党大会で、スターリンは『一国社会主義』の理論を提唱した。
この理論は国外の革命よりもまずソ連一国内の社会主義建設を優先すべきとするもので、トロツキーらの『永続革命論』に対立した。
党大会はスターリンの路線を支持し、公式に採択したことで彼の権力基盤が強化された。
以後、ソ連国内では急速な工業化と中央集権的統制が進み、スターリン体制の基礎が固まった。
一国社会主義論は共産主義運動に大きな影響を与え、第二次世界大戦後の東欧衛星国政策にも反映された。
1925年
ソ連
共産党大会
スターリン
一国社会主義
1945年
ウルグアイが国連に加盟。
1945年12月18日、ウルグアイは国際連合への加盟を果たしました。戦後の国際秩序づくりに参加した南米の小国の重要な一歩です。
第二次世界大戦終結直後の1945年12月18日、ウルグアイは国際連合への正式加盟手続きを完了しました。これにより同国は戦後の国際協力機構に参画し、平和維持活動や開発支援に参加可能となりました。加盟当時、ウルグアイは中立的立場を維持しつつ、多国間主義の推進に積極的でした。国連総会における投票権を有したことで、同国の国際的発言力は大きく向上しました。以降、ウルグアイは人権擁護や平和構築などの活動に継続的に貢献しています。
1945年
ウルグアイ
国連
1956年
日本が国連に加盟。
1956年12月18日、日本は正式に国際連合へ加盟し、戦後日本の国際社会復帰が完了しました。独立国家としての主権回復を象徴する出来事です。
第二次世界大戦後、連合国軍の統治下にあった日本は1952年にサンフランシスコ平和条約で主権を回復しました。1956年12月18日、国連総会での採択を経て日本は正式に国際連合へ加盟しました。これにより日本は国際的な平和維持活動や経済開発援助に参加する道を得ました。当時の外務大臣であった吉田茂は、加盟を国内外に向けて積極的にアピールしました。国連加盟後、日本は高度経済成長期を迎え、国際社会での発言力を強めていきました。
1956年
日本
国連
1965年
日韓基本条約が発効し、両国の国交が成立。
1965年12月18日、日韓基本条約が発効し、日本と大韓民国の国交が正式に樹立しました。戦後の歴史的和解の第一歩です。
1965年6月22日に署名された日韓基本条約は、失われた国交回復と経済協力を目的としていました。同条約は外務大臣の署名を経て、1965年12月18日に正式に発効しました。これにより日本は韓国に対する経済協力金の支払いを行い、請求権問題を解決しました。両国は相互大使館の設置や貿易・投資の強化を進め、戦後復興期のアジア経済発展に寄与しました。条約成立は両国民の間で賛否の声を呼びましたが、長期的には経済的・文化的交流の基盤となりました。
1965年
日韓基本条約