546年

東ゴート王トーティラがローマを占領。

東ゴート族の王トーティラがローマを占領し、西ローマ帝国の中心都市を掌握しました。 ゴート戦争の重要な転換点です。
546年、東ゴート王トーティラは長年続いたゴート戦争の末にローマを制圧しました。 彼の戦略的包囲により、市民は抵抗を余儀なくされました。 この占領は西ローマ帝国の衰退を象徴し、後のイタリア半島支配に大きく影響しました。 トーティラの支配は数年間続き、ゴート文化の影響をもたらしました。 ローマ市内の建造物や教会にもゴート族の足跡が残されています。
546年 東ゴート王 トーティラ ローマ
1939年

第二次世界大戦: ウルグアイから国外退去を通告されたドイツのポケット戦艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」がモンテビデオ港外で自沈。

ドイツのポケット戦艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」がモンテビデオ沖で自沈しました。
1939年12月17日、第二次世界大戦開戦後にドイツ海軍のポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーは、ウルグアイ政府から出港命令を受けモンテビデオ港外で自沈を決行。乗組員は救援艦に救出される形で避難し、大規模な戦闘を回避しました。自沈の背景には連合国艦隊の包囲と補給線の断絶があり、戦略的な損失となりました。事件は中南米地域の戦争動向に大きな注目を集め、海戦史における象徴的な出来事です。
1939年 第二次世界大戦 ウルグアイ ドイツ ポケット戦艦 アドミラル・グラーフ・シュペー モンテビデオ
1944年

第二次世界大戦・バルジの戦い: マルメディ虐殺事件。

バルジの戦い中、マルメディでドイツ軍が捕虜を虐殺しました。
1944年12月17日、第二次世界大戦のバルジの戦いにおいて、ドイツ武装親衛隊第1装甲師団所属の部隊が米軍捕虜を集団処刑した事件。約84名の米兵が銃撃や刺殺により虐殺され、国際法違反として戦後のニュルンベルク裁判でも重要な証拠とされました。マルメディ虐殺事件は戦争犯罪の象徴となり、戦後の戦後処理や捕虜保護規定の強化につながりました。犠牲者の追悼と歴史的教訓は今日も語り継がれています。
1944年 バルジの戦い マルメディ虐殺事件
1961年

インド軍によってポルトガル領ゴアが占領される。

インド軍がポルトガル領ゴアを占領。450年続いた植民地支配が終焉を迎えました。
インドは1947年の独立以降もポルトガル領として残存するゴアを統合すべく外交交渉を続けてきました。 1961年12月17日、インド軍は「ヴィジョイ作戦」を発動し、陸海空から一斉に侵攻。 ポルトガル軍は小規模な抵抗を試みたものの、数日間で主要拠点を失い降伏しました。 450年にわたるポルトガルの統治が終焉を迎え、ゴアはインド連邦の一部となりました。 国際社会は反応を示しつつも、インド政府は地域統一と治安維持を理由に占領を正当化しました。 現在のゴアはインド有数の観光地として知られ、ポルトガル文化の名残も色濃く残っています。
1961年 インド ポルトガル ゴア
1983年

ロンドンの百貨店ハロッズでIRAによる爆弾テロ、5名が死亡(en:Harrods bombing)。

1983年12月17日、ロンドンの高級デパート・ハロッズでIRAにより爆弾テロが実行され、5名が犠牲となりました。
爆弾は閉店後の地下駐車場に仕掛けられ、強力な爆発と火災が発生しました。 IRA(アイルランド共和軍)はイギリス政府に対する抗議声明を発表し、犯行を認めました。 警備の甘さや事前通報の欠如が批判を浴び、テロ対策の強化が求められる契機となりました。 事件は英国国内のみならず国際的にも大きな衝撃を与え、市民の安全意識を高めました。 容疑者の一部は逮捕・起訴されましたが、背後関係の全容は未解明です。 今日でもハロッズ爆破事件はIRAの代表的なテロ事件として語り継がれています。
1983年 ロンドン 百貨店 ハロッズ IRA テロ en:Harrods bombing
1996年

ペルー日本大使公邸人質事件が発生。

1996年12月17日、ペルーのリマで日本大使公邸が武装勢力に占拠され、多数の人質が取られる事件が発生しました。
犯行グループはトゥパク・アマル革命運動(MRTA)で、政治的要求を掲げて突入しました。 日本人を含む大使館関係者や招待客約600人が人質にとられました。 交渉は数か月にわたって続き、限られた物資の搬入のみが許可されました。 1997年4月22日、ペルー政府は特殊部隊による突入作戦「チャリマヨ作戦」を敢行。 作戦中に人質1名が犠牲となりましたが、テロリストは全員排除され事件は終結しました。 この事件は日本国内外に大きな衝撃を与え、対テロ政策の見直しが進められる契機となりました。
1996年 ペルー日本大使公邸人質事件
1998年

イラク武装解除問題: 米・英両国共同でイラクに対し砂漠の狐作戦を開始。

1998年、米英両軍がイラクへの武装解除を求めて「砂漠の狐作戦」を開始した。
国連査察団によるイラクの大量破壊兵器査察への抵抗を背景に、アメリカとイギリスが連携して行った軍事作戦です。 航空攻撃や巡航ミサイルによるピンポイント爆撃が主な作戦手段で、イラク政府の兵器開発施設や軍事拠点が標的となりました。 この作戦はイラクの武装解除を促す圧力を強化する狙いがあり、中東情勢や国際法を巡る議論を呼び起こしました。
1998年 イラク武装解除問題 イラク 砂漠の狐作戦