天宝14年11月9日
安禄山が史思明らと相謀り、宰相・楊国忠(楊貴妃の従兄)の打倒と政治体制の粛正を訴えて幽州にて挙兵(安史の乱の勃発)。
安禄山が幽州で挙兵し、宰相・楊国忠の打倒を目指しました。これが安史の乱の勃発です。
唐代の節度使として勢力を持った安禄山は、史思明らと共謀し宰相・楊国忠の打倒を企てました。755年11月9日、幽州(現在の北京周辺)で挙兵し安史の乱が勃発しました。この反乱は洛陽や長安への進軍を試み、約8年間にわたり唐王朝に大きな混乱をもたらしました。唐王朝の権威は著しく失墜し、中央集権体制に深刻な亀裂が入りました。安史の乱は中国史上最大級の内乱の一つとして知られています。
755年
天宝
11月9日
安禄山
史思明
楊国忠
楊貴妃
幽州
安史の乱
文明9年11月11日
大内政弘が周防国に撤兵し、応仁の乱が事実上終結する。
応仁の乱の西軍要将・大内政弘が周防国から撤兵し、戦乱が事実上終結しました。
応仁の乱は室町幕府の権威低下を背景に東西両軍が京都を戦場に争った内乱です。文明9年11月11日、大内政弘は周防国から撤兵を決断し西軍の主力が崩壊しました。この動きにより長年続いた応仁の乱は事実上終結し、幕府の再建へとつながりました。撤退後も各地で小規模な抗争は続いたものの、主要な戦闘は収束に向かいました。しかし戦乱による寺院焼失や人口減少などの被害は深刻で、その影響は後世にまで及びました。
1477年
文明
11月11日
大内政弘
周防国
応仁の乱
1575年
チリ南部のバルディビア沖でマグニチュード8.8の地震発生(バルディビア地震)。
チリ南部のバルディビア沖でマグニチュード8.8の大地震が発生しました。
1575年12月16日、チリ南部のバルディビア沖を震源とするマグニチュード8.8の強震が発生しました。この地震は大規模な津波を伴い沿岸部の集落や港を壊滅的に破壊しました。史料によれば建物の倒壊や地盤の液状化が多数報告され、死傷者も多数出たと伝えられています。近世の南米における最古級の大地震の一つとされ、後の地震学研究において重要な資料となっています。現在でもバルディビア地震は地質学的・歴史的に注目される事件です。
1575年
チリ
バルディビア
マグニチュード
バルディビア地震
慶長3年11月18日・万暦26年11月19日
慶長の役: 露梁海戦。
慶長の役中、日朝連合軍と明軍・倭寇連合軍が露梁島沖で海戦を展開しました。
慶長の役は豊臣秀吉の朝鮮出兵の総称で、1598年12月16日に露梁島沖で大規模な海戦が行われました。日朝連合軍と明軍・倭寇連合軍が数百艘の艦船を率いて砲撃戦を展開し、補給路の維持を巡る激しい争いが続きました。この海戦は慶長の役最後の大海戦とされ、両軍とも大きな損耗を被りました。戦闘の結果、秀吉の死去も相まって日本軍の撤退が加速し、朝鮮半島からの退却が決定的となりました。露梁海戦は東アジアの海戦史においても重要な転機の一つです。
1598年
慶長
11月18日
万暦
11月19日
慶長の役
露梁海戦
1653年
イングランド共和国で護国卿の制度(統治章典)が制定され、オリバー・クロムウェルが就任。
オリバー・クロムウェルがイングランド共和国の護国卿に就任しました。
1653年12月16日、イングランド共和国(コモンウェルス)で統治章典が制定され、護国卿の制度が確立しました。オリバー・クロムウェルが初代護国卿に就任し事実上の国家元首として統治を開始しました。彼は軍事力を背景にスコットランドやアイルランドの制圧を進め、多くの宗教政策や経済改革を実施しました。護国卿制は軍事独裁的色彩を帯びつつも議会との協調を試み、イギリスの国家運営に大きな影響を与えました。しかしクロムウェル没後の権力構造は不安定となり、王政復古への道を開くことになりました。
1653年
イングランド共和国
護国卿
統治章典
オリバー・クロムウェル
1689年
イギリスで権利の章典が制定。
イギリスで権利の章典が制定され、立憲君主制の基礎が築かれました。
1689年12月16日、イングランド王国で権利の章典が制定されました。この文書は国王の権限を制限し、議会の権利や市民の自由を明文化したものです。租税請求権や信教の自由、過度な保釈金の禁止などが盛り込まれ、立憲君主制の基礎を築きました。権利の章典はアメリカ独立宣言やフランス人権宣言にも影響を与え、近代民主主義の先駆けとされています。現在でもイギリスの憲法の枠組みを構成する重要法典です。
1689年
権利の章典
宝永4年11月23日
富士山の宝永大噴火が発生し、宝永山が出現する。
富士山が宝永大噴火を起こし、宝永山が新たに形成されました。
1707年12月16日(宝永4年11月23日)、富士山で宝永大噴火が発生し新たに宝永山が形成されました。大量の溶岩と火山灰が南東斜面から噴出し、関東地方の広範囲に降灰被害をもたらしました。江戸市内では積もった火山灰が街路を埋め尽くし、農作物や住居に深刻な影響を与えました。宝永の噴火は日本の火山学や地質学の研究史において重要な事例とされ、防災対策の教訓ともなっています。現在でも富士山防災の観点から語り継がれている噴火です。
1707年
宝永
11月23日
富士山
宝永大噴火
宝永山
1773年
マサチューセッツ植民地・ボストンで、イギリス本国の政策に反発した現地植民地人が港に停泊中のイギリス船を襲撃しイギリス東インド会社の船荷の紅茶箱を海に投棄(ボストン茶会事件)。
アメリカ植民地でイギリスへの抗議として茶箱が海に投棄されました。
1773年12月16日、マサチューセッツ植民地ボストン港で東インド会社の茶箱342箱が海に投棄されました。これはイギリス本国の重税政策に抗議する植民地市民による象徴的な行動でした。「代表なくして課税なし」のスローガンを掲げたこの事件はアメリカ独立運動の契機となりました。英国政府の強硬策を招き、後の独立戦争へとつながっていきました。ボストン茶会事件はアメリカ建国史において重要な転換点として知られています。
1773年
マサチューセッツ植民地
ボストン
イギリス
イギリス東インド会社
ボストン茶会事件
1793年
フランス革命戦争: トゥーロン攻囲戦で砲兵中尉のナポレオンらがトゥーロンへの一斉攻撃を開始。
フランス革命戦争でナポレオンがトゥーロン攻囲戦に参加し、一斉攻撃を開始しました。
1793年12月16日、フランス革命戦争中のトゥーロン攻囲戦で若き砲兵中尉ナポレオンが砲撃指揮を担当しました。彼は射撃陣地の配置と砲兵運用の効率化を図り、要衝トゥーロン港を短期間で攻略寸前まで追い込みました。この功績によりナポレオンは軍事的才能を認められ、一躍注目される存在となりました。トゥーロン陥落は革命政府への貢献として評価され、彼の出世への重要な一歩となりました。トゥーロン攻囲戦はナポレオン史における転機として語り継がれています。
1793年
フランス革命戦争
トゥーロン攻囲戦
ナポレオン
1809年
フランス皇帝ナポレオン1世が、子供が生まれないことを理由にジョゼフィーヌと離婚。
ナポレオン1世がジョゼフィーヌと離婚し、後継者問題が浮上しました。
1809年12月16日、ナポレオン1世は後継者を得られなかったことを理由にジョゼフィーヌと離婚しました。皇后の座を退いたジョゼフィーヌはプララン城に居住しつつ、ナポレオンとの友情を維持しました。離婚はナポレオンの後継者確保が主目的で、翌年にはマリア・ルイーズと再婚しています。この出来事はフランス宮廷内外で大きな話題となり、政局にも影響を与えました。ナポレオンとジョゼフィーヌの別れはロマンティックな愛憎劇としても後世に語り継がれています。
1809年
ジョゼフィーヌ
1811年
ニューマドリッド地震、マグニチュード7.5前後の地震が2回発生。翌年1月23、2月7日にもほぼ同規模の地震が発生した。
1811年12月16日にアメリカ中西部のニューマドリッドで発生したマグニチュード7.5前後の大地震です。翌年1月23日と2月7日にも同規模の余震が続発しました。
1811年12月16日、ミズーリ州ニューマドリッドでマグニチュード7.5前後の地震が発生しました。
翌年1月23日と2月7日にも同規模の地震が続発し、計3回の大揺れが報告されています。
震源域では地割れや液状化現象、河川の逆流などが発生し、当時の入植地に深刻な被害をもたらしました。
ロッキー山脈以東で観測された最大級の地震とされ、地質学的研究の重要な対象となりました。
これをきっかけにアメリカ中西部の防災対策や地震学研究が大きく進展しました。
1811年
ニューマドリッド地震
1月23
2月7日
1881年
九条道家の発願で造立された東福寺大仏が失火のため焼失する。
九条道家の発願で再建された東福寺の大仏像が、失火による火災で焼失しました。
1881年12月16日、京都の東福寺にあった九条道家公の発願で再建された大仏が失火により焼失しました。
火災は夜間に発生し、木造建築の大仏殿と像体がことごとく焼け落ちました。
当時の記録では再建に数年の歳月と多額の費用が掛かっており、損失は非常に大きいものでした。
寺社建築の防火対策が課題となり、その後の仏教建築保存運動に影響を与えました。
しかし後世には再興され、現在の大仏は近代に再建されたものです。
1881年
九条道家
東福寺