弘治3年11月25日

毛利元就が息子へ14箇条の遺訓(三子教訓状)を記す。

戦国大名の毛利元就が1557年に三子教訓状として知られる14箇条の遺訓を記しました。
毛利元就は安芸・備後の戦国大名として勢力を拡大しました。 息子たちに向けて家臣の統率や領国運営の心得を14条にまとめたのが三子教訓状です。 教訓状には礼節や戦略の重要性、家族の団結などが記され、後の毛利家の繁栄に寄与しました。 武家社会における家訓として高く評価され、今日でも戦国史研究の貴重な史料とされています。 教訓状は書状形式で現存し、毛利家の教育思想を伝える重要文書です。
1557年 弘治 11月25日 毛利元就
天正4年11月25日

三瀬の変 織田信長・信雄父子が北畠具教・長野具藤など北畠一族を暗殺する。

1576年、織田信長と信雄父子が三瀬の変で北畠一族を襲撃し、北畠具教らを暗殺しました。
三瀬の変は伊勢国で起きた内紛で、北畠氏と織田氏の勢力争いが背景にありました。 織田信長は嫡男・信雄を伴い、1576年12月15日に密かに北畠具教や長野具藤らを討ち取り、北畠一族の勢力を一掃しました。 この事件により北畠氏は大きく衰退し、伊勢平定が加速しました。 織田氏の勢力拡大と内政安定に寄与した一方で、武力による討伐の残虐性も指摘されます。 戦国時代の権力闘争の厳しさを象徴する事件として知られています。
1576年 天正 三瀬の変 織田信長 信雄 北畠具教 長野具藤 北畠
1791年

アメリカ合衆国憲法の初の修正条項である権利章典が発効。

1791年、アメリカ合衆国憲法の初の修正条項である権利章典が正式に発効しました。
権利章典(Bill of Rights)はアメリカ合衆国憲法の最初の10条から成る修正条項です。 個人の自由や権利を保障する内容であり、信教の自由、言論の自由、集会・請願の自由などが規定されています。 1787年の憲法制定後、州の要求に応える形で議会によって可決されました。 1791年12月15日に正式に発効し、アメリカの自由民主主義の基盤を築きました。 今日でも憲法解釈や権利議論の根幹を成す重要文書として尊重されています。
1791年 アメリカ合衆国憲法 権利章典
1812年

シモン・ボリバルがコロンビアのカルタヘナ・デ・インディアスでスペインへの徹底抗戦を誓うカルタヘナ宣言を発表。

1812年、シモン・ボリバルがカルタヘナ宣言を発表し、スペインへの徹底抗戦を誓いました。
シモン・ボリバルは南米独立運動の中心人物であり、「解放者」と呼ばれました。 カルタヘナ・デ・インディアスで発表されたカルタヘナ宣言は、スペインからの独立達成への意志を表明したものです。 同宣言でボリバルは植民地支配の不正を批判し、自由と平等の理念に基づく独立運動の正当性を訴えました。 この宣言は独立戦争の士気を高め、多くの支持を集める契機となりました。 後のスペイン領南米諸国の独立に大きな影響を与えた歴史的文書として知られています。
1812年 シモン・ボリバル コロンビア カルタヘナ・デ・インディアス スペイン
1840年

ナポレオンの遺骸がセントヘレナからフランスに返還され、アンヴァリッドに安置される。

1840年、ナポレオン・ボナパルトの遺骸がセントヘレナ島からフランスに返還され、アンヴァリッドに安置されました。
ナポレオンは1815年のワーテルローの敗北後、セントヘレナ島に流されて死去しました。 1840年、当時のフランス国王ルイ・フィリップの命により、遺骸回収が決定されました。 12月15日に遺骸が船でフランスに搬送され、パリのアンヴァリッドに安置されました。 フランス国民は「帰郷(retour des cendres)」と呼ばれるこの出来事を熱狂的に迎え、ナポレオン崇拝が再燃しました。 これによりナポレオンはフランスの象徴的英雄として再評価され、ナポレオン像文化の礎となりました。
1840年 ナポレオン セントヘレナ フランス アンヴァリッド
1864年

南北戦争: ナッシュビルの戦い。

1864年、南北戦争のナッシュビルの戦いが行われました。
ナッシュビルの戦いは南北戦争後期の重要戦闘で、テネシー州ナッシュビル周辺で起こりました。 北軍と南軍が市街地や川沿いなどで激しい攻防戦を展開し、戦況が拮抗しました。 北軍は補給線を確保しつつ南軍を押し返し、戦術的勝利を収めました。 この勝利により北軍は戦略的に南部内部へ進攻する足がかりを得ました。 戦闘は両軍に多くの死傷者を出し、北米大陸での内戦の悲劇を象徴する一戦とされています。
1864年 南北戦争 ナッシュビルの戦い
明治5年11月15日

太政官布告第342号で神武天皇即位紀元制定。

1872年、太政官布告第342号により神武天皇即位紀元が制定されました。
神武天皇即位紀元は、日本の歴史を神話時代から数える元号制定の試みです。 1872年12月15日、明治政府は太政官布告により紀元前660年を神武天皇即位の年と定めました。 この制度は西暦とは別に日本独自の歴史観を示すもので、学校教育や公式文書に用いられました。 しかし実際の歴史的根拠は乏しく、後に採用が廃止され、現行の西暦へ一本化されました。 近代日本の国家建設と歴史観形成を考える上で重要な出来事です。
1872年 明治 11月15日 神武天皇即位紀元
1884年

横浜にあった東海鎮守府が横須賀に移転し、横須賀鎮守府が開庁。横須賀造船所が横須賀鎮守府の管轄となり「海軍造船所条例」(1884年12月15日制定)に基づき、海軍専用の造船所となる。

1884年、東海鎮守府が横須賀に移転し、横須賀鎮守府と横須賀造船所が開庁しました。
明治政府は海軍力強化の一環として東海鎮守府を横須賀へ移転しました。 同日、横須賀造船所は海軍専用の造船所として海軍造船所条例に基づき再編されました。 新設の横須賀鎮守府は日本海軍の中核拠点となり、造船所は戦艦や巡洋艦の建造基地として機能しました。 これにより日本は近代海軍力を整備し、その後の日清戦争・日露戦争において大きな成果を上げました。 横須賀は現在も海上自衛隊の主要基地として重要視されています。
横須賀鎮守府 横須賀造船所
1889年

『史学雑誌』創刊。

1889年、日本初の歴史学専門誌『史学雑誌』が創刊されました。
『史学雑誌』は東京帝国大学史学科の教授たちにより創刊された学術誌です。 日本の歴史学研究の発展を目的とし、最新の研究論文や資料紹介が掲載されました。 当時の日本では学術的な歴史研究が始まったばかりであり、専門誌の登場は画期的でした。 創刊号には日本史だけでなく西洋史や比較史など多彩な論文が収録されました。 今日に至るまで継続刊行され、日本の歴史学界に大きな影響を与え続けています。
1889年 史学雑誌
1896年

第一次エチオピア戦争開始

1896年 第一次エチオピア戦争
1901年

官営鉄道(後の日本国有鉄道)が東海道本線の急行2往復に食堂車の連結を始める。

1901年12月15日、官営鉄道(後の日本国有鉄道)が東海道本線の急行列車に初めて食堂車を連結しました。
当時、長距離列車の旅客サービス向上を目的に、官営鉄道(後の日本国有鉄道)が東海道本線の急行2往復に食堂車を導入しました。 これにより車内で温かい食事を楽しむことが可能となり、旅の快適性が大きく向上しました。 食堂車は日本の鉄道史における画期的なサービスであり、後の特急列車や寝台列車の発展につながる重要な一歩でした。 列車旅行の価値を高めるとともに、地方の食材や料理を列車内で提供する新たなビジネスモデルも生まれました。 乗客から好評を博し、その後各地の路線でも食堂車の連結が広がっていきました。
1901年 日本国有鉄道
1902年

篠ノ井線が全通。

1902年12月15日、篠ノ井線が全線開通し、長野県内の鉄道ネットワークが整備されました。
中央本線の補完路線として建設が進められていた篠ノ井線が、この日に全区間で営業運転を開始しました。 篠ノ井駅から松本駅を結ぶ約66キロメートルの路線は、信越地方の交通の要所をつなぎます。 路線開通により、地域産品の輸送効率が向上し、観光や経済活動にも弾みがつきました。 冬季の寒冷地を走る山岳路線として、沿線にはトンネルやスイッチバック区間などの技術的特徴も見られます。 現在もJR東日本の主要路線として多くの乗客に利用されています。
1902年 篠ノ井線