大和9年11月21日
甘露の変、唐の文宗が宦官誅殺を企図して失敗。
835年、唐の文宗が宦官の専権を抑えようとしたが失敗した政変。
甘露の変は、835年11月21日に唐の文宗(李忱)が宦官勢力を討伐しようと計画したクーデター未遂である。文宗は宦官が政治を牛耳る実態を憂い、諸臣や同僚皇族と連携して誅殺を企てた。しかし、計画が漏れてしまい、反乱勢力は逆に弾圧の対象となった。多数の官僚や皇族が巻き添えで処罰され、文宗の権威も揺らいだ。結果的に宦官の力は一時的に後退したものの、根本的な権力構造は変わらなかった。
835年
大和
11月21日
甘露の変
唐
文宗
宦官
弘安8年11月17日
霜月騒動、鎌倉幕府の政変、有力御家人の安達氏一族が壊滅する。
1285年、鎌倉幕府内で北条氏による安達氏一族の排除が行われた政変。
霜月騒動は、1285年(弘安8年)11月17日に鎌倉幕府で発生した政変である。北条氏の実権を巡る内部抗争の中、安達泰盛をはじめとする有力御家人が謀反の疑いで討伐された。多くの一族が壊滅し、幕府内の権力構造が大きく変化した。これにより北条氏による執権体制が一層強固となり、以後の幕府政治に決定的な影響を与えた。
1285年
弘安
11月17日
霜月騒動
1542年
生後6日のメアリーがスコットランド女王に即位。
1542年、生後6日でスコットランドの女王に即位したメアリー・スチュアート。
1542年12月14日、ジェームズ5世の娘メアリーは生後わずか6日でスコットランド女王に即位した。父王の急逝に伴い幼少王ではあったが、摂政制度の下で統治が行われた。後にメアリーはフランス王妃となり、母国スコットランドに戻ってからは幾度もの内紛や暗殺未遂に見舞われる。彼女の生涯は英仏両国の政治的駆け引きと深く結びつき、歴史に大きな足跡を残した。
1542年
メアリー
スコットランド
1819年
アラバマ準州が州に昇格し、アメリカ合衆国22番目の州・アラバマ州となる。
1819年、アメリカ合衆国の22番目の州としてアラバマ州が誕生。
1819年12月14日、アラバマ準州はアメリカ合衆国第22番目の州として連邦に加盟した。連邦議会の法令によって正式に州昇格が認められた。綿花プランテーション農業の発展を背景に南部の経済圏が拡大し、南北戦争前夜の重要地域となった。州都モンゴメリーは政治・経済の中心地として繁栄し、その後も急速に人口が増加した。
1819年
アラバマ準州
アメリカ合衆国
アラバマ州
1836年
オハイオ州とミシガン準州の間の境界紛争「トレド戦争」が非公式に終結。
1836年、オハイオ州とミシガン準州で起きた境界紛争「トレド戦争」が非公式に終結。
トレド戦争は1835年から1836年にかけてオハイオ州とミシガン準州がトレド周辺の領有を巡って対立した事件である。軍隊の小競り合いや役人同士の対立はあったが、実際の戦闘はほとんど発生しなかった。1836年12月14日、両者は非公式に停戦し、合議による解決の道が開かれた。最終的にミシガンは州昇格しつつ一部領土をオハイオに譲渡した。アメリカ史における州境問題の一例として知られている。
1836年
オハイオ州
ミシガン準州
トレド戦争
1918年
フィンランド王国国王に選出されたフリードリヒ・カール・フォン・ヘッセンが即位を辞退。
ドイツのヘッセン大公フリードリヒ・カールがフィンランド王国の王に選ばれたものの、即位を辞退しました。
第一次世界大戦終結後の1918年、フィンランドは独立後の政治体制を模索していました。12月14日、王制導入の一環として、フィンランド議会はドイツのヘッセン大公フリードリヒ・カールを国王に選出しました。彼はヨーロッパ諸列強との友好を図る目的で迎えられましたが、ドイツの敗戦とヴィルヘルム2世退位に伴い情勢が一変しました。フリードリヒ・カールは即位を見送るべきと判断し、王位辞退を表明しました。これによりフィンランドは共和制へ回帰し、1919年に共和国憲法を制定しました。王位空位のまま、フィンランドの共和制が確立される転機となりました。
1918年
フィンランド王国
フリードリヒ・カール・フォン・ヘッセン
1927年
イギリスがイラクの独立移行に向けた新協定を締結。
イギリスがイラクの独立移行に向けた新協定を結びました。
第一次世界大戦後、オスマン帝国領だったイラクはイギリスの委任統治領となっていました。1927年12月14日、イギリス政府はイラク王国との間で新たな条約を締結し、独立への移行プロセスを定めました。この協定では、イラクが外交と防衛でイギリスと密接に協力することが規定されていました。イラク王国は1921年に建国された後も、実質的な独立を急務とする声が高まっていました。この条約はイラク議会の批准を条件としており、国内のナショナリズム運動にも影響を与えました。結果としてイラクは1932年に国際連盟加盟を果たし、名実ともに独立国家として認められる道を歩み始めました。
1927年
イギリス
イラク
1946年
国連総会で国連本部をニューヨークに置くことが決定。
国連総会が本部をニューヨークに置くことを決定しました。
第二次世界大戦終結後、生まれた国際連合は本部所在地を巡って協議を重ねていました。1946年12月14日の国連総会では、複数の候補地の中からアメリカ合衆国ニューヨークを選定する決議が採択されました。選定には国連加盟国の多数が賛成し、ニューヨーク市が本部用地を提供する契約を結びました。これにより国際会議や安全保障理事会の会合が恒常的に行われる場が確保され、冷戦期の多国間外交の中心となりました。1952年には実際に建設された複合施設が開所し、現在に至るまで国連の象徴として機能し続けています。
1946年
国連本部
ニューヨーク
1955年
アイルランド・アルバニア人民共和国・イタリア・オーストリア・カンボジア・スペイン・スリランカ・ネパール・ハンガリー人民共和国・フィンランド・ブルガリア人民共和国・ポルトガル・ヨルダン・ラオス王国・リビア王国・ルーマニア人民共和国が国連に加盟。
アイルランドなど16か国が同時に国連加盟を果たしました。
1955年12月14日、アイルランドやイタリアを含む16か国が国連加盟を果たしました。当時の冷戦構造の中で、西側諸国と東側諸国双方からの加盟が同時に承認されたのは画期的でした。新たに加盟した国々には社会主義国のアルバニア人民共和国やハンガリー人民共和国、非同盟国のラオス王国やネパールが含まれていました。この動きは国連の普遍性と平和維持機能強化への期待を反映しています。加盟によりこれらの国は国際的な舞台で発言権を得ると同時に、経済援助や安全保障の枠組みに参加できるようになりました。
1955年
アイルランド
アルバニア人民共和国
イタリア
オーストリア
カンボジア
スペイン
スリランカ
ネパール
ハンガリー人民共和国
フィンランド
ブルガリア人民共和国
ポルトガル
ヨルダン
ラオス王国
リビア王国
ルーマニア人民共和国
国連
1960年
国連総会で、アジア・アフリカ43か国の提案による植民地独立付与宣言を採択。
国連総会で植民地独立付与宣言が採択されました。
1960年12月14日、国連総会はアジア・アフリカ43か国の提案による「植民地独立付与宣言(第1514号決議)」を採択しました。この宣言は全ての植民地における支配の即時終了と先住民族の権利尊重を求める内容でした。アフリカやアジアの独立運動が高まる中、脱植民地化の法的根拠となり、多くの新興独立国家の成立を後押ししました。また東西冷戦を超えて幅広い支持を得たことで、国際秩序の大きな転換点となりました。以降1960年代には20か国以上が相次いで独立し、世界地図が大きく塗り変わりました。
1960年
国連総会
植民地独立付与宣言
1960年
国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が教育における差別を禁止する条約を採択。
1960年12月14日、ユネスコが教育分野の差別禁止条約を採択。
1960年12月14日、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)は教育分野における差別を全面的に禁止する条約を採択しました。
この条約は人種、性別、宗教、経済状況などを理由とした教育へのアクセスの不平等を是正し、すべての人々に平等な教育機会を保証することを目的としています。
加盟国は国内法を整備し、学校制度や教育機関での差別的慣行を排除する義務を負いました。
この条約は教育の普遍的権利を国際的に確認した画期的な文書とされ、後の人権条約にも影響を与えました。
現在でも多くの国が条約を批准し、教育の平等化に関する基準として参照しています。
国際連合教育科学文化機関
教育における差別を禁止する条約
1961年
タンザニアが国連に加盟。
タンザニアが国連に加盟し、独立新興国家として国際社会に正式に参加。
1961年12月14日、タンザニアは国際連合に加盟し、独立後まもない新興国家として国際社会に正式に参加しました。
この加盟によりアフリカ諸国の代表性が高まり、脱植民地化運動に勢いを与えました。
国連での活動を通じ、タンザニアは平和維持や開発援助の分野で存在感を示してきました。
以降、国連はタンザニアの外交政策において重要な舞台となっています。
現在も国連加盟国として国際協力に貢献しています。
1961年
タンザニア