慶応3年11月18日
新撰組が伊東甲子太郎ら御陵衛士を暗殺(油小路事件)。
1867年、油小路で新選組が伊東甲子太郎ら御陵衛士を襲撃し暗殺した油小路事件が発生。
新選組内の権力闘争が発端となった事件です。伊東甲子太郎は御陵衛士を組織して新選組からの独立を模索していました。土方歳三らはこの動きを察知し、京都油小路で待ち伏せを計画。12月13日夜に襲撃し、伊東ら数名を斬殺しました。新選組の結束を強固にする一方で、激しい内部抗争として幕末史に刻まれています。
1867年
慶応
11月18日
新撰組
伊東甲子太郎
御陵衛士
油小路事件
1937年
日中戦争: 日本軍が南京を陥落させ、南京攻略戦が終結。翌12月14日より6週間、残敵掃討作戦。そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行。この一端として南京事件が発生したと言われているが、現在も論争になっている(南京事件論争)。
1937年、日本軍が南京を陥落させ南京攻略戦が終結し、その後市民に対する虐殺・暴行が行われたとされる。
第二次上海事変後の中国戦線で日本軍が南下を続け、南京は国民政府の首都として防衛線が築かれていました。日本軍は12月13日に市街を制圧し、翌日から数週間にわたり多数の市民や捕虜が殺傷、暴行を受けたと報告されます。南京事件は死傷者数や規模を巡り国際的に論争が続いています。戦争犯罪の責任を問う歴史的問題として、今日でも研究・検証が行われています。
1937年
日中戦争
南京
南京攻略戦
12月14日
南京事件
南京事件論争
1939年
第二次世界大戦: ラプラタ沖海戦。
1939年、第二次世界大戦初期の重要海戦であるラプラタ沖海戦が行われた。
ドイツ巡洋戦艦『アドミラル・グラーフ・シュペー』とイギリス艦隊が南大西洋のラプラタ海域で衝突しました。イギリス側はエクセター、エンカウンター、アケーラの3隻を派遣し、12月13日に交戦が開始されました。戦闘後、グラーフ・シュペーはモンテビデオに入港し損傷を受けたため自沈を選択しました。この海戦は開戦初期の連合国の士気を高揚させ、海上戦闘の様相に影響を与えました。
1939年
第二次世界大戦
ラプラタ沖海戦
1941年
第二次世界大戦: ハンガリー・ルーマニアがアメリカ合衆国に宣戦布告。
第二次世界大戦中、ハンガリーとルーマニアが米国に正式に宣戦布告した歴史的瞬間。
1941年12月13日、枢軸国の一員として参戦していたハンガリーとルーマニアが、アメリカ合衆国に正式に宣戦布告しました。
これによりアメリカは両国を敵国と認定し、大西洋と太平洋の連合国戦略に影響を与えました。
両国はこれまでにも間接的に戦闘に参加していましたが、公式宣言はこの日が初となります。
宣戦布告は国際法上の戦争状態を確定させ、戦後の講和条約や賠償責任の根拠ともなりました。
この歴史的決定は第二次世界大戦のさらなる激化を示す象徴として記録されています。
1941年
ハンガリー
ルーマニア
アメリカ合衆国
1967年
ギリシャ国王コンスタンティノス2世が軍事政権に対する逆クーデターを仕掛けるが失敗し、ローマへ亡命。
1967年12月13日、ギリシャ国王コンスタンティノス2世が逆クーデターを試みるも失敗し亡命。
1967年12月13日、ギリシャ国王コンスタンティノス2世が軍事政権を打倒すべく逆クーデターを試みましたが失敗し、ローマへ亡命しました。
4月のクーデターで権力を掌握していた軍事政権は警戒を強め、王党派の反乱計画は露見し頓挫。
国王は命からがら逃亡し、その後ギリシャ王政は大きな転機を迎えます。
亡命先のローマでは政治的亡命者としての生活を送り、王政復帰は事実上断念されました。
この事件はギリシャの王政廃止への道筋を加速させました。
1967年
ギリシャ
コンスタンティノス2世
軍事政権
2003年
イラク戦争: アメリカ軍などがイラクのサッダーム・フセイン元大統領を拘束(en:Operation Red Dawn)。
2003年にイラク戦争下でアメリカ軍などが作戦『Operation Red Dawn』によりサッダーム・フセイン元大統領を拘束した。
2003年12月13日、アメリカ軍特殊部隊はイラク北部ティクリート近郊で作戦『Operation Red Dawn』を展開し、元大統領サッダーム・フセインを拘束しました。長年逃亡を続けていたサッダームは地下トンネルに隠れていましたが、情報活動により居場所が特定されました。拘束後はバグダードに移送され、その後裁判にかけられ絞首刑となりました。彼の拘束はイラク情勢に大きな影響を与え、戦後処理の象徴的な出来事として記憶されています。
2003年
イラク戦争
アメリカ軍
イラク
サッダーム・フセイン
en:Operation Red Dawn