1294年

ローマ教皇ケレスティヌス5世が自ら教皇を退位。

1294年、教皇ケレスティヌス5世が自らの意思で教皇位を退いた稀有な出来事。
ケレスティヌス5世は1235年生まれの修道士出身の教皇です。長期の教皇空位の末に選出されましたが、教皇職の重圧からわずか5ヶ月後に退位を決断しました。公式に辞任した初の教皇となり、その後は隠棲生活を送りました。退位後にはボニファティウス8世が後任として選出され、教皇辞任の先例として教会史に大きな影響を与えました。
1294年 ケレスティヌス5世
1636年

マサチューセッツ湾植民地がインディアンから植民地を守るため民兵を設置。州兵の起源。

1636年、マサチューセッツ湾植民地がインディアンから植民地を防衛するため民兵隊を組織し、州兵制度の起源となった。
マサチューセッツ湾植民地は入植者の安全確保を目的に民兵を設置しました。成人男性が地域ごとに武器を携行し、定期的に訓練を実施する制度が整えられました。この組織は植民地防衛の主力として機能し、後に植民地軍や州兵へと発展しました。今日のアメリカ合衆国における州兵制度の前身と考えられ、地方自治と軍事の結合例としても注目されています。
1636年 マサチューセッツ湾植民地 民兵 州兵
1931年

犬養毅内閣が発足。

1931年、犬養毅を首相とする犬養内閣が正式に発足した。
第28代内閣として関東大震災後の復興や経済対策に取り組みました。犬養毅は政友会総裁として組閣し、立憲政友会の政治基盤を強化しました。軍部の台頭や政党政治との対立が激化する時期に成立した内閣です。外交面では中国情勢への対応を模索しました。五・一五事件まで続いた政権で、評価は分かれています。
1931年 犬養毅内閣
1948年

泉山三六蔵相が会期中の国会食堂内で泥酔し女性議員に悪態。翌日議員辞職(国会キス事件)。

1948年12月13日、国会内で泥酔して女性議員に暴言を吐き、翌日に辞職した国会キス事件の顛末。
1948年12月13日、泉山三六蔵相(当時)が国会食堂で酒に酔い、隣にいた女性議員に対して悪態をつきました。 この様子は議員間で広まり、野党から厳しい批判が巻き起こります。 翌日、泉山蔵相は議員辞職を表明し、内閣からも引責辞任しました。 この一連の騒動は『国会キス事件』として知られ、政治家の品位や責任問題を問う契機となりました。 事件は戦後政治の混乱期におけるスキャンダルの一つとして語り継がれます。
1948年 泉山三六 国会キス事件
1950年

地方公務員法公布。

1950年12月13日、日本で地方公務員の勤務条件や身分を定めた地方公務員法が公布された日。
1950年12月13日、日本で地方公務員の服務、給与、採用基準などを定める『地方公務員法』が公布されました。 この法律は地方自治体の公務員制度を体系化し、住民サービスの質の向上を目指すものです。 身分保障や勤務規律、昇任・賞罰などについて詳細な規定が設けられました。 成立により、地方自治体は統一的なルールに基づいた組織運営が可能となりました。 法の公布は地方行政の近代化を推進した重要な制度改革でした。
1950年 地方公務員法
1959年

キプロスで大統領選挙。キプロス正教会首座主教マカリオス3世を選出。

1959年12月13日、キプロスで初の大統領選挙が行われ、マカリオス3世が選出。
1959年12月13日、キプロスで初の大統領選挙が実施され、マカリオス3世(キプロス正教会首座主教)が選出されました。 キプロスは英国統治からの独立過程にあり、この選挙は共和制への移行を象徴する重要な一歩でした。 教会と国民の強い支持を受けたマカリオス3世は、独立後の国づくりと外交政策に大きな影響力を持ちました。 選挙後、キプロス共和国は同年に正式に成立し、マカリオス3世は初代大統領として就任しました。 この出来事は東地中海地域の政治秩序にも波紋を広げました。
1959年 キプロス キプロス正教会 英語版 首座主教 マカリオス3世
1974年

マルタが英連邦王国からイギリス連邦内の共和国となる。

1974年12月13日、マルタが共和国へ移行し主権を強化。
1974年12月13日、マルタが英連邦王国からイギリス連邦内の共和国へと移行しました。 独立から王国としてイギリス女王を元首に据えていたマルタは、完全な共和制国家を志向。 これにより国家元首は大統領に置き換えられ、憲法上も君主制の跡地が消滅。 共和国移行はマルタの主権とアイデンティティ確立を象徴し、国際社会での地位を高めました。 同国は引き続き英連邦加盟国として協力関係を維持しています。
1974年 マルタ 英連邦王国 イギリス連邦 共和国
1977年

日本社会党大会で飛鳥田一雄を党委員長に選出。

1977年12月13日、日本社会党が飛鳥田一雄を委員長に選出。
1977年12月13日、日本社会党大会で飛鳥田一雄が委員長に選出されました。 飛鳥田は元科学技術庁長官として政策立案能力を評価され、党再建の旗振り役に。 以降、社会党は内部路線の調整と大衆幅広い支持獲得を目指して活動を強化。 この選出は同党の方向性を示す重要なターニングポイントとなりました。 政治情勢の変動期における党内リーダーシップの交代として注目されました。
1977年 日本社会党 飛鳥田一雄 党委員長
1981年

ポーランド首相ヤルゼルスキが民主化運動への対抗策として戒厳令を発令。

1981年にポーランドのヤルゼルスキ首相が民主化運動抑制を目的に戒厳令を発令し、国全土で軍事統制が始まった。
1981年12月13日、ポーランド共産党第一書記兼首相のヴォイチェフ・ヤルゼルスキは、反体制運動「連帯」を抑え込むため戒厳令を宣言しました。これにより全国で軍事政権が敷かれ、集会の禁止や報道規制が導入されました。多数の活動家が逮捕され、連帯運動は地下に潜行しました。戒厳令は1983年7月に解除されるまで続き、ポーランド社会に深い影響を与えました。後にヤルゼルスキらはポーランド最後の共産党政権として歴史に刻まれました。
1981年 ポーランド ヤルゼルスキ 戒厳令
1991年

韓国と北朝鮮が南北基本合意書を締結。

1991年に韓国と北朝鮮が南北基本合意書を締結し、非武装地帯の現状維持や相互非侵略を確認した。
1991年12月13日、韓国と北朝鮮は南北基本合意書に調印し、朝鮮半島の緊張緩和と協力の枠組みを設立しました。合意書では非武装地帯の安定、相互非侵略、文化・体育交流の促進、斬首・拷問・虐待の禁止などが盛り込まれました。この合意は冷戦終結後の朝鮮半島における最初の公式合意であり、後の南北関係改善への道筋を示しました。しかし実効性には限界があり、以後の協議で多くの課題が浮上しました。
1991年 韓国 北朝鮮 南北基本合意書
2005年

韓国大統領盧武鉉がASEAN各国首脳とクアラルンプールの第九次首脳会談で包括的経済協力枠組み協定を締結する。

2005年に盧武鉉大統領がクアラルンプールでASEAN首脳と包括的経済協力協定を締結し、地域経済統合を推進した。
2005年12月13日、マレーシアのクアラルンプールで開催された第9回ASEAN韓国首脳会議において、盧武鉉大統領はASEAN各国首脳とアセアン・韓国包括的経済協力枠組み(AKFTA)の合意文書に調印しました。協定は貿易・投資の自由化、関税削減、産業協力、サービス・農業分野の連携強化などを盛り込み、経済成長と地域統合を目指しています。これにより韓国はASEAN市場へのアクセスを拡大し、域内企業の競争力向上を図りました。
2005年 韓国 盧武鉉 ASEAN クアラルンプール
2024年

12月3日の韓国の戒厳令に関して、趙志浩(チョジホ)韓国警察庁長官と金峰植(キムボンシク)ソウル警察庁長官が逮捕される。

2024年12月3日、戒厳令に関与した疑いで韓国の警察庁トップ2名が逮捕されました。
2024年12月3日、韓国で戒厳令に関連する不正疑惑の捜査が進められ、捜査当局は国家警察の最高責任者である趙志浩韓国警察庁長官と金峰植ソウル警察庁長官を逮捕しました。本件は戒厳令の発令や運用過程における不正関与の疑いを解明するための捜査の一環です。逮捕容疑の詳細は公表されていませんが、戒厳令の手続きや実務への関与が焦点となっています。国内外メディアは一連の逮捕劇を速報し、韓国の治安政策や政治権力の透明性に対する関心が高まっています。現在も捜査が継続中であり、今後の動向が注目されています。
2024年 12月3日