1294年
ローマ教皇ケレスティヌス5世が自ら教皇を退位。
1294年、教皇ケレスティヌス5世が自らの意思で教皇位を退いた稀有な出来事。
ケレスティヌス5世は1235年生まれの修道士出身の教皇です。長期の教皇空位の末に選出されましたが、教皇職の重圧からわずか5ヶ月後に退位を決断しました。公式に辞任した初の教皇となり、その後は隠棲生活を送りました。退位後にはボニファティウス8世が後任として選出され、教皇辞任の先例として教会史に大きな影響を与えました。
1294年
ケレスティヌス5世
1577年
イギリスの軍人フランシス・ドレークが艦隊を率いてプリマスから世界周航に出発。
1577年、フランシス・ドレークが率いるイギリス艦隊がプリマスを出発し、世界周航を開始。
フランシス・ドレークはイギリスの海軍士官で私掠船船長として知られています。エリザベス1世の支援を受け5隻の艦隊で出発し、航海中にスペイン船を捕捉・略奪して財宝を獲得しました。太平洋を横断しアメリカ西海岸を北上した後、アジアを回って大西洋へ戻り、1580年にプリマスへ凱旋しました。イングランド初の世界周航として国際的な注目を集め、後の探検航海に大きな影響を与えました。
1577年
イギリス
フランシス・ドレーク
プリマス
世界周航
1636年
マサチューセッツ湾植民地がインディアンから植民地を守るため民兵を設置。州兵の起源。
1636年、マサチューセッツ湾植民地がインディアンから植民地を防衛するため民兵隊を組織し、州兵制度の起源となった。
マサチューセッツ湾植民地は入植者の安全確保を目的に民兵を設置しました。成人男性が地域ごとに武器を携行し、定期的に訓練を実施する制度が整えられました。この組織は植民地防衛の主力として機能し、後に植民地軍や州兵へと発展しました。今日のアメリカ合衆国における州兵制度の前身と考えられ、地方自治と軍事の結合例としても注目されています。
1636年
マサチューセッツ湾植民地
民兵
州兵
慶応3年11月18日
新撰組が伊東甲子太郎ら御陵衛士を暗殺(油小路事件)。
1867年、油小路で新選組が伊東甲子太郎ら御陵衛士を襲撃し暗殺した油小路事件が発生。
新選組内の権力闘争が発端となった事件です。伊東甲子太郎は御陵衛士を組織して新選組からの独立を模索していました。土方歳三らはこの動きを察知し、京都油小路で待ち伏せを計画。12月13日夜に襲撃し、伊東ら数名を斬殺しました。新選組の結束を強固にする一方で、激しい内部抗争として幕末史に刻まれています。
1867年
慶応
11月18日
新撰組
伊東甲子太郎
御陵衛士
油小路事件
1874年
「双子の場合は、先に産まれた方を兄・姉とする」という太政官指令が出される。
1874年、太政官から双子の出生順を先に生まれた方を兄姉とする旨の指令が発せられた。
明治政府は戸籍制度の整備を進める中でこの指令を公布しました。双子の呼称を明確化し戸籍上の混乱を防止する目的がありました。先に生まれた者を法的に兄や姉と定義した初めての規定で、今日でも民法上の慣習として残っています。家族制度や相続制度にも影響を与えた社会政策の一つです。
1874年
双子
1902年
哲学館に付与されていた卒業生に対する教員免許の無試験交付特権が剥奪される(哲学館事件)。
1902年、哲学館の卒業生に対する無試験教員免許交付特権が剥奪される哲学館事件が起きた。
哲学館は明治期の私立高等教育機関として設立されました。卒業生に教員免許を無試験で交付する特権が長年認められていたものの、文部省の監査で不当性が指摘されました。太政官命令により特権が剥奪され、卒業生も試験合格が必要となりました。教育制度の公平性を巡る論争を巻き起こし、私学の権限と国家統制の関係を考える上で重要な事件とされています。
1902年
哲学館
哲学館事件
1931年
犬養毅内閣が発足。
1931年、犬養毅を首相とする犬養内閣が正式に発足した。
第28代内閣として関東大震災後の復興や経済対策に取り組みました。犬養毅は政友会総裁として組閣し、立憲政友会の政治基盤を強化しました。軍部の台頭や政党政治との対立が激化する時期に成立した内閣です。外交面では中国情勢への対応を模索しました。五・一五事件まで続いた政権で、評価は分かれています。
1931年
犬養毅内閣
1931年
犬養内閣の初閣議で日本の金輸出再禁止を決定。金本位制から管理通貨制度に移行。
1931年、犬養内閣が金輸出の再禁止を決定し金本位制を放棄、管理通貨制度へ移行した。
世界恐慌の影響で金流出が深刻化し、金本位制維持が物価下落を招くと判断されました。内閣は閣議決定により金輸出を再禁止し事実上金本位制を放棄しました。これにより管理通貨制度が導入され、為替相場の変動が許容されました。金融政策の転換点となり、日本の経済回復に一定の寄与を果たしました。
金輸出再禁止
金本位制
管理通貨制度
1937年
日中戦争: 日本軍が南京を陥落させ、南京攻略戦が終結。翌12月14日より6週間、残敵掃討作戦。そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対して殺傷や暴行。この一端として南京事件が発生したと言われているが、現在も論争になっている(南京事件論争)。
1937年、日本軍が南京を陥落させ南京攻略戦が終結し、その後市民に対する虐殺・暴行が行われたとされる。
第二次上海事変後の中国戦線で日本軍が南下を続け、南京は国民政府の首都として防衛線が築かれていました。日本軍は12月13日に市街を制圧し、翌日から数週間にわたり多数の市民や捕虜が殺傷、暴行を受けたと報告されます。南京事件は死傷者数や規模を巡り国際的に論争が続いています。戦争犯罪の責任を問う歴史的問題として、今日でも研究・検証が行われています。
1937年
日中戦争
南京
南京攻略戦
12月14日
南京事件
南京事件論争
1939年
第二次世界大戦: ラプラタ沖海戦。
1939年、第二次世界大戦初期の重要海戦であるラプラタ沖海戦が行われた。
ドイツ巡洋戦艦『アドミラル・グラーフ・シュペー』とイギリス艦隊が南大西洋のラプラタ海域で衝突しました。イギリス側はエクセター、エンカウンター、アケーラの3隻を派遣し、12月13日に交戦が開始されました。戦闘後、グラーフ・シュペーはモンテビデオに入港し損傷を受けたため自沈を選択しました。この海戦は開戦初期の連合国の士気を高揚させ、海上戦闘の様相に影響を与えました。
1939年
第二次世界大戦
ラプラタ沖海戦
1941年
第二次世界大戦: ハンガリー・ルーマニアがアメリカ合衆国に宣戦布告。
第二次世界大戦中、ハンガリーとルーマニアが米国に正式に宣戦布告した歴史的瞬間。
1941年12月13日、枢軸国の一員として参戦していたハンガリーとルーマニアが、アメリカ合衆国に正式に宣戦布告しました。
これによりアメリカは両国を敵国と認定し、大西洋と太平洋の連合国戦略に影響を与えました。
両国はこれまでにも間接的に戦闘に参加していましたが、公式宣言はこの日が初となります。
宣戦布告は国際法上の戦争状態を確定させ、戦後の講和条約や賠償責任の根拠ともなりました。
この歴史的決定は第二次世界大戦のさらなる激化を示す象徴として記録されています。
1941年
ハンガリー
ルーマニア
アメリカ合衆国
1948年
泉山三六蔵相が会期中の国会食堂内で泥酔し女性議員に悪態。翌日議員辞職(国会キス事件)。
1948年12月13日、国会内で泥酔して女性議員に暴言を吐き、翌日に辞職した国会キス事件の顛末。
1948年12月13日、泉山三六蔵相(当時)が国会食堂で酒に酔い、隣にいた女性議員に対して悪態をつきました。
この様子は議員間で広まり、野党から厳しい批判が巻き起こります。
翌日、泉山蔵相は議員辞職を表明し、内閣からも引責辞任しました。
この一連の騒動は『国会キス事件』として知られ、政治家の品位や責任問題を問う契機となりました。
事件は戦後政治の混乱期におけるスキャンダルの一つとして語り継がれます。
1948年
泉山三六
国会キス事件