1098年

第1回十字軍: マアッラ攻囲戦が終結。

第1回十字軍の遠征中、マアッラ攻囲戦が終結し、キリスト教勢力が都市を掌握しました。
1098年、第1回十字軍兵士はシリア北部のマアッラ(現マアッタ・アル=ヌアマン)を包囲しました。 厳冬と補給難の中で都市を攻略し、多数の住民が虐殺されたと伝えられています。 一部史料には飢餓を耐えかねた兵士たちの食人行為も記録され、十字軍の過酷な実態を象徴しました。 この勝利は十字軍南進の重要拠点確保につながり、その後の遠征行動にも影響を与えました。 同時に過激な戦術への批判も生まれ、中世ヨーロッパの宗教戦争史に暗い一頁を刻みました。
1098年 第1回十字軍 マアッラ攻囲戦
1408年

ハンガリー王ジギスムントがドラゴン騎士団を設立。

ハンガリー王ジギスムントが王国の騎士団としてドラゴン騎士団を創設しました。
1408年、ハンガリー王ジギスムント(後の神聖ローマ皇帝)は国境防衛と王権強化を目的にドラゴン騎士団を設立しました。 この騎士団は騎士精神と忠誠を重んじ、王家護衛や軍事行動を担った精鋭部隊とされます。 紋章に龍をあしらった甲冑と旗は権威の象徴となり、後世の騎士文化にも影響を与えました。 内部には貴族や有力者が参加し、宮廷内で政治的役割も果たしました。 騎士団はジギスムントの軍事改革の一環として、中央集権化を支えた重要な存在でした。
1408年 ジギスムント ドラゴン騎士団
1781年

アメリカ独立戦争: ウェサン島の海戦。

アメリカ独立戦争中、ウェサン島沖で小規模な海戦が行われました。
1781年12月12日、アメリカ独立戦争の周辺海域で英仏両海軍がウェサン島を巡って衝突しました。 この海戦ではイギリス艦隊が防衛を試みる中、フランス艦隊が支援を行ったアメリカ側と対峙しました。 交戦は数時間におよび、双方に船体損傷や損失が生じました。 戦略的には大規模な転換点とはならなかったものの、海上支配権を巡る攻防の象徴的な戦闘です。 結果的に英仏の海上戦力は均衡を保ち、戦争の長期化を予感させました。
1781年 アメリカ独立戦争 ウェサン島の海戦
1916年

第一次世界大戦: ドイツがアメリカに連合国との和平交渉の意志を伝達。

第一次世界大戦中、ドイツが連合国との和平交渉に意欲を示した動き。
1916年12月12日、ドイツ帝国政府はアメリカ合衆国を通じて連合国との和平交渉意思を伝達。 西部戦線の膠着状態を打開するため、ドイツ政府が秘密裏に働きかけた。 しかしイギリスやフランスは交渉を拒否し、戦争はその後も長期化。 最終的にはドイツ敗北へとつながる要因の一つとなった。
1916年 第一次世界大戦 ドイツ 連合国
1936年

張学良・楊虎城配下の部隊が西安滞在中の蔣介石を拘束、国共合作と抗日を要求(西安事件)。

張学良・楊虎城が蔣介石を拘束し、国共合作と抗日統一を要求した西安事件。
1936年12月12日、西安に滞在中の国民党総裁蔣介石が張学良・楊虎城配下の部隊により拘束。 目的は国共内戦の停止と抗日戦線の統一を迫ることだった。 事件は翌日に和平交渉が行われ、蔣介石は解放されるが、以後中国共産党との協力路線が強化。 西安事件は中国抗日統一戦線成立の転機となった歴史的事件。
1936年 張学良 楊虎城 西安 蔣介石 国共合作 抗日 西安事件
1937年

日中戦争:南京攻略戦の日本海軍機が、米太平洋艦隊の「パナイ」と英海軍の「レディーバード」を中国側の艦船と誤認して攻撃。「パナイ」は沈没、「レディーバード」も損害を被った(パナイ号事件)。

日中戦争中、日本海軍が米英艦艇を誤認攻撃したパナイ号事件。
1937年12月12日、南京攻略戦の最中、中国大陸上を航行していた米太平洋艦隊の砲艦「パナイ」と英貨客船「レディーバード」が日本海軍機に攻撃された。 日本側は中国艦船と誤認して銃爆撃を実施し、「パナイ」は沈没。「レディーバード」も被弾し、大きな損害を受けた。 乗員・乗客にも死傷者が出て、米国やイギリスから抗議を招いた。 事件は日米関係悪化の要因の一つとなり、国際的に非難された。
1937年 日中戦争 南京攻略戦 日本海軍 米太平洋艦隊 パナイ 英海軍 レディーバード パナイ号事件
1941年

第二次世界大戦: イギリスがブルガリア・ハンガリー・ルーマニアに宣戦布告。インドが日本に宣戦布告。

第二次世界大戦で連合国が枢軸国に宣戦布告し、戦線が拡大した。
1941年12月12日、イギリスはブルガリア・ハンガリー・ルーマニアに対して宣戦布告し、枢軸側との戦闘を正式に開始。 同日、インド帝国(当時英領)は日本に宣戦布告し、太平洋戦線がさらに拡大。 この措置により連合国と枢軸国の戦争は世界的な規模となり、各地域で激しい戦闘が続いた。 両陣営の結束と対立はその後の戦局に大きな影響を与えた。
1941年 第二次世界大戦 イギリス ブルガリア ハンガリー ルーマニア インド 日本
1941年

第二次世界大戦: 支那事変(日中戦争)からの一連の戦争を総称して「大東亜戦争」と呼ぶとする閣議決定が発表。

閣議決定により、日中戦争を含む一連の戦争を『大東亜戦争』と呼称することが定められた。
1941年12月12日、日本政府は閣議を開き、支那事変以来の東アジアでの戦争を総称して「大東亜戦争」と呼ぶと決定。 この名称は戦争の正当化と国民統合を図るプロパガンダの一環として用いられた。 以降、公式文書や報道では「大東亜戦争」が多用され、戦後の歴史認識にも影響を及ぼした。 戦後の国際社会では「第二次世界大戦」の一部と位置づけられている。
支那事変 戦争 大東亜戦争 閣議
1942年

第二次世界大戦・独ソ戦: 冬の嵐作戦開始。

1942年12月12日、ドイツ軍が独ソ戦において第6軍を救出するための大規模攻勢『冬の嵐作戦』を開始しました。
第二次世界大戦中の東部戦線で、スターリングラードで包囲されたドイツ第6軍を救出するべく4装甲軍が発動した作戦です。厳冬期を迎えたロシア南方戦線で行われたこの攻勢は、初期には一定の進展を見せましたが、ソ連軍の反撃や厳しい気候、補給難により目標を達成できず失敗に終わりました。包囲したソ連軍との激しい戦闘は両軍に大きな損害をもたらし、戦局に大きな影響を与えました。
1942年 独ソ戦 冬の嵐作戦
1961年

旧日本軍将校らによるクーデター計画が発覚(三無事件)。

1961年12月12日、旧日本軍将校らによるクーデター計画『三無事件』が発覚しました。
戦後の混乱期に旧陸軍将校らが中心となって政府転覆を企てた『三無事件』が摘発されました。計画は無政府主義、無産階級政権の樹立などを掲げていたため『三無』と呼ばれています。警察当局は計画の初期段階で情報を掴み、多数の関係者を逮捕しました。裁判では陰謀罪が適用され、指導者らは有罪判決を受けています。事件は新生日本の政治体制を揺るがす企てとして大きな衝撃を与えました。
日本軍 クーデター 三無事件