寛治元年11月14日

後三年の役が終結。

平安時代中期の東北地方の豪族同士の争い「後三年の役」が終結し、源義家が勝利を収めました。
後三年の役は、平安時代中期の奥州藤原氏と朝廷勢力との間で行われた大規模な内乱です。 源義家や兄・義親らが参戦し、藤原氏を破ったことで戦乱は鎮圧されました。 寛治元年11月14日(1087年12月11日)の決戦は源氏方の決定的勝利となり、源義家の武名は全国に広まりました。 この勝利は源氏の勢力拡大を促し、以後の鎌倉幕府成立への足掛かりともなりました。 東北地方の安定は奥州藤原氏の一時的な復興を経て、中世日本史に大きな影響を与えました。
1087年 寛治 11月14日 後三年の役
1282年

最後のウェールズ大公ルウェリン・アプ・グリフィズが戦死。

ウェールズの最後の独立君主ルウェリン・アプ・グリフィズが戦死し、中世ウェールズの抵抗が終息しました。
1282年12月11日、ウェールズ大公ルウェリン・アプ・グリフィズはエドワード1世率いるイングランド軍との戦闘(オーウェリン橋の戦い)で討ち死にしました。 彼はプランタジネット朝支配に抵抗する指導者として、ウェールズの自立を求め続けました。 ルウェリンの戦死により、ウェールズはイングランド王権下に組み込まれ、その独立は終焉を迎えました。 彼の死はウェールズ民族意識の象徴とされ、後世の抵抗運動に影響を与えました。
1282年 ウェールズ大公 ルウェリン・アプ・グリフィズ
寛永14年10月25日

島原の乱が勃発。

九州島原地方の農民やキリシタンが蜂起し、幕府に対する大規模反乱「島原の乱」が始まりました。
江戸時代の1637年12月11日、重税と宗教弾圧に苦しむ島原・天草の農民やキリシタン信徒が蜂起しました。 指導者たちは原城(現長崎県島原市)に立て籠もり、幕府の支配体制に反旗を翻しました。 幕府は約5万人の大軍を派遣し、3か月にわたる包囲戦の末に一揆を鎮圧しました。 結果として数万人が犠牲となり、キリシタンへの弾圧は一層厳しくなりました。 この乱は幕藩体制の脆弱さと宗教問題の緊張を示す歴史的事件となりました。
1637年 寛永 10月25日 島原の乱
1806年

ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世を王としてザクセン公国がザクセン王国となる。

神聖ローマ帝国内のザクセン選帝侯領が王国に昇格し、フリードリヒ・アウグスト3世が初代ザクセン王に就任しました。
ナポレオン戦争下の1806年12月11日、神聖ローマ帝国の解体が進む中でザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世(王としてはフリードリヒ・アウグスト1世)はザクセン王位を授けられました。 これによりザクセン公国はザクセン王国へと昇格し、領土と国際的地位が向上しました。 王国化はナポレオンの後押しを受けたもので、ザクセンはフランスとの同盟関係を強化しました。 新たな王政下で行政改革や軍事組織の再編が行われ、国家体制の近代化が進められました。 この出来事はドイツ統合運動やヨーロッパ情勢に影響を与えました。
1806年 ザクセン選帝侯 フリードリヒ・アウグスト3世 ザクセン公国 ザクセン王国
1816年

インディアナ準州が州に昇格し、アメリカ合衆国19番目の州・インディアナ州となる。

アメリカ合衆国のインディアナ準州が州に昇格し、19番目の州インディアナ州が誕生しました。
1816年12月11日、アメリカ合衆国議会の決議によりインディアナ準州は州へ昇格しました。 新設されたインディアナ州は中西部に位置し、州政府と議会が発足しました。 領土組織法に基づく州昇格は、入植者の増加と地域の発展を反映するものでした。 この昇格により、インディアナ州は農業・物流の拠点として急速に成長し、開拓史における重要な節目となりました。 現在のインディアナ州はインディアナポリスを州都とし、米国有数の州の一つに発展しています。
1816年 インディアナ準州 アメリカ合衆国 インディアナ州
1889年

九州初の鉄道が、九州鉄道の手により博多 千歳川(仮駅)間で開業。

九州地方初の鉄道が博多–千歳川(仮駅)間で開業し、地域の交通網が整備されました。
1889年12月11日、九州鉄道が博多駅と千歳川(仮駅)間の区間を開業させました。 これは九州地方で初めて敷設された鉄道路線で、旅客輸送や物資輸送に大きな変革をもたらしました。 線路は狭軌(1067mm)で建設され、地域の産業振興と都市間の往来を促進しました。 開業当初は1日に数往復の運行でしたが、鉄道の利便性が認められると利用者数が急増しました。 この出来事は九州の近代化と経済発展の契機となりました。
1889年
1913年

京都法政学校が私立立命館大学に改称。

京都法政学校が私立立命館大学に改称し、新たな教育理念を掲げました。
1913年12月11日、京都法政学校は「私立立命館大学」へと名称を変更しました。 創設者の西園寺公望や添田一三らが提唱した「立命」の理念は、自主性と社会貢献を重視する教育方針です。 改称後は学制の整備やキャンパスの拡充が進み、学生数と教育内容が飛躍的に拡大しました。 その後も立命館大学は国際交流や研究活動を強化し、総合大学としての地位を確立しました。 現在では京都市と大阪府に複数のキャンパスを持ち、多彩な学問分野を提供しています。
1913年 京都法政学校 私立立命館大学
1927年

広州起義。中国共産党が広州で武装蜂起。

中国共産党が広州で武装蜂起し、国共内戦の激化を象徴する事件が発生しました。
1927年12月11日、上海クーデター後の緊張が高まる中国で、中国共産党は広州で武装蜂起しました。 蜂起は周恩来や葉剣英らが指導し、広東省を拠点に短期間占領を試みました。 しかし国民党軍との衝突や英国租界の干渉により、わずか数日で鎮圧されました。 蜂起の失敗は共産党に多くの犠牲を強いる結果となり、党は農村ゲリラ戦術への転換を迫られました。 広州起義は中国共産党の戦術的転換点として重要視されています。
1927年 広州起義 中国共産党 広州
1929年

南武鉄道線(現JR南武線)が全線開通。

南武鉄道線が全線開通し、川崎から立川を結ぶ路線が完成しました。
1929年12月11日、南武鉄道は川崎駅(当時は大川駅)から立川駅(当時は武蔵砂川駅)までの全線を開通させました。 この開通により南武線は多摩川流域の主要交通路となり、通勤・通学路線として利用者が急増しました。 貨物輸送も担い、沿線地域の工業発展やベッドタウン化を促進しました。 後に国有化されて日本国有鉄道(JNR)の一部となり、現在はJR東日本が運営しています。 南武線は今日でも首都圏の重要な通勤路線の一つです。
1929年 南武鉄道 南武線
1931年

ウェストミンスター憲章がイギリス議会で採択され、イギリス連邦が正式に発足。

イギリス議会でウェストミンスター憲章が採択され、イギリス連邦が法的に発足しました。
1931年12月11日、イギリス議会はウェストミンスター憲章を採択し、自治領の完全な立法・行政権を承認しました。 これによりカナダやオーストラリアなどの自治領は英国本国から独立した対等な国家としての地位を獲得しました。 ウェストミンスター憲章は英連邦の基本法となり、旧帝国各国の連帯と協力を法的枠組みで支えました。 本憲章の制定は英連邦の発展と民主主義の拡大に寄与し、現在のCommonwealth of Nationsへと引き継がれています。 国際社会におけるイギリスの影響力にも大きな変化をもたらしました。
1931年 ウェストミンスター憲章 イギリス イギリス連邦
1936年

イギリス国王エドワード8世が退位。(エドワード8世の退位)

イギリス国王エドワード8世が退位し、弟のジョージ6世が新たに即位しました。
イギリス国王エドワード8世は1936年1月に即位しましたが、同年に結婚を望んだアメリカ人離婚歴のウォリス・シンプソンとの関係が国政府や英連邦内で大きな憲法的混乱を招きました。政府と英連邦首脳の強い反対を受けたエドワード8世は国王としての地位を守ることよりも結婚を選び、12月11日に退位を表明しました。彼は「私の生涯の大きな不幸」と退位理由を述べ、歴史上希有な王位辞退を実現しました。退位後は「ウィンザー公爵」を称し、ジョージ6世が即位しました。イギリス憲政史において極めて異例の出来事であり、王室と政府の関係に大きな影響を与えました。
1936年 イギリス エドワード8世 エドワード8世の退位
1937年

第二次エチオピア戦争: イタリアが国際連盟から脱退。

第二次エチオピア戦争で制裁を受けたイタリアが国際連盟から脱退しました。
1935年に始まった第二次エチオピア戦争で国際連盟はイタリアに制裁を科しましたが、その後も侵攻をやめなかったムッソリーニ政権は勢いを強めました。これに反発したイタリアは1937年12月11日に国際連盟から正式脱退し、国際協調の枠組みを離脱しました。イタリアの脱退は国際連盟の威信を大きく損ない、集団安全保障体制の脆弱さを露呈させる結果となりました。脱退後、イタリアは枢軸国としてナチス・ドイツとの結びつきを深め、第二次世界大戦への道を加速させました。この決定は1930年代の国際政治の不安定化を象徴し、戦間期の和平維持の難しさを示しました。
1937年 第二次エチオピア戦争 イタリア 国際連盟