1901年
田中正造が足尾銅山の鉱毒事件について明治天皇に直訴。
田中正造が足尾銅山鉱毒事件の被害を訴え、直接明治天皇に直訴した。
1901年12月10日、日本の政治家・社会運動家田中正造が足尾銅山の鉱毒被害について直接明治天皇に直訴しました。
渡良瀬川流域での鉱毒による農作物被害や住民生活の惨状を天皇に直に訴えるという異例の行動でした。
田中は国会議員として政府に改善を求め続けるとともに、被害者救済と環境保全の必要性を強く訴えました。
この直訴は政府を動かす契機となり、後の鉱毒対策や環境保護運動の先駆けとなりました。
田中正造の行動は日本の社会運動史や環境行政史において重要な位置を占めています。
田中正造
鉱毒事件
明治天皇
1943年
文部省、学童の疎開を促進する。
文部省が戦時下の学童保護のため、都市部から地方への集団疎開を本格的に促進した出来事。
太平洋戦争の激化に伴い、都市部への空襲が増大。
文部省は児童の安全確保を目的に、学童の集団疎開を制度化しました。
地方の農村や防空地域への一時移住が政府主導で進められました。
移住先では地元住民との交流や農作業体験が行われ、戦後の地方復興にも寄与しました。
多くの児童が家族と離れ離れになりましたが、生存率向上に重要な役割を果たしました。
1943年
1957年
天城山心中。天城山で、愛新覚羅溥儀の姪・愛新覚羅慧生と級友の大久保武道のピストル心中遺体を発見。
日中皇族の一員とその級友が、天城山で心中し遺体が発見された衝撃的な事件。
1957年12月10日、伊豆・天城山で愛新覚羅溥儀の姪にあたる愛新覚羅慧生と級友の大久保武道が心中しました。
遺体は後日、山中でピストル自殺とみられる状況で発見され、日本中に大きな衝撃を与えました。
両者は親交のあった学友同士で、動機や詳細は当時不明なままでした。
昭和天皇の末裔に関わる事件として、新聞・雑誌で大きく報道されました。
心中に至った真相は未だ謎に包まれており、多くの研究者やジャーナリストが関心を寄せています。
1957年
天城山心中
愛新覚羅溥儀
愛新覚羅慧生
1968年
東京都府中市で三億円事件が発生。
1968年12月10日、東京都府中市で発生した日本史上最大級の現金強奪事件。犯人の大胆不敵な手口と未解決の謎が今も語り継がれます。
1968年12月10日未明、東京・府中市の現金輸送車が襲撃され、現金3億円が奪われました。
犯人はピストルで警護員を威嚇し、発煙筒と車両を利用して脱出。
巨大な金額と巧妙な手口から一時は国民的関心を集めました。
警視庁は日本警察史上最大規模の捜査を展開したものの、いまだに真相は闇の中。
事件は「三億円事件」として後世に語り継がれ、多くのミステリーの題材となっています。
1968年
東京都
府中市
三億円事件
1969年
愛媛放送(現・テレビ愛媛)開局。
愛媛県の民間テレビ局として愛媛放送(現・テレビ愛媛)が開局。地域密着のニュースと番組が地元住民に支持されました。
1969年12月10日、愛媛放送(EBC・現テレビ愛媛)が県内向けにテレビ放送を開始しました。
地域のニュースやイベントを中心に報道し、視聴者からの信頼を獲得。
開局当初は映像と音声の双方向通信技術が限られていましたが、番組制作に注力。
ローカル番組や娯楽番組が県民の生活に彩りを与え、視聴率を伸ばしました。
現在も愛媛県内で高い視聴率を誇る主要メディアとして親しまれています。
1969年
愛媛放送(現・テレビ愛媛)
1975年
三億円事件の公訴時効が成立。
1968年の三億円事件で逮捕者が現れないまま、1975年12月10日に公訴時効が成立し、未解決のままとなりました。
1968年の三億円事件は発生から7年後の1975年12月10日、刑法の公訴時効により時効が成立。
日本の公訴時効は当時7年と定められており、事件発生以降捜査が続けられたものの立件ならず。
時効成立後、犯人の処罰は法的に不可能となり、真相解明は事実上頓挫。
事件は多くの推理家やジャーナリストを惹きつけ、未解決ミステリーとして君臨。
後年、時効制度への疑問や改正議論が沸き起こるきっかけにもなりました。
1975年
三億円事件
時効