建武3年/延元元年11月7日

建武式目が制定される。

建武の新政を支えるために足利尊氏らが制定した武家法の基本法典。武家法の原型として中世の法体系に大きな影響を与えました。
建武式目は1336年に足利尊氏らによって制定された法令集です。 建武の新政における統治機構を支えるための基本法典として機能しました。 鎌倉幕府の法令である御成敗式目と並び、武家法の基礎を築きました。 武士階級の所領支配や訴訟手続き、軍制などを規定し、武家社会の秩序維持に寄与しました。 後の南北朝時代や室町幕府の法制度にも影響を与えました。
1336年 建武 延元 11月7日 建武式目
1520年

マルティン・ルターが、自説を撤回しなければ破門するとの教皇レオ10世による警告文書を焼く。

マルティン・ルターが教皇レオ10世の破門警告文書を焼却し、宗教改革の決定的転機となった。
マルティン・ルターは1520年に教皇レオ10世から自説を撤回しなければ破門すると通告されました。 ルターはヴィッテンベルク大学前で教皇の布告文を公然と焼き捨て、神の前にのみ服従することを示しました。 この行為は宗教改革運動の象徴的事件となり、カトリック教会との対立を深める契機となりました。 ルターの反ローマ的立場は広く支持を集め、プロテスタント諸派の形成へとつながりました。 以降、ヨーロッパ宗教戦争の火種となる重要な一幕となりました。
1520年 マルティン・ルター 破門 レオ10世
天正6年11月12日

島津義久、義弘、家久兄弟が大友軍に大勝する。(耳川の戦い)

島津義久・義弘・家久兄弟が耳川の戦いで大友軍に大勝し、九州制覇への足掛かりを築いた。
1578年12月10日、九州の耳川で島津氏と大友氏が衝突しました。 島津義久・義弘・家久の兄弟三人が率いる島津軍は機動力と鉄砲隊を駆使して大友軍を撃破しました。 大友宗麟率いる約2万の大軍を相手に、1万人余りの島津軍が圧倒的勝利を収めました。 この勝利により島津氏は九州南部での勢力を確固たるものとし、後の九州制覇へ大きく前進しました。 戦術面でも軍事構造の転換を示す重要な合戦とされています。
1578年 天正 11月12日 島津義久 義弘 家久 大友軍 耳川の戦い
1817年

ミシシッピ準州が州に昇格してアメリカ合衆国20番目の州・ミシシッピ州となる。

ミシシッピ準州がアメリカ合衆国20番目の州に昇格し、ミシシッピ州が誕生した。
1817年12月10日、ミシシッピ準州が正式に州に昇格し、アメリカ合衆国の20番目の州となりました。 人口増加と西部開拓の進展を受け、新たな州政府と憲法が制定されました。 州都は当初ナチェズに置かれ、その後州都移転議論も活発化しました。 農業を基幹産業とする南部州の一角として、綿花プランテーション経済が発展しました。 この州昇格はアメリカ南部開拓の転換点となりました。
1817年 ミシシッピ準州 アメリカ合衆国 ミシシッピ州
1898年

米西戦争和平のためのパリ条約に調印。アメリカ合衆国がプエルトリコ・グアム・フィリピンを獲得。

米西戦争の講和パリ条約が締結され、アメリカがプエルトリコ・グアム・フィリピンを獲得した。
1898年12月10日、スペインとアメリカの間でパリ条約が調印され、米西戦争に終止符が打たれました。 この条約により、スペインはプエルトリコ・グアム・フィリピンをアメリカに割譲しました。 キューバは独立を承認されるも、実質的にアメリカの保護下に置かれました。 アメリカの海外領土獲得は帝国主義的拡大を象徴し、米国の海洋進出を促進しました。 この講和は国際政治に大きな影響を与え、20世紀初頭の米国外交を決定づけました。
1898年 米西戦争 パリ条約 アメリカ合衆国 プエルトリコ グアム フィリピン
1901年

第1回ノーベル賞授賞式。

第1回ノーベル賞授賞式がストックホルムで開催され、初の受賞者が表彰された。
1901年12月10日、ストックホルム市庁舎で第1回ノーベル賞授賞式が開催されました。 アルフレッド・ノーベルの遺言に基づき物理学・化学・生理学・文学・平和の五部門で受賞者が発表されました。 初回受賞者にはX線発見者や化学の先駆者など、当時の科学・芸術・平和運動を代表する人物が名を連ねました。 この授賞式を通じてノーベル賞は国際的権威を確立し、世界中の研究者や文化人に大きな影響を与えました。 以降、毎年12月10日のノーベル記念日に授賞式が恒例となりました。
1901年 ノーベル賞
1901年

田中正造が足尾銅山の鉱毒事件について明治天皇に直訴。

田中正造が足尾銅山鉱毒事件の被害を訴え、直接明治天皇に直訴した。
1901年12月10日、日本の政治家・社会運動家田中正造が足尾銅山の鉱毒被害について直接明治天皇に直訴しました。 渡良瀬川流域での鉱毒による農作物被害や住民生活の惨状を天皇に直に訴えるという異例の行動でした。 田中は国会議員として政府に改善を求め続けるとともに、被害者救済と環境保全の必要性を強く訴えました。 この直訴は政府を動かす契機となり、後の鉱毒対策や環境保護運動の先駆けとなりました。 田中正造の行動は日本の社会運動史や環境行政史において重要な位置を占めています。
田中正造 鉱毒事件 明治天皇
1932年

タイ王国で憲法を採択し、立憲君主制に移行。

タイ王国で憲法が採択され、立憲君主制へ移行した。
1932年12月10日、シャム(現タイ)で立憲革命が成功し、憲法が正式に採択されました。 これにより長年続いた絶対君主制が終焉を迎え、ラーマ7世の統治下で立憲君主制に移行しました。 人民党(カーナー・ラート)が1932年のクーデターを主導し、政治改革を推進しました。 新憲法は議会制度の導入や基本的人権の保障を規定し、近代国家への一歩を踏み出しました。 タイの政治体制と国民意識に大きな転換点をもたらした出来事です。
1932年 タイ王国 憲法 立憲君主制
1935年

株式会社大阪野球倶楽部(大阪タイガース、現・阪神タイガース)創立。

株式会社大阪野球倶楽部(後の阪神タイガース)が創立され、日本プロ野球史に新たな球団が誕生した。
1935年12月10日、大阪の産経新聞社を中心に株式会社大阪野球倶楽部が設立されました。 同球団は大阪タイガースとしてプロ野球に参入し、関西地区に初のプロチームを擁しました。 球団創設には関西の地元企業が出資し、阪神電鉄も後に大株主として加わります。 チームは阪神甲子園球場を本拠地とし、多くのファンを獲得していきました。 阪神タイガースは日本プロ野球を代表する人気球団の一つとして成長しました。
1935年 阪神タイガース
1941年

第二次世界大戦: マレー沖海戦。日本海軍の陸上攻撃機隊がイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈。

マレー沖海戦で日本海軍が英戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈し、太平洋戦線の緒戦で優位を得た。
1941年12月10日、マレー沖海戦において日本海軍の航空隊がイギリス海軍の戦艦プリンス・オブ・ウェールズを撃沈しました。 これはマレー半島への上陸作戦を支援する空母部隊による攻撃で、短時間で戦艦を無力化しました。 イギリス海軍はレパルスとプリンス・オブ・ウェールズの二隻を喪失し、太平洋・極東での勢力均衡が大きく崩れました。 この勝利により日本軍はマレー侵攻を促進し、シンガポール陥落への道筋を固めました。 航空機を活用した海戦の威力を示した海戦として評価されています。
1941年 第二次世界大戦 マレー沖海戦 日本海軍 プリンス・オブ・ウェールズ
1941年

第二次世界大戦: 日本軍がグアム・タラワ・マキン(現キリバス)を占領。

第二次世界大戦中、日本軍が太平洋の戦略拠点であるグアム、タラワ、マキンを相次いで占領した出来事。
第二次世界大戦が太平洋で激化する中、日本軍は1941年12月10日にグアム、タラワ、マキンを相次いで制圧しました。 これらの島々は連合軍の補給網を断つ戦略的要衝であり、上陸作戦には艦砲射撃と航空支援が伴いました。 特にタラワでは激戦となり、多くの双方の犠牲者を出しました。 占領後、日本軍は防衛線を構築し、連合軍の反攻を遅延させる狙いがありました。 しかし、後のミッドウェー海戦などで形勢が逆転し、これらの拠点は再び連合軍の手に渡ることになります。
日本軍 グアム タラワ キリバス
1943年

文部省、学童の疎開を促進する。

文部省が戦時下の学童保護のため、都市部から地方への集団疎開を本格的に促進した出来事。
太平洋戦争の激化に伴い、都市部への空襲が増大。 文部省は児童の安全確保を目的に、学童の集団疎開を制度化しました。 地方の農村や防空地域への一時移住が政府主導で進められました。 移住先では地元住民との交流や農作業体験が行われ、戦後の地方復興にも寄与しました。 多くの児童が家族と離れ離れになりましたが、生存率向上に重要な役割を果たしました。
1943年