明治5年11月9日
明治政府が、この年の12月31日(12月2日 (旧暦))の翌日から太陰太陽暦を廃止して太陽暦を採用することを決定。
明治政府が旧暦の太陰太陽暦を廃止し、太陽暦(グレゴリオ暦)を採用することを決定しました。
1872年(明治5年)12月9日、明治政府は31日(旧暦では11月9日)の翌日から太陰太陽暦を廃止すると発表。
これにより1873年1月1日からグレゴリオ暦が正式に導入されました。
暦の西洋化は欧米諸国との交渉や国内の近代化を加速させる重要な一歩。
日付や祝祭日の整理、行政手続きの統一にも寄与。
日本の社会生活はこの改革によって大きく変容しました。
1872年
明治5年
11月9日
12月31日
12月2日 (旧暦)
太陰太陽暦
太陽暦
1945年
GHQによる宣伝番組「眞相はかうだ」放送開始。
GHQが制作したラジオ番組「眞相はかうだ」が放送を開始しました。占領期の宣伝活動として知られています。
1945年12月9日、連合国軍総司令部(GHQ)によるラジオ番組「眞相はかうだ」が放送を開始しました。
番組は日本国民への占領政策の正当性を訴える宣伝目的で制作され、主にラジオ東京(現TBS)で配信されました。
キャッチフレーズは「真相はかうだ」で、演出やナレーションを通じて民主化や非軍事化をアピールしました。
番組は連合国側の視点を伝えるもので、日本側の検閲も含めた情報統制の一端を示す事例となりました。
放送は数ヶ月間続き、占領期メディア研究において重要な資料とされています。
眞相はかうだ
1950年
京都市内の円山公園で開催されていた越年闘争総決起集会の参加者と警察が衝突。警察側の負傷者40人、学生、労働者側の負傷者50人。拘束者は108人にのぼった。
京都・円山公園での集会参加者と警察が衝突し、多数の負傷者と拘束者を出した事件です。
1950年12月9日、京都市円山公園で開催されていた越年闘争総決起集会において参加者と警察が激しく衝突しました。
学生や労働者らは戦後の労働運動活性化を目指して集会を行い、一方警察は公園外への移動を阻止しようとしました。
衝突で警察側は約40名、参加者側は約50名が負傷し、規制違反や公務執行妨害などの疑いで108名が拘束されました。
昭和期の学生運動や労働運動の一端を示す事件として記録され、のちの運動史研究の材料ともなっています。
社会的緊張が高まる時代背景の中、市民運動と治安維持の葛藤が浮き彫りになりました。
1950年
1975年
国連総会で障害者の権利宣言を採択。
1975年12月9日、国連総会は「障害者の権利宣言」を採択し、障害者の人権尊重と社会参加の重要性を国際的に認めました。
国連総会が初めて障害者の権利に関する宣言を採択。
宣言は障害者の社会参加、教育、労働の平等を求める内容。
個人の尊厳を尊重し、差別撤廃を訴える重要な国際文書となった。
この採択は各国の法律や制度改革の契機となり。
後に採択される障害者権利条約(CRPD)の前身として位置付けられる。
障害者福祉や人権意識向上に大きな影響を与えました。
1975年
1986年
ビートたけしとたけし軍団によるフライデー襲撃事件が起こる。
1986年12月9日、ビートたけしとたけし軍団が週刊誌『フライデー』編集部を襲撃し、警察沙汰となりました。
人気タレントのビートたけしとその一派「たけし軍団」が週刊誌『フライデー』編集部を襲撃。
同誌の掲載写真に抗議し、編集部の扉を壊すなどの暴行を行った。
事件発生後、警視庁が事情聴取と書類送検を実施。
芸能界とマスコミの緊張関係を浮き彫りにした。
当時のメディア報道は大きな注目を集めた。
その後の芸能人と報道機関の関係に影響を与えた。
1986年
ビートたけし
たけし軍団
フライデー襲撃事件
1989年
全国労働組合連絡協議会(全労協)結成。
1989年12月9日、全国労働組合連絡協議会(全労協)が結成され、日本の労働運動に新たな潮流をもたらしました。
日本の各産業別・地域別労働組合が連携し、全国労働組合連絡協議会(全労協)を結成。
旧全労働組合会議(全労)や諸団体が参加し、勢力の再編を図った。
目的は労働条件の改善や労働者の権利擁護、社会的影響力の強化。
政府や企業との団体交渉力向上を目指し、政策提言も行った。
後に日本労働組合総連合会(連合)の設立へつながる重要な一歩。
日本の労働運動史における転換点と位置付けられている。
1989年
全国労働組合連絡協議会
1992年
ダイアナ妃とチャールズ3世(当時皇太子)の離婚が発表される。
1992年12月9日、チャールズ皇太子とダイアナ妃の離婚が公に発表され、王室に激震が走りました。
1981年に華々しく結婚したチャールズ皇太子とダイアナ妃の夫婦関係悪化が続き、正式離婚が発表された。
発表はウィンザー城で行われ、英国王室史上異例の出来事として報じられた。
報道は世界中に広がり、王室の私生活への関心を一層高めた。
ダイアナ妃の慈善活動やチャリティでの活躍に注目が集まる契機ともなった。
その後離婚手続きは続き、1996年に正式に解消された。
この発表は王室のイメージやメディアとの関係に大きな影響を与えた。
1992年
ダイアナ妃
チャールズ3世
2015年
福岡県警早良署が誤認逮捕をしていたと発表し、別の者を書類送検。
福岡県警早良署が誤認逮捕を公表し、別の容疑者を後に書類送検しました。
2015年、福岡県警早良署は誤認逮捕した事実を公表し、被疑者の身柄を釈放しました。逮捕当時の取り調べで得られた証拠に誤りがあったことが判明し、警察内部の捜査で別の容疑者が浮上しました。後日、その人物を窃盗罪などで書類送検。誤認逮捕は捜査手続きの透明性や警察権の行使をめぐる議論を呼び、再発防止策の強化が求められました。
福岡県警
早良署