536年
東ローマ帝国の将軍ベリサリウスが東ゴート王国のローマに入城。
東ローマ帝国の将軍ベリサリウスが、東ゴート王国支配下のローマに入城しました。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は6世紀のゴート戦争でイタリア半島の制圧を図りました。
将軍ベリサリウスはユスティニアヌス1世の命を受けて遠征を指揮。
536年12月9日、ベリサリウスはかつて東ゴート王国の首都だったローマに入城しました。
この入城はローマ再征服の第一歩となり、西欧世界に大きな影響を与えました。
彼の戦略と政治的手腕は、東ローマ帝国の一時的な勢力回復を象徴しています。
536年
東ローマ帝国
ベリサリウス
東ゴート王国
ローマ
仁和3年11月21日
阿衡事件: 宇多天皇が藤原基経に引き続き政務を執るよう、初めて「関白」の語を使用した詔勅を出す。
阿衡事件で宇多天皇が藤原基経に政務を委ね、初めて「関白」の語を用いた詔勅を発しました。
平安時代における摂関政治の起源となった阿衡事件。
887年(仁和3年11月21日)、宇多天皇は藤原基経に政務を継続させるための詔勅を出しました。
この詔勅では「関白」という称号が初めて正式に用いられました。
関白は天皇の補佐役として摂政とは異なる位置づけを示す重要な制度。
以後、摂関家藤原氏の権勢強化と王朝政治の変容に大きな影響を与えました。
887年
仁和
11月21日
阿衡事件
宇多天皇
藤原基経
関白
明治5年11月9日
明治政府が、この年の12月31日(12月2日 (旧暦))の翌日から太陰太陽暦を廃止して太陽暦を採用することを決定。
明治政府が旧暦の太陰太陽暦を廃止し、太陽暦(グレゴリオ暦)を採用することを決定しました。
1872年(明治5年)12月9日、明治政府は31日(旧暦では11月9日)の翌日から太陰太陽暦を廃止すると発表。
これにより1873年1月1日からグレゴリオ暦が正式に導入されました。
暦の西洋化は欧米諸国との交渉や国内の近代化を加速させる重要な一歩。
日付や祝祭日の整理、行政手続きの統一にも寄与。
日本の社会生活はこの改革によって大きく変容しました。
1872年
明治5年
11月9日
12月31日
12月2日 (旧暦)
太陰太陽暦
太陽暦
1905年
フランスで政教分離法が公布。
フランス共和国で政教分離の原則を定める政教分離法が公布されました。
1905年12月9日、フランス第三共和政下で政教分離法(La loi de séparation des Églises et de l'État)が公布。
国家と宗教の完全な分離を法的に定めることでカトリック教会の政治的影響力を排除。
「ライシテ(laïcité)」の理念を確立し、フランス流の世俗主義を象徴。
教育、公共サービス、言論の自由など広範な領域に影響を及ぼしました。
現代フランスの社会・政治制度の基本原則として今日まで維持されています。
1905年
フランス
政教分離法
1911年
浪花節の桃中軒雲右衛門が日本初のレコードの吹き込みを行う。
浪花節の芸人・桃中軒雲右衛門が日本初のレコード吹き込みを行いました。
1911年12月9日、浪花節の名手・桃中軒雲右衛門が日本で初めての音声レコード録音を実施。
当時、レコード技術は欧米から輸入されたばかりで国内普及の端緒となりました。
浪花節の語り口や節回しが初の音響媒体に記録された意義は大きい。
録音は蓄音機用の円盤レコードに行われ、その復刻盤も後世に残されています。
日本の音楽・演芸文化が近代化する契機となりました。
1911年
桃中軒雲右衛門
1915年
三毛別羆事件発生。
北海道三毛別でヒグマによる大規模襲撃事件が発生しました。
1915年(大正4年)12月9日、北海道雨竜郡三毛別村で巨大なヒグマが農家を襲撃。
この襲撃は数日にわたり行われ、住民7名が命を落とす惨事となりました。
地元では「三毛別羆(ひぐま)事件」と呼ばれ、日本史上最悪クラスの熊害。
猟師や警察も捕獲に苦戦し、最終的に討伐隊が出動しました。
自然と人間の共存が問い直される契機となった事件です。
1915年
三毛別羆事件
1920年
大杉栄らが日本社会主義同盟を結成。
大杉栄らが日本社会主義同盟を結成し、社会主義運動の本格化を図りました。
1920年12月9日、大杉栄・伊藤野枝らが中心となり日本社会主義同盟を結成。
第一次世界大戦後の世界的社会主義運動の高揚を背景に設立されました。
同盟は労働者の権利向上や資本主義批判を掲げ、集会や出版活動を展開。
政府は結社を警戒し、後に弾圧や検挙を強化しました。
日本の左翼運動の礎を築き、後の社会主義・共産主義運動に影響を与えました。
1920年
大杉栄
日本社会主義同盟
1931年
スペイン第二共和政: スペインの国会で新憲法が成立。
スペイン国会で第二共和政の新憲法が成立しました。
1931年12月9日、スペイン第二共和政期に新憲法が国会で可決・成立。
この憲法は教会と国家の分離、男女同権、自治州制度などを盛り込んでいました。
選挙権の拡大や労働者保護など民主主義的改革を推進。
右派勢力との対立が激化し、後のスペイン内戦勃発の一因ともなりました。
共和国はわずか数年で終焉を迎えましたが、憲法の理念は今日まで評価されています。
1931年
スペイン第二共和政
スペイン
国会
1935年
12.9運動。日本が河北省などに設置する予定の冀察政務委員会に反対して北京の学生が抗日デモ。
北京の学生たちが冀察政務委員会設置に反対し、抗日デモ「12・9運動」を展開しました。
1935年12月9日、中国北京の大学生らが河北省・察哈爾省に設置予定の冀察政務委員会に抗議。
冀察政務委員会は日本の傀儡政権樹立を目的とした組織とされていました。
学生たちは中国全土で対日抵抗を訴え、国民の支持を獲得。
この「12・9運動」は中国学生運動史上重要な位置を占め、国民政府にも影響。
七七事変後の抗日民族統一戦線形成の契機となりました。
1935年
河北省
冀察政務委員会
1941年
第二次世界大戦: 中国国民政府・大韓民国臨時政府・キューバ・グアテマラ・フィリピンが日本・ドイツに宣戦布告。
中国国民政府や複数国が日本・ドイツに対して正式に宣戦布告しました。
1941年12月9日、中国国民政府は日本・ドイツへの宣戦を公式に宣言。
これに続き、大韓民国臨時政府、キューバ、グアテマラ、フィリピンが同様に宣戦布告。
太平洋戦争開戦後、連合国側の結束を象徴する動きとなりました。
中国は既に日中戦争下にありましたが、形式的に枢軸国との全面戦争に突入。
各国の参戦は枢軸国包囲網の強化に寄与しました。
1941年
第二次世界大戦
中国国民政府
大韓民国臨時政府
キューバ
グアテマラ
フィリピン
日本
ドイツ
1945年
GHQが農地改革を指示。
GHQが日本の農地制度を見直し、戦後改革の一環として農地改革を指示しました。
1945年12月9日、連合国軍総司令部(GHQ)は日本の農地改革を正式に指示しました。
この政策は地主制を廃止し、小作農への土地所有を可能にすることで農村の民主化を図るものでした。
マッカーサー元帥の指示に基づき、農地改革委員会が設置され、調査と法整備が急ピッチで進められました。
約43万haもの農地が小作農に再配分され、農村社会に大きな変革をもたらしました。
改革は1950年頃までにほぼ完了し、日本の経済復興と農業生産性向上に寄与しました。
戦後民主主義の理念を具現化した象徴的な政策として評価されています。
1945年
GHQ
農地改革
1945年
GHQによる宣伝番組「眞相はかうだ」放送開始。
GHQが制作したラジオ番組「眞相はかうだ」が放送を開始しました。占領期の宣伝活動として知られています。
1945年12月9日、連合国軍総司令部(GHQ)によるラジオ番組「眞相はかうだ」が放送を開始しました。
番組は日本国民への占領政策の正当性を訴える宣伝目的で制作され、主にラジオ東京(現TBS)で配信されました。
キャッチフレーズは「真相はかうだ」で、演出やナレーションを通じて民主化や非軍事化をアピールしました。
番組は連合国側の視点を伝えるもので、日本側の検閲も含めた情報統制の一端を示す事例となりました。
放送は数ヶ月間続き、占領期メディア研究において重要な資料とされています。
眞相はかうだ