紀元前43年

キケロが暗殺される。

紀元前43年12月7日、ローマの政治家キケロが敵対勢力により暗殺された歴史的事件。
紀元前1世紀のローマ共和政末期に活躍したキケロは、政治家、法律家、雄弁家として知られています。 紀元前43年12月7日、第二回三頭政治体制下で政治的対立に巻き込まれ、敵対勢力に暗殺されました。 キケロの暗殺は共和政の終焉を加速させる事件の一つとされ、ローマの政局に大きな影響を与えました。 死後、彼の演説や著作は後世の政治思想や法学に多大な影響を及ぼしました。 暗殺現場の詳細は不明ですが、その衝撃はローマ市民の間に広く伝わりました。
紀元前43年 キケロ 暗殺
宝亀2年10月27日

東山道の武蔵国を東海道に編入。

奈良時代の宝亀2年(771年)、中央政府が武蔵国を東海道へ編入する行政区画再編を実施。
奈良時代の宝亀2年(771年)10月27日、朝廷は東山道に属していた武蔵国を東海道に編入しました。 この行政区画の再編は律令制度下の国郡制の整備を目的とし、地方統治の効率化を図ったものです。 武蔵国は後の江戸・東京地方を含む広大な地域で、後世の経済・文化発展に影響を与えました。 編入により、東海道沿いの交通・物流網が強化され、地方と京畿間の往来が促進されました。 この措置は、奈良時代の地方支配体制の一端を示す重要な出来事です。
771年 宝亀 10月27日 東山道 武蔵国 東海道
1787年

デラウェア州がアメリカ合衆国憲法を批准した第1の州になる。

1787年、デラウェア州が全米初となるアメリカ合衆国憲法の批准を行い、『初州』の称号を獲得。
1787年12月7日、デラウェア州はアメリカ合衆国憲法の批准に同意し、初めて法的に承認した州となりました。 憲法批准により、デラウェア州は『ファーストステート(The First State)』として知られるようになりました。 この批准は新政府の樹立に向けた重要な一歩であり、他の州の追随を促しました。 州議会での議論は活発で、地域経済の安定や政治的影響力を考慮した上での決定でした。 デラウェア州の先駆的行動は、13州連合の団結を象徴する出来事として歴史に残ります。
1787年 デラウェア州 アメリカ合衆国憲法
安政4年10月21日

ハリス駐日アメリカ総領事が江戸城に登城、江戸幕府13代将軍徳川家定に謁見。

1857年、アメリカ総領事ハリスが江戸城に登城し、幕府第13代将軍徳川家定に謁見、日米関係深化の一コマ。
安政4年(1857年)12月7日、初代駐日米総領事ジョン・モリソン・ハリスが江戸城を訪れ、将軍・徳川家定に謁見しました。 これは日米和親条約締結後の公式訪問の一環で、幕府と米国の外交関係強化を目的としたものでした。 ハリスは幕府に対し、貿易拡大や領事裁判権などを要請し、日本の開国交渉をリードしました。 家定は形式的ながらも応対し、幕府の外交政策に一定の理解を示しました。 この謁見は日米修好通商条約へ向けた過程の重要なステップとなりました。
1857年 安政 ハリス 江戸城 江戸幕府 将軍 徳川家定 謁見
1867年

天満屋事件。陸奥陽之助及び中井庄五郎らが三浦休太郎を暗殺するために討ち入り。

1867年、天満屋事件で攘夷派浪士が三浦休太郎暗殺を企てた武装蜂起が起きた。
慶応3年(1867年)12月7日、長州藩士の陸奥陽之助、中井庄五郎ら攘夷過激派が天満屋に討ち入りました。 彼らは大老・三浦休太郎を暗殺することで幕府政権を揺るがし、尊王攘夷運動を鼓舞しようとしました。 襲撃は未遂に終わり、関係者は拘束・処罰されましたが、同志たちの緊張感を高める契機となりました。 幕末の動乱期における武力行動の一例として、藩閥政治への抗議と過激派の実態を示しています。 事件後、攘夷勢力と幕府の対立はさらに激化し、明治維新への歩みを早めました。
1867年 天満屋事件 陸奥陽之助 中井庄五郎 三浦休太郎
1948年

昭和電工事件: 芦田均前首相を逮捕。

1948年12月7日、戦後政治を揺るがす昭和電工事件で芦田均前首相が贈収賄容疑により逮捕され、大きな衝撃を与えました。
1. 1948年12月7日、公職追放解除後の芦田均前首相が、昭和電工からの政治資金提供疑惑で逮捕される。 2. 贈収賄スキャンダルは戦後の汚職問題の象徴とされ、マスメディアが連日大きく報道。 3. 国民の政治不信が高まり、政治資金制度の透明化や公職倫理の重要性が改めて問われた。 4. 政界内部でも再発防止策や法整備に向けた議論が活発化。 5. 以後の政治改革や制度設計に影響を与えた象徴的な事件となった。
1948年 昭和電工事件 芦田均
1950年

池田勇人蔵相が米価問題についての答弁で「貧乏人は麦を食え」と発言し問題化。

1950年12月7日、池田勇人蔵相が食糧政策の議論で「貧乏人は麦を食え」と発言し、国民の反発を招きました。
1. 1950年12月7日、当時の池田勇人蔵相が米価抑制策を論じる中で「貧乏人は麦を食え」と発言。 2. 政治家としての意図は麦食推進にあったが、冷淡な表現としてメディアで大々的に報じられた。 3. 野党や国民から批判が噴出し、政府の食糧政策や言動に対する信頼性が問われた。 4. 発言は「麦を食え発言」として広く知られ、その後の政治家の言動にも影響を与えた。 5. 表現の重みと政策説明の重要性を再認識させる出来事となった。
1950年 池田勇人 貧乏人は麦を食え
1952年

鹿地事件: 1年前から行方不明になっていた作家・鹿地亘が東京の自宅に戻り、アメリカの諜報機関・キャノン機関に拉致監禁されていたと語る。

1952年12月7日、1年前から行方不明だった作家・鹿地亘が帰宅し、米国諜報機関『キャノン機関』に拉致され監禁されていたと告白しました。
1. 1952年12月7日、東京の自宅に忽然と現れた作家・鹿地亘は、前年より消息不明となっていた。 2. 鹿地は米国諜報機関の一部と言われる『キャノン機関』に誘拐され、数ヶ月にわたり監禁されたと証言。 3. 作家失踪の背景には戦後の日米冷戦期の情報戦や諜報活動が絡むとの見方が浮上。 4. マスメディアは大々的に報じ、政府や在日米軍に説明責任を求める声が高まった。 5. 事件は表現の自由や知識人の立場を考える契機となり、昭和期の情報戦史にも位置づけられる。
1952年 鹿地事件 鹿地亘 諜報 キャノン機関
1954年

第5次吉田内閣が総辞職。

1954年12月7日、第5次吉田茂内閣が総辞職し、自民党・民主党連立政権への転換過程が始まりました。
1. 1954年12月7日、吉田茂首相率いる第5次内閣が議会運営を巡る混迷から総辞職。 2. 同年11月の総選挙後、自由党と民主党の解党・再編が進み、与党基盤が揺らいだ。 3. 総辞職に伴い、両党による新連立政権樹立の交渉が本格化。 4. 戦後政治の安定と革新を両立させるべく、二大政党制への移行が模索された。 5. 吉田茂の退陣は戦後史の一大転換点として位置づけられている。
1954年 第5次吉田内閣
1955年

長崎市とアメリカ合衆国セントポール市の都市提携成立。日本初の姉妹都市。

1955年12月7日、日本初の姉妹都市提携として長崎市とアメリカ・セントポール市が協定を結びました。
1. 1955年12月7日、長崎市とアメリカ・ミネソタ州セントポール市が姉妹都市提携を締結。 2. 戦後初の自治体間国際交流協定として、両市は文化・学術・経済面で相互交流を開始。 3. 原爆被害からの復興支援や平和メッセージの発信が重視され、市民レベルの友好活動が活発化。 4. 教育プログラムや美術展、スポーツ交流など多彩な交流事業が行われた。 5. この成功を契機に、日本各地で姉妹都市制度が全国的に広がっていった。
1955年 長崎市 アメリカ合衆国 セントポール市 姉妹都市
1988年

長崎市の本島等市長が市議会で、天皇に戦争責任があると発言。

1988年12月7日、長崎市議会で本島等市長が天皇の戦争責任を問いました。
被爆地長崎の市長である本島等氏は、追悼式を前に行われた市議会で天皇の戦争責任に言及しました。発言は国内マスメディアや政治家の間で賛否を呼び、憲法や戦後史の解釈をめぐる議論が再燃しました。市長の発言は国会や首相官邸にも波紋を広げ、市民レベルでも意見交換が活発化しました。この出来事は日本の戦後責任論における象徴天皇制の役割を考える契機となりました。
長崎市 本島等 戦争責任
1999年

オウム真理教規制を目的とした団体規制法が公布。27日施行。

オウム真理教の過激活動を抑制するための団体規制法が公布され、同月27日に施行されました。
1995年の地下鉄サリン事件を受けて、オウム真理教の組織的活動を規制する必要が高まりました。 1999年12月7日に団体規制法が公布され、同月27日に施行されました。 法は指定集団の活動制限や構成員の資格要件などを定め、違反者には刑事罰を科しました。 テロ活動や破壊行為の抑止を目指し、公共の安全と集会・結社の自由の均衡点を探る法律です。 その後、特定危険活動防止法など後続の関連法整備の契機となりました。
1999年 オウム真理教 団体規制法