1240年
モンゴルのルーシ侵攻: バトゥ率いるモンゴル軍によりキーウが陥落し、キエフ大公国が滅亡。
バトゥ率いるモンゴル軍がキーウを攻略し、キエフ大公国を滅亡させました。ルーシ地方征服の決定的な事件です。
バトゥはチンギス・カンの孫で、モンゴル帝国の西方征服を率いました。
1240年、彼の率いるモンゴル軍はキーウを包囲し、激しい戦闘の末に陥落させました。
これにより、東スラヴ世界の中心地であったキエフ大公国は事実上滅亡します。
征服後、モンゴルはルーシ諸公国から貢納を徴収し、支配を強化しました。
この支配構造はその後のロシア東方貿易や中央アジア文化に大きな影響を与えました。
1240年
モンゴルのルーシ侵攻
バトゥ
モンゴル
キーウ
キエフ大公国
1648年
イングランドでクーデター(プライドのパージ)が起こる。ニューモデル軍と独立派が長期議会内部の長老派議員を大勢追放、残りの議員でランプ議会を構成。
ニューモデル軍と独立派が長期議会から長老派議員を追放しました。追放後に残った議員で『ランプ議会』が構成されました。
イングランド内戦終結後、オリバー・クロムウェルら指導下のニューモデル軍は長期議会の保守派である長老派議員を排除しようと計画しました。
1648年12月6日、准将トーマス・プライドの指揮する部隊が議会に介入し、約140名の議員を追放または拘束しました。
この行動により議会は急進派と軍に近い議員のみとなり、『ランプ議会(Rump Parliament)』と呼ばれるようになりました。
結果的に国王チャールズ1世を裁判にかける政治基盤が確立し、1649年の処刑に繋がります。
イングランドの立憲政治と君主制のあり方を巡る転換点の一つです。
1648年
イングランド
クーデター
プライドのパージ
ニューモデル軍
独立派
長期議会
長老派
ランプ議会
1768年
『ブリタニカ百科事典』第1版が発行。
1768年、収集的知識を体系化した百科事典の先駆けとして『ブリタニカ百科事典』第1版が刊行されました。学術と普及を結びつけた革新的な出版物です。
『ブリタニカ百科事典』第1版はスコットランドのエディンバラで刊行が始まりました。
主にコリン・マクファーホアらが編集を担当し、約三巻構成で幅広い学問分野をカバーしました。
執筆陣は当時の学者や専門家が中心で、図版も多用されていました。
百科事典形式の体系的な知識集成という斬新さは、のちの百科事典刊行の標準となります。
その後数世紀にわたり増補・改訂を重ね、世界中の図書館や家庭に普及しました。
1768年
ブリタニカ百科事典
1865年
公式に奴隷制を廃止するアメリカ合衆国憲法修正第13条が27州の批准により成立。
1865年、アメリカ合衆国憲法修正第13条が全州の批准を得て成立し、奴隷制度が完全に廃止されました。社会構造を根本から変えた画期的な出来事です。
アメリカ南北戦争終結後の1865年1月、上下両院で修正第13条が可決されました。
同年12月6日、必要な39州中27州が批准し、正式に憲法の一部となります。
この条項は『奴隷制およびその同意なしの強制労働を禁止する』ことを定めました。
例外として犯罪者に対する強制労働は認められる規定も含まれていました。
奴隷制度の廃止は南部社会の再構築や市民権運動への道筋を築く転機となりました。
1865年
奴隷制
アメリカ合衆国憲法修正第13条
1877年
トーマス・エジソンが、自身が発明した蓄音機で初めて人の声を録音する。
1877年、トーマス・エジソンが自身の発明した蓄音機を使い、初めて人の声を録音しました。
発明家トーマス・エジソンは1877年に蓄音機の試作品で人声を録音することに成功しました。
最初の録音は『メリーさんのひつじ』の一節とされ、ミニチュアの蝋円筒に刻まれました。
この技術は音声の保存・再生の可能性を初めて示し、音響記録の歴史的出発点となります。
蓄音機は後に商業化され、音楽産業や情報伝達手段として急速に普及しました。
録音技術の発展は20世紀の大衆文化形成にも大きな影響を与えました。
1877年
トーマス・エジソン
蓄音機
1877年
『ワシントン・ポスト』が創刊。
1877年にアメリカの新聞『ワシントン・ポスト』が創刊されました。
1877年12月6日、ワシントンD.C.でジャーナリストのスティルソン・ハッチンズにより『ワシントン・ポスト』が創刊されました。
当初は地域ニュースが中心でしたが、やがて政治報道の権威として全国的に認知されるようになります。
20世紀には多くの調査報道やスクープを連発し、プレスの自由と政府監視の象徴となりました。
ウォーターゲート事件の報道でさらに社会的影響力を高め、Pulitzer賞も数多く受賞しています。
現在もアメリカ有数の主要日刊紙として高い評価を受け続けています。
ワシントン・ポスト
1914年
山田耕筰作曲「勝鬨と平和」初演。日本人が作曲した交響曲が初めて上演された。
1914年、山田耕筰作曲の交響曲『勝鬨と平和』が初演され、日本初の交響曲上演となりました。
山田耕筰は日本音楽界のパイオニアとして知られ、1914年に交響曲『勝鬨と平和』を完成させました。
同年12月6日に帝国劇場で初演され、日本人作曲家による本格的交響曲としては初の上演となります。
曲は大戦勝利を祝う『勝鬨』と未来の『平和』をテーマに、伝統的日本音楽と西洋交響楽の融合を試みました。
演奏には東京交響楽団の前身があたる団体が参加し、聴衆から高い評価を得ました。
この公演は日本における西洋音楽受容と創作活動の転換点となりました。
1914年
山田耕筰
勝鬨と平和
1917年
フィンランドがロシアからの独立を宣言。
1917年、フィンランドがロシアからの独立を宣言しました。
ロシア帝国下の大公国として自治を認められていたフィンランドは、1917年のロシア革命後の混乱を背景に独立を模索しました。
同年12月6日にフィンランド議会は、正式にロシアからの独立を宣言します。
この宣言はソビエトロシア政府も承認し、フィンランド共和国としての歩みが始まりました。
独立後は内戦や北欧諸国との関係強化を経て、民主主義と中立政策を基盤とする国家を築きました。
毎年12月6日は『独立記念日』として国民に祝われています。
1917年
フィンランド
ロシア
1917年
ハリファックス大爆発。
1917年、ハリファックス湾で爆発事故が発生し、大規模な破壊と死傷者を出しました。史上最大級の人為的爆発事故の一つです。
1917年12月6日、ノルウェー船『イモ』と装填火薬を積んだ仏船『モン=ブラン』がハリファックス港で衝突しました。
後者が爆発し、推定約2千トンの爆薬が解放され、市街地を一瞬にして壊滅させました。
爆発の衝撃波は15キロ先まで到達し、市内に約2000人の死者と数千人の負傷者を出しました。
さらに約1.6万人が家を失い、復興には多大な支援と時間を要しました。
この事故は人為的爆発事故としては歴史的規模を誇り、港湾安全規制強化の契機となりました。
ハリファックス大爆発
1918年
大学令・高等学校令公布。単科大学・私立公立の大学・高校を認可。
1918年、日本で大学令・高等学校令が公布され、学校制度の整備が進展しました。
1918年12月6日に公布された大学令と高等学校令は、近代的学校制度の基礎を築いた法律です。
大学令により単科大学や公私立大学の設置が認可され、多様な高等教育機関の設立が進みました。
高等学校令は旧制中等教育を再編し、官立・公立・私立高等学校の制度を整備しました。
これにより識字率向上や専門教育の拡充が促され、大正期の学術・文化発展につながりました。
戦後の新制大学への移行まで、日本の高等教育の枠組みとして機能しました。
1918年
大学令
高等学校令
1921年
英愛条約締結。大英帝国内の自治国としてアイルランド自由国の建国が決定。
大英帝国とアイルランド間で自治国としての地位を定める英愛条約が締結され、独立への道筋が明確化されました。
第一次世界大戦後のアイルランド独立運動の成果として、1921年12月6日に英愛条約が調印されました。
この条約によりアイルランドは自治領(ドミニオン)としての地位を獲得し、内政の自主権が認められました。
条約交渉はロンドンで行われ、英政府とアイルランド代表団が協議を重ねました。
1922年に条約が発効し、アイルランド自由国の創設が正式に承認されました。
一方で王位忠誠誓約や領土分割を巡り国内で意見が対立し、後の内戦を招く要因ともなりました。
1921年
英愛条約
大英帝国
アイルランド自由国
1922年
英愛条約に基づきアイルランド自由国が建国。
英愛条約の発効によりアイルランド自由国が正式に誕生しました。
英愛条約の発効に伴い、1922年12月6日にアイルランド自由国が正式に成立しました。
自治領として英国王への忠誠を誓う一方、国内の立法や行政の多くを自ら行う権限を手にしました。
首都ダブリンには新たな政府機関が設置され、議会(ダイル・エアアン)の活動が始まりました。
設立当初は自治領としての枠組みの是非を巡る論争がありましたが、独立への第一歩と位置づけられました。
後のアイルランド共和国樹立へ向けた基盤が築かれた歴史的な出来事です。
1922年