603年

聖徳太子が「冠位十二階」を制定。

聖徳太子が豪族の能力を基準に位階を定める冠位十二階を制定し、中央集権化と人材登用を図りました。
冠位十二階は、上位から下位まで十二階の冠位を持つ位階制で、姓名や功績をもとに冠位が与えられました。従来の血統中心の秩序から脱却し、能力主義を導入した先駆的な制度です。この制度は後の大化改新や律令制度の基礎となり、律令国家形成に大きな影響を与えました。また、冠の色や装束が位階を示す視覚的手段として定められ、社会秩序の明確化に寄与しました。日本の官僚制度の礎として歴史的意義が大きいです。
603年 聖徳太子 冠位十二階
1590年

ローマ教皇グレゴリウス14世が即位。

1590年、ニコラ・セモローネ・フォンタナが教皇グレゴリウス14世として即位し、教会改革を推進しました。
グレゴリウス14世(本名ニコラ・セモローネ・フォンタナ)は1590年12月5日に教皇に選出されました。彼は聖職者の規律強化や腐敗排除に尽力し、教会改革を推し進めました。即位後は欧州諸国との協調を図り、宗教改革後のカトリック教会の再統一を目指しました。在位期間は1年足らずで1591年に急逝したため、改革の多くは未完に終わりました。それでも彼の短期政権は、カトリック教会の方向性に重要な示唆を与えました。
1590年 ローマ教皇 グレゴリウス14世
1878年

大日本帝国陸軍参謀局を参謀本部に改称し、陸軍省から分離。

1878年、大日本帝国陸軍の参謀局が参謀本部に改称され、陸軍省から独立しました。
明治維新後の軍制改革の一環として、1878年12月5日に参謀局は参謀本部に改称されました。これにより、戦略立案や作戦指揮、教育訓練の権限が強化され、陸軍省から独立した組織となりました。参謀本部は後に日露戦争において司令部として機能し、日本陸軍の近代化を推進しました。この組織改革はドイツ式軍制を参考にしたもので、国家の軍事機構を効率化する重要な転換点となりました。
1878年 大日本帝国陸軍 参謀本部 陸軍省
1918年

梨本宮方子女王と朝鮮李王世子・李垠との結婚が勅許される。

梨本宮方子女王と朝鮮李王世子・李垠の結婚が天皇の勅許により正式に認められました。
1918年12月5日、梨本宮方子女王が朝鮮李王世子・李垠と婚約し、帝室会議を経て結婚が勅許されました。 皇族と朝鮮王室の縁組は、日韓関係の政治的側面を象徴する重要な出来事でした。 結婚式は東京で厳粛に執り行われ、両国の皇族や政府関係者が出席しました。 この結婚は日韓併合後の王室政策の一環として位置づけられました。 二人の結婚生活は後に波乱に満ちたものとなり、李垠は終戦後に帰国を拒否するなど複雑な運命を辿ります。
1918年 梨本宮方子女王 李王 李垠
1926年

社会民衆党結成。

社会主義を基盤とした政党・社会民衆党が結成され、労働運動勢力の結集が図られました。
1926年12月5日に社会民衆党が結成され、労働者や小作農など市民層の政治参加を訴えました。 党是には労働条件の改善や社会福祉の拡充、平和主義の実現などが掲げられました。 結成当初は労働組合や農民組合との連携を強め、地方組織の基盤づくりを進めました。 当時の政治情勢では左派政党に対する警戒感が強く、活動は一定の制約を受けました。 後に他党との合併や分裂を経て、日本の社会運動史に一定の足跡を残しています。
1926年 社会民衆党
1931年

ソ連共産党政治局の指令によりモスクワの救世主ハリストス大聖堂が爆破解体される。

ソ連共産党政治局の指令でモスクワの救世主ハリストス大聖堂が爆破解体され、宗教抑圧の象徴となりました。
1931年12月5日、ソ連共産党政治局の決定によりモスクワにある救世主ハリストス大聖堂が爆破解体されました。 大聖堂は19世紀に建設された東方正教会の総本山で、ロシア皇帝アレクサンドル1世の謝恩のため建立されました。 共産主義政権は宗教を「邪教」と見なし、反宗教運動の一環として大規模な破壊を実行しました。 取り壊し後、跡地にはスターリン記念宮殿の建設が計画されましたが、後に実現しませんでした。 1990年代に再建運動が起こり、1997年に大聖堂が再建されるまで宗教弾圧の象徴として語り継がれました。
1931年 ソ連共産党政治局 モスクワ 救世主ハリストス大聖堂
1933年

アメリカ合衆国憲法修正第18条(禁酒法)を廃止することを定めたアメリカ合衆国憲法修正第21条が施行。

アメリカ合衆国憲法修正第21条が施行され、禁酒法(第18条)が公式に廃止されました。
1933年12月5日にアメリカ合衆国憲法修正第21条が発効し、禁酒法を定めた第18条を廃止しました。 1920年代の禁酒法下で密造酒や組織的犯罪が横行し、社会問題化していた背景があります。 大恐慌の影響で税収の減少が深刻化し、政府はアルコール課税による財源確保を図りました。 修正条項の批准には州ごとの国民投票が行われ、迅速な合意形成が実現されました。 禁酒法廃止はアメリカ社会のアルコール規制政策に大きな転機をもたらしました。
1933年 アメリカ合衆国憲法修正第18条 禁酒法 アメリカ合衆国憲法修正第21条
1936年

ソビエト連邦でスターリン憲法制定。

ソビエト連邦でスターリン憲法(第1期ソ連憲法)が制定され、新たな国家体制を規定しました。
1936年12月5日にソビエト連邦憲法(通称スターリン憲法)が制定されました。 親ソ主義、中央集権化、計画経済の原則などが明文化され、体制の正当化に用いられました。 人民政府の構造や権利条項が記載され、国民の選挙権や社会権が一応保証されました。 しかし実質的にはスターリン体制の権力強化が図られ、独裁政治の法的根拠ともなりました。 この憲法は1977年まで有効となり、ソ連の政治制度史において重要な役割を果たしました。
1936年 ソビエト連邦 スターリン憲法
1936年

キルギス・ソビエト社会主義共和国がソ連の構成共和国として発足。

キルギス・ソビエト社会主義共和国がソ連の構成共和国として発足し、地域行政が確立しました。
1936年12月5日にキルギス・ソビエト社会主義共和国が正式に樹立されました。 それまではロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の自治共和国(ASSR)でした。 SSRへの格上げによりキルギス地域における中央政府の統治権が強化されました。 首都はフルンゼ(現在のビシュケク)に置かれ、州都や行政区画が整備されました。 この変化はソ連の民族政策と中央集権政策の一環として位置づけられました。
キルギス・ソビエト社会主義共和国
1940年

西園寺公望の国葬が日比谷公園で行われる。

元首相・西園寺公望の国葬が日比谷公園で執り行われ、最後の元老としての存在感を示しました。
1940年12月5日に日比谷公園で西園寺公望の国葬が行われました。 西園寺は明治・大正期の重要な政治家で、首相や枢密院議長を歴任した元老です。 国葬には皇族や政府高官をはじめ、多くの市民や外国使節が参列しました。 大正デモクラシーを支えた政治家の一人として、その業績が改めて顕彰されました。 国葬は日本の近代政治史における国家儀礼の一端を示す行事となりました。
1940年 西園寺公望 国葬 日比谷公園
1976年

第34回衆議院議員総選挙。戦後初の任期満了による総選挙。

1976年12月5日、日本で戦後初めて任期満了による第34回衆議院総選挙が実施されました。
日本の衆議院議員の4年間任期が満了し、 戦後初めて解散ではなく任期満了による総選挙を迎えた歴史的選挙。 与党自由民主党は池田勇人首相の下で安定多数を維持し、 野党社会党や公明党との議席争いが注目された。 選挙後、政治は安定路線を継続し、高度経済成長期の社会政策にも影響を与えました。
1976年 第34回衆議院議員総選挙
1990年

湾岸戦争で日本人がイラクで人質となっていたが、アントニオ猪木参議院議員がイラク政府と話し合い、人質が解放された。

1990年12月5日、湾岸戦争中にイラクに拘束されていた日本人人質が解放されました。
湾岸戦争勃発後、クウェート在留の日本人がイラク軍に拘束される事態に。 アントニオ猪木参議院議員が特使として訪問団を率い、 バグダードでサッダーム・フセイン大統領と交渉。 数日にわたる話し合いの末、拘束されていた日本人は全員解放。 この交渉は日本政府主導ではなく民間外交の成功例として注目されました。 国内外で大きな話題となり、猪木氏の国際的な知名度も向上しました。
1990年 湾岸戦争 イラク 人質 アントニオ猪木