603年
聖徳太子が「冠位十二階」を制定。
聖徳太子が豪族の能力を基準に位階を定める冠位十二階を制定し、中央集権化と人材登用を図りました。
冠位十二階は、上位から下位まで十二階の冠位を持つ位階制で、姓名や功績をもとに冠位が与えられました。従来の血統中心の秩序から脱却し、能力主義を導入した先駆的な制度です。この制度は後の大化改新や律令制度の基礎となり、律令国家形成に大きな影響を与えました。また、冠の色や装束が位階を示す視覚的手段として定められ、社会秩序の明確化に寄与しました。日本の官僚制度の礎として歴史的意義が大きいです。
603年
聖徳太子
冠位十二階
1408年
ジョチ・ウルスの将軍エディゲがモスクワに到達。
1408年、ジョチ・ウルスの将軍エディゲがロシア北方の要衝モスクワに迫り、大公国に大きな圧力をかけました。
ジョチ・ウルスはチンギス・ハンの長子ジョチの子孫による国家で、エディゲはその有力な将軍でした。彼は1408年12月5日にモスクワに到達し、モスクワ大公国に重い貢納を課しました。この遠征はタタールの支配をロシアにまで広げ、モスクワの外交や交易に大きな影響を与えました。圧迫を受けたモスクワは勢力を内政強化に転じ、後のロシア国家形成につながる契機となりました。
1408年
ジョチ・ウルス
エディゲ
モスクワ
1590年
ローマ教皇グレゴリウス14世が即位。
1590年、ニコラ・セモローネ・フォンタナが教皇グレゴリウス14世として即位し、教会改革を推進しました。
グレゴリウス14世(本名ニコラ・セモローネ・フォンタナ)は1590年12月5日に教皇に選出されました。彼は聖職者の規律強化や腐敗排除に尽力し、教会改革を推し進めました。即位後は欧州諸国との協調を図り、宗教改革後のカトリック教会の再統一を目指しました。在位期間は1年足らずで1591年に急逝したため、改革の多くは未完に終わりました。それでも彼の短期政権は、カトリック教会の方向性に重要な示唆を与えました。
1590年
ローマ教皇
グレゴリウス14世
元禄8年10月29日
徳川綱吉により生類憐れみの令の一環として、中野に16万坪の犬小屋が作られ、同時に中野の住民が強制退去となる。
1695年、徳川綱吉が生類憐れみの令に基づき中野に大規模な犬小屋を設置し、住民を退去させました。
生類憐れみの令は動物保護を目的とした江戸幕府の法令です。1695年12月5日、将軍徳川綱吉は中野に約16万坪の敷地を用意し、多数の犬を収容する犬小屋を設置しました。同時に中野の住民は強制的に退去させられました。この措置は動物愛護の理念を示す一方で、幕府の強権的運営や庶民への負担を招きました。後にこの政策は幕府財政を圧迫し、綱吉の晩年に撤回されていきました。
1695年
元禄
10月29日
徳川綱吉
生類憐れみの令
中野
犬小屋
1757年
七年戦争: ロイテンの戦い。
1757年、七年戦争の一戦としてロイテンの戦いが行われ、プロイセン軍がオーストリア軍を撃破しました。
ロイテンの戦いは七年戦争中の1757年に行われた戦闘です。フリードリヒ大王率いるプロイセン軍がオーストリア軍を奇襲し、大勝利を収めました。この勝利によりプロイセンは戦争初期の優勢を確立し、マリア・テレジア率いるオーストリアの反撃を抑えました。戦略的撤退と迅速な攻勢が評価され、フリードリヒ大王の軍事的手腕が示されました。戦いの結果はヨーロッパの勢力図にも大きな影響を与えました。
1757年
七年戦争
ロイテンの戦い
1830年
ベルリオーズ「幻想交響曲」初演。
1830年、ベルリオーズの代表作『幻想交響曲』がパリで初演され、革新的な音楽表現が注目されました。
『幻想交響曲』はフランスの作曲家エクトル・ベルリオーズが1830年に完成させたプログラム交響曲です。12月5日にパリで初演され、独創的な管弦楽技法と情熱的な表現で大きな衝撃を与えました。作品は恋愛、狂気、死への幻想をテーマにした5楽章構成で、各楽章に具体的な物語性を持たせています。この革新的な構想はロマン派音楽の先駆けとされ、後の作曲家たちに大きな影響を与えました。
1830年
ベルリオーズ
幻想交響曲
1878年
大日本帝国陸軍参謀局を参謀本部に改称し、陸軍省から分離。
1878年、大日本帝国陸軍の参謀局が参謀本部に改称され、陸軍省から独立しました。
明治維新後の軍制改革の一環として、1878年12月5日に参謀局は参謀本部に改称されました。これにより、戦略立案や作戦指揮、教育訓練の権限が強化され、陸軍省から独立した組織となりました。参謀本部は後に日露戦争において司令部として機能し、日本陸軍の近代化を推進しました。この組織改革はドイツ式軍制を参考にしたもので、国家の軍事機構を効率化する重要な転換点となりました。
1878年
大日本帝国陸軍
参謀本部
陸軍省
1903年
長岡半太郎が原子模型の理論を発表。
1903年、物理学者・長岡半太郎が原子模型に関する理論を発表し、日本の物理学に新たな視点をもたらしました。
長岡半太郎は1903年12月5日に原子模型の理論を発表し、原子の構造解明に寄与しました。彼は電子と原子核の相互作用を考慮したモデルを提唱し、後の原子物理学研究に影響を与えました。長岡は東京帝国大学で多くの研究者を育成し、日本の近代物理学の基礎を築きました。その功績はボーアの原子模型や量子論の発展にもつながり、世界的にも高く評価されています。
1903年
長岡半太郎
1904年
日露戦争・旅順攻囲戦: 日本軍が203高地を占領。
1904年、日露戦争の旅順攻囲戦で日本軍が戦略的要衝203高地を制圧しました。
旅順攻囲戦は日露戦争初期の重要な戦闘で、203高地の占領が攻略の鍵を握りました。日本軍は夜襲や堅固な陣地構築でロシア軍を圧倒し、12月5日に203高地を制圧しました。この勝利により旅順港への包囲が完了し、ロシア太平洋艦隊の活動を封じることに成功しました。戦術的には日本軍の工兵能力と組織的戦闘力が評価され、戦局を大きく有利に導きました。旅順攻略は後の戦争全体に影響を与え、日本の国際的地位向上にも寄与しました。
1904年
日露戦争
旅順攻囲戦
203高地
1908年
日本国有鉄道の運営母体が「帝国鉄道庁」から内閣直属「鉄道院」へと改組。
1908年、日本国有鉄道の運営組織が帝国鉄道庁から内閣直属の鉄道院へと改組されました。
明治期の鉄道行政改革として、1908年12月5日に帝国鉄道庁は鉄道院に改組されました。内閣直属となったことで鉄道の運営・建設・料金設定が一元化され、近代的な鉄道網整備が加速しました。鉄道院は地方鉄道の買収や軌間の統一を推進し、国民生活と産業発展に大きく貢献しました。この改革は後の運輸政策に影響を与え、戦後の鉄道国有化の基礎ともなりました。
1908年
日本国有鉄道
1909年
フランス海軍のル・プリウール中尉と相原四郎大日本帝国海軍大尉が共同製作したグライダーが、子供を乗せた状態で人力曳航による飛行に成功。日本初のグライダーによる飛行。
相原四郎大尉とル・プリウール中尉が製作したグライダーが、日本で初めて子供を乗せた人力曳航飛行に成功しました。
1909年、フランス海軍のル・プリウール中尉と相原四郎大尉が共同でグライダーを開発しました。
この機体は人力による綱引き方式で曳航され、滑空飛行を行う試験機でした。
12月5日には子供を乗せた状態で飛行に成功し、日本初のグライダー有人飛行の記録を樹立しました。
当時の航空技術黎明期において、民間や軍による航空実験が活発化していた背景があります。
この成果は後の日本の航空発展に向けた技術蓄積の一つとなりました。
1909年
フランス海軍
相原四郎
大日本帝国海軍
グライダー
1918年
梨本宮方子女王と朝鮮李王世子・李垠との結婚が勅許される。
梨本宮方子女王と朝鮮李王世子・李垠の結婚が天皇の勅許により正式に認められました。
1918年12月5日、梨本宮方子女王が朝鮮李王世子・李垠と婚約し、帝室会議を経て結婚が勅許されました。
皇族と朝鮮王室の縁組は、日韓関係の政治的側面を象徴する重要な出来事でした。
結婚式は東京で厳粛に執り行われ、両国の皇族や政府関係者が出席しました。
この結婚は日韓併合後の王室政策の一環として位置づけられました。
二人の結婚生活は後に波乱に満ちたものとなり、李垠は終戦後に帰国を拒否するなど複雑な運命を辿ります。
1918年
梨本宮方子女王
李王
李垠