771年

フランク王カールマンが死亡。共同統治をしていたカール1世がフランク王国の単独の国王となる。

フランク王国の共同統治者カールマンが死去し、兄シャルルマーニュが単独統治を開始した。
フランク王国ではカール大帝の死後、息子のカールマンとカール1世(後のシャルルマーニュ)が共同統治していた。 771年12月4日、弟のカールマンが死去したことにより、カール1世が単独のフランク王となった。 単独統治となったカール1世は、領土拡大や行政改革を推進し、後のシャルルマーニュ帝国の礎を築く契機となった。 当時のフランク王国では世襲制と分割相続が行われており、兄弟間の協定によって共同統治が選択されることもあった。 この出来事は中世ヨーロッパにおける王権と領土統一の歴史的転換点とされる。
771年 フランク王 カールマン カール1世
延暦13年11月8日

平安京が新都となり、同時に山背国が山城国と改められる。

桓武天皇が新たな都・平安京に遷都し、山背国を山城国に改称した。
794年12月4日(延暦13年11月8日)、桓武天皇は長岡京から平安京へ遷都した。 これにより、平安時代が正式に始まり、約400年にわたる平安文化の舞台が整えられた。 平安京は唐の長安を模した碁盤目状の都市計画が施され、政治・文化の中心地として栄えた。 同日、都に近接する古称・山背国は山城国と改称され、行政区分の再編が行われた。 遷都は貴族政治の強化や節度使の廃止など、律令制の見直しとも連動していた。
794年 延暦 11月8日 平安京 山城国
文治元年11月11日

後白河法皇が源頼朝に源義経追討の院宣を下す。

後白河法皇が源頼朝に源義経討伐の院宣を発し、兄弟対立に拍車をかけた。
1185年12月4日(文治元年11月11日)、後白河法皇は源頼朝に対し、兄義経の追討を命じる院宣を発布した。 この院宣は、源平合戦後の権力構造を巡る源氏内部の抗争に決定的な影響を与えた。 頼朝は兄への対抗姿勢を強め、その後、義経は弁慶らと共に逃亡生活を余儀なくされた。 義経の悲劇的な最期は日本史における武将ロマンの象徴となり、多くの文学や演劇で取り上げられる。 院宣は天皇や法皇の権威を背景とした命令であり、中世日本における政治手法の一端を示している。
1185年 文治 11月11日 後白河法皇 源頼朝 源義経 院宣
1259年

イングランド王ヘンリー3世とフランス王ルイ9世がパリ条約を結ぶ。

イングランド王ヘンリー3世とフランス王ルイ9世がパリ条約を締結した。
1259年12月4日、イングランド王ヘンリー3世とフランス王ルイ9世はパリにおいてパリ条約を締結した。 この条約により、ヘンリー3世はフランス大陸領の多くを放棄する一方、ケントなど限られた領土を保持した。 一方、フランス王はイングランド王への宗主権承認を得て、領土回復を確実なものとした。 条約は百年戦争勃発前夜の両国関係を安定させるものとして重要視される。 中世ヨーロッパにおける封建的主権と領地権の調整を示す代表的な外交文書である。
1259年 イングランド ヘンリー3世 フランス ルイ9世 パリ条約
1563年

1545年に開会したトリエント公会議が閉会。

1545年に開始されたトリエント公会議が、累次の会議を経て1563年に閉会した。
トリエント公会議はカトリック教会の教義や改革を議論するために1545年に召集された。 宗教改革運動への対抗や教会内部の腐敗是正が目的とされ、長期間断続的に開催された。 1563年12月4日、最後の会期が終了し、公会議で決定された教義や規律が正式に採択された。 公会議の成果には聖書外典の正典化、司祭教育の強化、贖宥状(免罪符)の規制などが含まれる。 この決定はカトリック側の改革を促し、ヨーロッパの宗教地図に大きな影響を与えた。
1563年 1545年 トリエント公会議
元和9年10月13日

江戸の大殉教

江戸幕府によるキリシタン迫害の一環として、多くの信徒が殉教した。
1623年(元和9年)10月13日、幕府はキリスト教信徒に対する弾圧を強化し、江戸で大量殉教を実施した。 殉教者には外国人宣教師や日本人信徒が含まれ、刑罰として処刑や拷問が行われた。 この出来事は『江戸の大殉教』として後世に語り継がれ、迫害の象徴的事件となった。 江戸幕府はキリシタン禁止令を発布し、以後約250年間にわたりキリスト教の厳禁政策を続けた。 殉教の報はヨーロッパにも伝わり、宣教師や海外報道において幕府批判の材料となった。
1623年 元和 10月13日 江戸の大殉教 英語版
1791年

世界初の日曜版新聞『オブザーバー』が創刊。

世界初の日曜版新聞『オブザーバー』がロンドンで創刊された。
1791年12月4日、イギリス・ロンドンで週刊日曜版新聞『オブザーバー』が初刊された。 現存する最古の新聞として知られ、政治・社会ニュースの報道で急速に支持を得た。 紙面は政治評論や文芸記事を充実させ、読者層の拡大に寄与した。 のちに『オブザーバー』は世界各国で類似紙を生むなど、日曜新聞文化の先駆けとなった。 創刊以来、媒体としての独自性を保ちつつ、英国の言論空間に大きな影響を与え続けている。
1791年 新聞 オブザーバー
1872年

1か月前にニューヨークを出航したメアリー・セレスト号が、ポルトガル沖で無人で漂流しているのが発見される。

消息不明の船『メアリー・セレスト号』が無人で漂流しているのを発見された。
1872年12月4日、ヴィデリア号の乗組員が大西洋のポルトガル沖で『メアリー・セレスト号』を発見した。 船内には乗組員の姿はなく、食料や個人所持品は残されていたが乗員は跡形もなく消えていた。 甲板上の食卓には未片付けの食事が残っており、乗員の行方は今もって謎のままである。 この不可解な出来事は海洋ミステリーの代表例として、数々の書籍や映画の題材となった。 調査では自然現象や船内事故説など様々な仮説が提示されているが、決定的な証拠は見つかっていない。
1872年 メアリー・セレスト号
光緒10年10月17日

甲申政変。

朝鮮で開化派が起こした甲申政変が失敗に終わり、多くの関与者が亡命した。
1884年12月4日(光緒10年10月17日)、朝鮮王朝で開化派官僚らがクーデターを起こした甲申政変が勃発した。 日本の支援を受けた改革派は権力掌握に成功したが、清国の介入により3日で鎮圧された。 政変失敗後、羅旨旺や金玉均ら多くの改革派が日本などへ亡命し、改革運動は一時挫折した。 甲申政変は日清関係や朝鮮の近代化過程に大きな影響を与え、その後の東アジア情勢に波紋を広げた。 この事件は韓国史の転換点となり、後の朝鮮独立運動や日韓関係史を考える上で重要視される。
1884年 光緒 10月17日 甲申政変
1890年

北里柴三郎らがジフテリアと破傷風の血清療法を発表。

北里柴三郎らがジフテリアおよび破傷風に対する血清療法を発表した。
1890年12月4日、細菌学者の北里柴三郎とポーリングらはジフテリアと破傷風の治療に血清療法が有効であることを発表した。 彼らは馬に抗毒素を生成させ、その血清を患者に投与する方式を確立した。 血清療法は致死率の高かった感染症治療に革新をもたらし、多くの命を救った。 この成果は免疫学や抗毒素研究の発展に寄与し、後のワクチン開発の基盤となった。 北里の業績は日本の医学界を世界水準に引き上げる重要なマイルストーンとされる。
1890年 北里柴三郎 ジフテリア 破傷風 血清療法
1909年

大韓帝国の政治結社一進会が韓日合邦を要求する声明書を発する。

1909年、大韓帝国の政治結社一進会が韓日合邦を要求する声明書を発表した。
1909年12月4日、大韓帝国の政治結社一進会が韓日合邦を要求する声明書を発表しました。 一進会は国内の近代化や国防強化を理由に日本との合邦を提唱していた組織です。 声明書では日本帝国との政治的・経済的結合を主張し、外交的に日本への接近を図りました。 この動きは当時の大韓帝国の内外に大きな衝撃を与え、併合へ向けた流れを加速させる要因となりました。 後の1910年の韓日併合条約締結につながる歴史的な出来事です。
1909年 大韓帝国 一進会 韓日合邦を要求する声明書
1915年

東京株式市場が暴騰。第一次大戦景気が始まる。

1915年、東京株式市場が急騰し、第一次世界大戦による好景気が到来した。
1915年12月4日、東京株式市場で株価が急激に上昇し、第一次世界大戦景気が本格化しました。 戦争特需に伴い日本の輸出産業が好調となり、企業業績が向上したことが株価上昇を牽引しました。 紡績や軽工業を中心に投資熱は国内全域に広がり、株式市場の売買高は過去最高を記録しました。 この好景気は日本における戦後初の本格的な景気拡大期とされ、その後の経済成長の基盤となりました。 当時の投資家の熱狂ぶりは後の株式市場の発展にも大きな影響を与えました。
1915年 東京株式市場 第一次大戦景気