1804年
ナポレオン・ボナパルトの戴冠式がパリのノートルダム大聖堂で行われ、フランス皇帝に即位。
1804年12月2日にパリのノートルダム大聖堂でナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝に即位しました。
ナポレオン・ボナパルトは、1804年12月2日にノートルダム大聖堂で戴冠式を行い、自らの手で冠を額に置いてフランス皇帝ナポレオン1世となりました。
教皇ピウス7世が列席したものの、冠の授与はナポレオン自身が行い、教会からの独立と皇帝の強い権威を示しました。
この式典は第一帝政の始まりを象徴し、王政復古後の混乱を収束させた政治的転換点とされています。
国民投票で帝政再興が承認された後の執り行われたため、民意を背景にした権力集中の側面もありました。
華やかな行列や式典はヨーロッパ中に衝撃を与え、ナポレオンの威信をさらに高めました。
この即位は、後のナポレオン戦争の展開にも大きな影響を与える事件でした。
1804年
ナポレオン・ボナパルト
戴冠式
パリ
ノートルダム大聖堂
フランス
1823年
ジェームズ・モンロー米大統領によるモンロー宣言。ヨーロッパからの自立と相互不干渉(モンロー主義)を宣言。
1823年12月2日、ジェームズ・モンロー米大統領がヨーロッパ諸国のアメリカ大陸への干渉を禁ずるモンロー宣言を発表しました。
モンロー宣言は、1823年にアメリカ合衆国の第5代大統領ジェームズ・モンローが議会への年次教書で発表した外交方針です。
この宣言では、西半球における欧州列強の新たな植民地化や内政干渉を認めないと明確に打ち出しました。
一方で、アメリカ自身もヨーロッパ諸国の内政には不干渉を宣言し、相互不干渉の原則を示しました。
モンロー宣言は米州の安全保障と独立を守るための指導理念となり、後のアメリカ外交の基礎を築きました。
当初は欧州からの反発もありましたが、米国の国力が増すにつれてその影響力は強まりました。
20世紀以降も半球政策(ローダム・コロンブ)などに引用され続け、米州政策の根幹となりました。
1823年
ジェームズ・モンロー
米大統領
モンロー宣言
ヨーロッパ
モンロー主義
1848年
フランツ・ヨーゼフ1世がオーストリア皇帝に即位。
1848年12月2日、フランツ・ヨーゼフ1世がオーストリア皇帝に即位しました。
1848年の欧州革命の混乱の中、オーストリア皇帝フェルディナント1世が退位し、18歳のフランツ・ヨーゼフ1世が新たな皇帝となりました。
若き皇帝は保守的改革を進め、帝国内の多民族問題や革命運動を抑え込むための政策を展開しました。
彼の長期統治は1878年のボスニア併合や1867年のオーストリア=ハンガリー二重帝国成立など、帝国の再編を特徴としました。
厳格な宮廷儀礼と効率的な官僚制度を維持しつつ、近代化にも取り組みました。
第一次世界大戦直前まで続く長い治世の間、フランツ・ヨーゼフはヨーロッパ政治に大きな影響力を持ちました。
1916年の崩御まで、彼の統治はハプスブルク家の象徴として歴史に刻まれています。
1848年
フランツ・ヨーゼフ1世
オーストリア皇帝
1851年
フランス第二共和政大統領ルイ=ナポレオンがクーデターを起こし、国民議会を解散。
1851年12月2日、フランス第二共和政大統領ルイ=ナポレオンがクーデターを起こし、国民議会を解散しました。
ルイ=ナポレオン・ボナパルトは、大統領として憲法改正により再選を目指していましたが、議会との対立が深刻化しました。
1851年12月2日未明、軍を動員して国民議会を解散させ、反対派を一斉に弾圧しました。
このクーデターは国民投票で追認され、事実上の独裁体制が成立しました。
ルイ=ナポレオンはその後、1852年に皇帝としてナポレオン3世を名乗り、第二帝政を樹立しました。
自由主義者や共和派には厳しい弾圧が加えられ、多くが投獄や亡命を余儀なくされました。
この出来事はフランスの政治体制を大きく転換させ、19世紀欧州政治にも影響を与えました。
1851年
フランス第二共和政
ルイ=ナポレオン
クーデター
国民議会
1852年
ルイ=ナポレオンがナポレオン3世としてフランス皇帝に即位。フランス第二帝政が始まる。
1852年12月2日、ルイ=ナポレオンがナポレオン3世としてフランス皇帝に即位し、第二帝政が始まりました。
1852年12月2日の即位式により、かつてのナポレオン帝政が復活し、ルイ=ナポレオンはナポレオン3世を名乗りました。
彼は国民投票で改めて帝政支持を得て、憲法を改正して強化された皇権を確立しました。
ナポレオン3世は経済・インフラ整備やパリ改造など近代化政策を推進し、フランスの産業発展に寄与しました。
一方で自由主義者の弾圧や対外政策の転換も行い、クリミア戦争やイタリア統一戦争などに介入しました。
皇帝即位はフランス政治の安定をもたらす一方、後の普仏戦争で帝政崩壊への道筋を作ることにもなりました。
第二帝政期の文化・芸術は盛んに保護され、美術や文学、建築にも大きな影響を残しました。
1852年
フランス第二帝政
光緒34年11月9日
2歳10か月の愛新覚羅溥儀が清の皇帝に即位。
1908年12月2日(光緒34年11月9日)、幼少の溥儀が紫禁城で清朝皇帝として即位しました。
1908年12月2日(光緒34年11月9日)、幼少の溥儀が紫禁城で清朝皇帝として即位しました。
先帝光緒帝は同年11月14日に崩御し、政権は摂政の西太后と載灃らが掌握しました。
溥儀は実権を持てないまま幼帝として形式的な地位にとどまり、宮廷内の権力闘争が続きました。
1911年の辛亥革命後、溥儀は清朝最後の皇帝として退位し、中華民国成立を迎えました。
その後も傀儡政権の皇帝に利用されるなど、劇的な半生を歩むことになります。
清朝の終焉と中国の近代化の象徴として、溥儀の即位と退位は歴史的な転換点とされます。
1908年
光緒
11月9日
愛新覚羅溥儀
清
1949年
人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約が採択される。
人身売買と他人の売春搾取を禁止する国際条約が採択。
1949年12月2日、国際連合総会において『人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約』が採択されました。この条約は人身売買および性的搾取を国際的に犯罪と規定し、締約国に防止と罰則化を義務付けます。被害者保護と加害者処罰を両立させた内容は、後の人権擁護枠組みの基礎となりました。多くの国が批准し、国際的な人身売買対策の土台を築いています。条約採択後は各国で関連法整備が進み、現代における人権文書の重要な一つとされ続けています。
1949年
人身売買及び他人の売春からの搾取の禁止に関する条約
1954年
アメリカ合衆国と中華民国が米華相互防衛条約に調印。
米華相互防衛条約にアメリカと中華民国が調印。
1954年12月2日、アメリカ合衆国と中華民国(台湾)は『米華相互防衛条約』に調印しました。この条約は台湾海峡を含む地域の軍事的脅威から中華民国を防衛する相互援助を定めたものです。冷戦下の東アジアにおける安全保障体制を強化し、台湾海峡危機後の米台関係を深化させる契機となりました。条約は1979年の米中国交正常化まで効力を維持し、署名式にはアイゼンハワー大統領ら高官が出席しました。国際政治史において重要な外交文書として位置付けられています。
1954年
アメリカ合衆国
中華民国
米華相互防衛条約
1956年
キューバ革命: フィデル・カストロ、チェ・ゲバラらが、グランマ号でキューバの東海岸に上陸。
フィデル・カストロ率いるゲリラ隊が『グランマ号』でキューバ東海岸に上陸し、革命運動を本格化させた歴史的な一日。
1956年12月2日、フィデル・カストロとエルネスト・チェ・ゲバラら約82名のゲリラ隊が、メキシコから運んだ小型ヨット『グランマ号』でキューバ東海岸に上陸しました。
この上陸作戦はバティスタ政権打倒を目指すキューバ革命の始動点とされます。
上陸地点のカユエロス岬では、政府軍との交戦や補給不足に苦しみながらも、ゲリラ隊はシエラ・マエストラ山岳地帯へ撤退。
山岳地帯を根拠地に反政府闘争を続け、最終的には1959年のハバナ占領へと繋がりました。
この出来事はラテンアメリカにおける反植民地・反独裁運動の象徴ともなり、世界中に衝撃を与えました。
1956年
キューバ革命
フィデル・カストロ
チェ・ゲバラ
グランマ号
キューバ
1970年
アメリカ合衆国環境保護庁設立。
アメリカ合衆国で連邦環境保護庁(EPA)が正式に設立され、環境政策が本格始動。
1970年12月2日、米国議会は国民の健康と環境を守ることを目的とした連邦環境保護庁(Environmental Protection Agency: EPA)の設立法を可決。
同年10月の地球の日を契機に高まった環境意識を背景に、廃水・大気汚染規制の強化など総合的な環境政策運営機関が誕生しました。
設立当初は大気浄化法や水質法の執行が主な任務とされ、連邦政府の環境規制権限が大幅に拡大。
これにより企業の排出基準や有害物質管理が厳格化され、後の地球規模環境保護運動に先駆ける役割を果たしました。
現在もEPAは地球温暖化対策や化学物質規制を主導する国際的リーダー機関として機能しています。
1970年
アメリカ合衆国環境保護庁
1971年
ペルシャ湾岸の6つの首長国によりアラブ首長国連邦が成立。
ペルシャ湾岸の6首長国が連合し、アラブ首長国連邦(UAE)が新たに成立。
1971年12月2日、ドバイ、アブダビなどペルシャ湾岸の6つの首長国(アブダビ、ドバイ、シャールジャ、アジュマーン、ウム・アル=カイワイン、フジャイラ)が連邦政府樹立に合意。
旧イギリス保護領から独立し、石油資源を背景に医療・教育・インフラ整備を効率的に推進する新国家体制を構築。
首都アブダビを中心に各首長国は高度な自治権を保持しつつ、安全保障や外交政策を共同で運営。
設立当初から高い経済成長率を示し、今日の金融・観光ハブとしての発展基盤を築きました。
1年後の1972年には7番目の首長国であるラアス・アル=ハイマが加入し、現在の7国連合体制が完成しました。
1971年
ペルシャ湾
首長国
アラブ首長国連邦
1975年
ラオスで王政を廃止し人民民主共和国を宣言。
ラオスで王政が廃止され、ラオス人民民主共和国が樹立。
1975年12月2日、内戦を終結させた共産党勢力(パテート・ラーオ)が王制を廃止し、ラオス人民民主共和国の樹立を宣言しました。
1913年から続いた王朝が終焉を迎え、新政権は社会主義体制の建設を掲げました。
中央集権的な政党統制経済が導入され、全国の経済・行政機構が国営化されました。
ソ連や北ベトナムと緊密な外交関係を築き、社会主義同盟路線を歩み始めました。
これによりラオスは東南アジアにおける共産主義国の一員となりました。
1975年
ラオス
王政