1640年

ポルトガルのブラガンサ公ジョアンらがスペイン王宮を襲撃し、ポルトガル王政復古戦争が勃発。15日にスペインとの同君連合解消、ポルトガル王即位。

1640年12月1日、ポルトガルのブラガンサ公ジョアンらがスペイン王宮を急襲し、同君連合を解消。ポルトガル王政が復古しました。
1580年に始まったイベリア連合下の支配に対し、ポルトガル貴族らは独立を模索していました。 1640年12月1日、ブラガンサ公ジョアン率いる反乱軍がリスボンの王宮を急襲し、フェリペ4世の支配を打破。 この事件によりポルトガル王政復古戦争が勃発し、同君連合が解消される契機となりました。 12月15日にはジョアン4世が正式に即位し、ポルトガル王国の主権回復が宣言されました。 最終的に1668年にスペインが独立を承認し、約28年間にわたる戦争が終結しました。
1640年 ポルトガル ジョアン スペイン ポルトガル王政復古戦争 同君連合
1941年

第二次世界大戦: 御前会議で、ハル・ノートによるアメリカの要求は受け入れられないとして対米英開戦を決定。

1941年12月1日、御前会議でハル・ノートの要求を拒否し、日本は対米英開戦を決定しました。
1941年12月1日、日本は皇居で開催された御前会議において、アメリカが提示したハル・ノートの全面的受け入れを断念しました。 ハル・ノートは日米関係改善の条件として領土放棄などを要求しており、日本側は国益を損なうと判断しました。 この会議決定により、日本政府は対米英開戦の方針を固め、作戦準備を加速させました。 2日後の12月7日には真珠湾攻撃が実行され、太平洋戦争が本格化しました。 対米英開戦は日本の外交・軍事戦略の転機となり、その後のアジア太平洋地域の歴史を大きく変えました。 戦後はこの決定が国際社会で大きな批判を浴び、戦争責任の議論に繋がりました。
1941年 第二次世界大戦 御前会議 ハル・ノート
1943年

第二次世界大戦: カイロ宣言発表。

1943年12月1日、連合国首脳が共同声明「カイロ宣言」を発表しました。
1943年12月1日、エジプトのカイロで開催された連合国首脳会談において、米英中の指導者が共同声明「カイロ宣言」を発表しました。 声明では、日本の無条件降伏と戦後処理の方針として、朝鮮の独立回復や台湾・澎湖諸島の返還などを掲げました。 フランクリン・ルーズベルト大統領、ウィンストン・チャーチル首相、蒋介石総統が参加し、太平洋戦線の戦略を協議しました。 カイロ宣言は連合国の対日政策の基本原則となり、戦後の国際秩序形成に大きな影響を与えました。 しかし具体的な実施条件や範囲については後のポツダム宣言で再確認されることとなりました。 また、宣言はアジア諸国の戦後復興と独立運動の契機ともなりました。
1943年 カイロ宣言