紀元前8年

ホラティウス

詩人

詩人
ローマ帝政期の著名な詩人で、叙情詩や風刺詩を多く残した人物です。
ホラティウス(Quintus Horatius Flaccus)は紀元前65年頃に生まれたローマの叙情詩人です。 アウグストゥス朝の宮廷で活動し、『叙情詩集』『風刺詩集』『書簡詩』などで知られています。 その作品には『Carpe Diem(その日を摘め)』の思想や、古典ギリシア文学への造詣が色濃く反映されています。 政治的にも影響力を持つ後援者を得て、社会風刺や自己の内面を詠んだ詩を残しました。 紀元前8年に亡くなり、後世のヨーロッパ文学に大きな影響を与えました。
紀元前8年 ホラティウス 詩人 紀元前65年
450年

ガッラ・プラキディア

(390 - 450)

ローマの皇族

ローマの皇族
東ローマ帝国出身の皇族で、西ローマ帝国の実質的な摂政として国政を主導した女性です。
ガッラ・プラキディア(Galla Placidia、390年頃–450年)は東ローマ皇帝テオドシウス1世の娘として生まれました。 西ローマ帝国で権力争いを生き抜き、息子ウァレンティニアヌス3世の摂政として423年から437年まで政治を指揮しました。 異民族との複雑な交渉や宗教政策にも関与し、キリスト教会の保護者として教会建造を支援しました。 一時はゴート族に捕らえられながらも復権し、その統治手腕で帝国の安定を図りました。 450年に没し、その政治的遺産は後世にまで語り継がれています。
450年 ガッラ・プラキディア ローマ 390年
511年

クローヴィス1世

(466 - 511)

フランク王

フランク王
メロヴィング朝の初代フランク王として全フランク族を統一し、カトリックに改宗した君主です。
クローヴィス1世(Clovis I、466年–511年)は481年に父キルデリク1世の跡を継ぎ、フランク王国を統一しました。 アレマニ族や西ゴート王国との戦いに勝利し、領土を拡大しました。 496年頃にパリでキリスト教カトリックに改宗し、この出来事は後のヨーロッパ統合に大きな影響を与えました。 彼の治世はメロヴィング朝の基礎を築き、息子たちと共に家督を分割しながら王国を維持しました。 511年に死去し、その後もフランク王国は中世ヨーロッパの中心勢力として発展しました。
511年 クローヴィス1世 フランク王 466年
835年

ムハンマド・タキー

(811 - 835)

シーア派12イマーム派のイマーム

シーア派12イマーム派のイマーム
シーア派十二イマーム派の第9代イマームで、若くして信徒を導いた宗教指導者です。
ムハンマド・タキー(Muhammad al-Taqi、811年–835年)はシーア派十二イマーム派の第9代イマームとされます。 8歳でイマームの地位を継承し、若年ながらも神学的見解を示して信徒から尊敬を集めました。 アッバース朝カリフとの対立や交渉の中で、教義の擁護に努めました。 彼は教えを後世に伝える多くの書簡や言説を残し、イランやイラクを中心とする信仰共同体に影響を与えました。 835年に25歳で没し、最終的にバグダードにある聖廟に葬られました。
835年 ムハンマド・タキー シーア派 12イマーム派 イマーム 811年
長保4年10月21日

慶滋保胤

(931 - 1002)

平安時代の文人

平安時代の文人
平安時代の貴族・文人で、和歌や漢詩に優れ、朝廷で学識を発揮した人物です。
慶滋保胤(よししげのやすたね、931年–1002年)は平安時代の貴族で、『古今和歌集』などの勅撰和歌集に歌を残しました。 漢詩にも通じ、中国文学の知識を生かして多くの詩文を創作しました。 大学寮や臣籍降下を経て、朝廷での学者としての地位を確立しました。 同時代の文人たちと交流し、和歌会や詩会で活躍しました。 長保4年(1002年)に没し、その文才は後世の歌人にも影響を与えました。
1002年 長保 10月21日 慶滋保胤 平安時代 文人 931年
1198年

コスタンツァ

シチリア女王

シチリア女王
ノルマン朝最後のシチリア女王で、後に神聖ローマ皇帝と婚姻し大きな政治的役割を果たしました。
コスタンツァ(Constance、1154年頃?–1198年)はシチリア王国を継承したノルマン朝最後の女王です。 1186年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世と結婚し、ホーエンシュタウフェン家のシチリア統治権を確立しました。 彼女の結婚により、シチリア王位は皇帝領と結びつき、地域政治に大きな影響を及ぼしました。 1194年には息子フリードリヒ2世をシチリア王に即位させ、摂政として国政を支えました。 1198年に没し、その後もホーエンシュタウフェン朝の基礎を築いた存在として評価されています。
1198年 コスタンツァ シチリア女王 1154年
1494年

ギヨーム・デュファイ

(1400 - 1494)

作曲家

作曲家
ルネサンス初期を代表するフランス系作曲家で、モテットやミサ曲で革新的な音楽を生み出しました。
ギヨーム・デュファイ(Guillaume Dufay、約1400年–1494年)はフランス・ブルゴーニュ楽派を代表する作曲家です。 『ミサ曲「リ・オム・アルメ」』をはじめとする多くの宗教音楽でフランスとイタリアの音楽様式を融合しました。 彼はケンブリッジ大学やパドヴァ大学で学び、教会や貴族の礼拝音楽に大きな影響を与えました。 対位法と旋律の美しさを追求し、後世の作曲家にとって重要な模範となりました。 1494年にブルッヘで没し、その作品は今日も合唱レパートリーとして演奏され続けています。
1494年 ギヨーム・デュファイ 作曲家 1400年
1570年

ヤーコポ・サンソヴィーノ

(1486 - 1570)

建築家

建築家
ルネサンス期のイタリア人建築家・彫刻家で、ヴェネツィアの都市景観に大きな影響を与えました。
ヤーコポ・サンソヴィーノ(Jacopo Sansovino、1486年–1570年)はフィレンツェ生まれの彫刻家・建築家です。 ローマで古典彫刻を学んだ後、1529年にヴェネツィアへ移住し、元首都市の建築責任者となりました。 サンマルコ広場の図書館(マルチェリアーナ図書館)や商館のロッジアなど、象徴的な建築を手がけました。 彼の作品は古典建築の要素とヴェネツィア独自のゴシック様式が調和した独特の美を示しています。 1570年に没し、その遺した建築美は今日も街なかに息づいています。
1570年 ヤーコポ・サンソヴィーノ 建築家 1486年
文禄4年10月24日

中川秀政

(1568 - 1592)

戦国武将

戦国武将
豊臣秀吉に仕えた戦国武将で、多くの合戦に参加し築城にも貢献しました。
中川秀政(1568年–1592年)は戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。 もとは織田信長に仕え、その後豊臣秀吉の配下として小田原征伐や九州征伐に参戦しました。 1592年の朝鮮出兵では前線で指揮を執り、戦功を挙げました。 秀吉の命を受けて日本各地で築城を指導し、砦や城郭の整備を担当しました。 同年10月、朝鮮出兵中に病没したと伝えられています。
1592年 文禄 10月24日 中川秀政 戦国武将 1568年
1680年

アタナシウス・キルヒャー

(1602 - 1680)

博学者

博学者
17世紀のドイツ出身の博学者で、自然科学から言語学まで幅広く研究を行いました。
アタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher、1602年–1680年)はイエズス会士で、多岐にわたる分野の著作を残しました。 地質学・鉱物学・言語学・オリエント学・音響学など、当時未知とされた現象に対して理論的探究を行いました。 『Musurgia universalis』『Oedipus Aegyptiacus』『Mundus subterraneus』などの著作で知られています。 実験機器や発明品を制作し、コレクションを公衆展示して科学普及にも力を注ぎました。 1680年に没し、その膨大な著作は後世の学問に刺激を与え続けています。
1680年 アタナシウス・キルヒャー 博学者 1602年
正徳4年10月21日

ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ

(1668 - 1714)

日本に潜入したカトリック司祭

日本に潜入したカトリック司祭
イタリア出身のカトリック司祭。禁教下の日本に潜入し、信仰を広めようとした人物。幕府に捕らえられ獄中で生涯を終えた。
ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティは1668年にイタリアで生まれたカトリック司祭です。彼は1714年に日本に密入国し、キリスト教布教の使命を果たそうと試みました。しかし当時の幕府は厳しい禁教政策を敷いており、シドッティは江戸で捕縛されます。蘭学者の新井白石による尋問を受け、その深い信仰心と博識から一時は処遇が注目されました。最終的には幽閉されたまま命を落とし、日本における禁教史の中で特異な存在とされています。
1714年 正徳 ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ カトリック 司祭 1668年
1754年

アブラーム・ド・モアブル

(1667 - 1754)

数学者

数学者
フランス生まれのユグノー系数学者。確率論や複素数の幾何学に画期的な業績を残した。
アブラーム・ド・モアブルは1667年にフランスで生まれました。ユグノー迫害を逃れ、後にイギリスへ亡命し数学研究に専念します。彼の著書『確率の教義』では確率論の基礎を体系化し、後の統計学発展に大きく貢献しました。またド・モアブルの定理として知られる、複素数を用いた三角関数表示の公式を発表しました。さらに正規分布近似の理論を展開し、確率論と解析学を結び付ける橋渡し役を果たしました。彼の研究はラプラスやガウスらの学説形成にも影響を与え、現代数学の礎に数えられています。晩年は王立協会会員として活躍し、その功績は高く評価されました。
1754年 アブラーム・ド・モアブル 数学者 1667年