観応2年11月7日

崇光天皇廃位、光厳院政停止。

南北朝時代の観応の擾乱で、崇光天皇が廃位され、院政を行っていた光厳上皇の院政が停止された政治事件です。
南北朝時代の観応の擾乱では、幕府と有力守護大名の対立が深刻化していました。 観応2年(1352年)11月7日、京都で崇光天皇が退位を命じられ、その地位を失いました。 院政を敷いていた光厳上皇も同時に権力基盤を奪われ、政治的影響力が一時的に停止されました。 この事件は朝廷内での勢力争いを象徴し、後の南北朝の対立構造に影響を与えました。 廃位と院政停止の決定は、幕府の意向が朝廷政治に及ぶ力を示す出来事とされます。
1352年 観応 崇光天皇 廃位 光厳 院政
1778年

ジェームズ・クック船長がヨーロッパ人として初めてマウイ島を訪れる。

イギリスの探検家ジェームズ・クック船長が1778年11月26日にヨーロッパ人として初めてハワイ諸島のマウイ島を訪れました。
1776年から始まったクックの第三回航海で、1778年に太平洋を横断しハワイ諸島に到達しました。 同年11月26日、マウイ島に上陸し、島民との最初の接触を果たしました。 この訪問はヨーロッパ人によるハワイ諸島最初の探検の一環であり、その後の植民地化への足がかりとなりました。 マウイ島では水や食料の補給が行われ、航海の安全確保に寄与しました。 クックの記録はハワイの地理や文化の詳細な知見をヨーロッパにもたらしました。
1778年 ジェームズ・クック マウイ島
1805年

ポントカサステ水路橋が開通。

ウェールズにあるポントカサステ水路橋が1805年11月26日に完成・開通しました。
ポントカサステ水路橋はトレヴィー川を越える長さ約307メートル、高さ約38メートルの運河橋です。 建築家トーマス・ティッソンと技術者ジョン・ローダムによって設計されました。 水路橋には19のアーチが連なり、鋳鉄製の水路用トラフが設置されています。 開通により、トレイン・トウ礦山からの石炭輸送ルートが効率化され、工業発展に貢献しました。 現在では世界遺産にも登録され、観光名所としても知られています。
1805年 ポントカサステ水路橋
1842年

パリのノートルダム大学が開学。

1842年、パリに新たな学びの場としてノートルダム大学が開学しました。
1842年 ノートルダム大学
明治元年10月13日

明治天皇が江戸城に入る。名称を東京城と改めて皇居とする。

明治元年(1868年)11月26日、明治天皇が旧江戸城に入城し、東京城と改称して皇居と定めた歴史的出来事です。
1868年の版籍奉還と王政復古の大号令の後、明治天皇は江戸城に入城しました。 この時、城は「東京城」と改称され、近代国家の新たな中心として位置づけられました。 さらに、そこが「皇居」と呼ばれるようになり、天皇の居所として定着しました。 首都機能の西から東への移転は、日本の中央集権化と近代化を象徴する出来事でした。 現在の東京の発展と日本の国家体制構築に大きな影響を与えました。
1868年 明治 10月13日 明治天皇 江戸城 皇居
1906年

南満洲鉄道(満鉄)設立。

1906年11月26日、南満洲鉄道(満鉄)が設立され、日本の産業進出を支えた鉄道会社が誕生しました。
南満洲鉄道株式会社は、大日本帝国政府が出資して設立した国策会社です。 満州地域の資源開発と日本の経済的利益確保を目的に、鉄道網や鉱山開発を行いました。 総延長は約2000kmに及び、地域の物流と産業発展を大きく促進しました。 同社は鉄道運営だけでなく、都市開発や金融・観光事業にも進出しました。 満鉄は日本の植民地経営の中核を担い、その影響は戦後まで続きました。
1906年 南満洲鉄道
1917年

北米のプロアイスホッケーリーグNHLが発足。

1917年11月26日、北米のプロアイスホッケーリーグNHLが発足し、世界最高峰のリーグが誕生しました。
ナショナルホッケーリーグ(NHL)は、カナダとアメリカ合衆国をまたぐプロアイスホッケーリーグです。 第1シーズンは1917–18年に行われ、4チームで競技がスタートしました。 リーグ創設によりアイスホッケーのプロ化とルールの統一が進みました。 スタンレーカップをめぐる熱戦は北米で高い人気を博し、現在でも世界中にファンを持ちます。 NHLは選手の技術向上と戦術革新を牽引し、アイスホッケーの発展に大きく寄与しました。
1917年 アイスホッケー NHL
1924年

モンゴル人民共和国が発足。

1924年11月26日、モンゴル人民共和国が正式に発足し、アジアで最初期の社会主義国家の一つとなりました。
モンゴル人民共和国は、1921年の革命を経て、ボグド・ハーン制を廃し、社会主義国家として成立しました。 1924年11月26日の第三回大フラルで正式に宣言され、アジア初の社会主義国家の一つとなりました。 政治体制にはソビエト連邦の影響が強く、計画経済や集団化が導入されました。 農業集団化や工業化政策が進められ、近代化をめざしました。 1992年の新憲法制定まで続き、現在のモンゴル国への移行の基礎を築きました。
1924年 モンゴル人民共和国
1930年

北伊豆地震が発生。死者・行方不明者272名。

1930年11月26日、静岡県北伊豆地方を震源とする地震が発生し、死者・行方不明者合わせて272人の被害が出ました。
1930年11月26日未明、マグニチュード約6.3の地震が北伊豆地方を襲いました。 地震により建物の倒壊や土砂崩れが発生し、多くの住宅や公共施設が被災しました。 被害は主に静岡県熱海市や伊東市に集中し、272人の死者・行方不明者が報告されました。 震災を受けて防災対策や耐震建築の重要性が再認識されました。 また、被災者支援のためのボランティア活動や支援組織の形成も見られました。
1930年 北伊豆地震
1935年

日本ペンクラブが発足。初代会長は島崎藤村。

1935年11月26日、日本ペンクラブが発足し、初代会長に詩人・小説家の島崎藤村が就任しました。
日本ペンクラブは、国際ペン(PEN International)の日本支部として設立されました。 文学者の島崎藤村が初代会長に選ばれ、言論・出版の自由を守る活動を開始しました。 会員には芥川龍之介、谷崎潤一郎など当時を代表する作家が名を連ねました。 戦前から戦後にかけて検閲や弾圧に抗し、表現の自由の擁護に尽力しました。 現在も翻訳支援や作家交流など国際的な文学活動を推進しています。
1935年 日本ペンクラブ 島崎藤村
1939年

マイニラ砲撃事件

ソ連がフィンランドとの国境付近にあるマイニラ村を砲撃し、冬戦争開戦の口実を作った事件。
1939年11月26日、ソ連軍がフィンランドとの境界に位置するマイニラ村を砲撃。 この攻撃はソ連側の自作自演とされ、責任をフィンランドに転嫁するためのものだった。 事件を口実に翌日にソ連はフィンランドに宣戦布告し、冬戦争が勃発。 マイニラ砲撃事件はソ連のプロパガンダ戦略としても知られる。 この出来事が北欧の小国フィンランドを苦境に陥れた歴史的事件である。
1939年 マイニラ砲撃事件
1941年

第二次世界大戦: アメリカのハル国務長官がハル・ノートを提示。

米国務長官コーデル・ハルが日本に外交改善を求める最後通牒、通称ハル・ノートを提示。
1941年11月26日、アメリカのコーデル・ハル国務長官が日本政府に対しハル・ノートを提示。 この文書は中国からの全面撤退や満州国の放棄などを求める内容であった。 日本側はこれを受容困難と判断し、両国の関係は一層悪化。 ハル・ノートは真珠湾攻撃の遠因ともされる重要な外交文書である。 その後数週間で太平洋戦争へと突入していった。
1941年 第二次世界大戦 ハル ハル・ノート