235年

ローマ教皇アンテルスが即位。

235年11月21日、ローマ教皇アンテルスが即位しました。 初期キリスト教会の運営に影響を与えた短命の教皇です。
アンテルスはピオ一世の後を継ぎ、第20代ローマ教皇として即位しました。 彼は教会の文書管理を重視し、殉教者名簿の編纂を試みたと伝えられます。 しかし在位期間は約3か月と非常に短く、詳細な記録はほとんど残っていません。 殉教者への献辞や教会法の整備を図ろうとした功績が評価されています。 236年初頭にその生涯を閉じたものの、後世の教皇制度に影響を与えました。
235年 ローマ教皇 アンテルス
1789年

ノースカロライナ州が12番目にアメリカ合衆国憲法に批准。

1789年11月21日、ノースカロライナ州がアメリカ合衆国憲法を批准し、12番目の州として加盟しました。
ノースカロライナ州は独立戦争後、当初は新憲法に慎重な姿勢を示していました。 人権章典(ビル・オブ・ライツ)が盛り込まれない限り承認しないとの立場を取っていました。 しかし憲法修正条項の約束を受け、ついに批准に踏み切りました。 これにより合衆国は12州体制となり、強固な連邦政府の基盤が整備されました。 後の米国憲法修正運動にも大きな影響を与えました。
1789年 ノースカロライナ州 アメリカ合衆国憲法
1859年

安政の大獄: 吉田松陰の死刑を執行。

1859年11月21日、安政の大獄により尊王攘夷の志士・吉田松陰が江戸で処刑されました。
安政の大獄は幕末の攘夷派に対する大規模な弾圧でした。 当時の大老・井伊直弼の命で孝明天皇の勅許を得ずに活動した志士が標的とされました。 吉田松陰は長州藩士であり、江戸から密航を企てた罪で投獄されました。 江戸伝馬町の獄で斬首刑に処され、その遺志は門弟たちに受け継がれました。 松陰の思想は後の明治維新を支えた人材育成に大きな影響を与えました。 若くして散った教育者としての評価は今日まで高く評価されています。
1859年 安政の大獄 吉田松陰
1916年

オーストリア=ハンガリー帝国君主フランツ・ヨーゼフ1世が崩御し、カール1世がオーストリア皇帝・ハンガリー王に即位。

長期君主として知られたフランツ・ヨーゼフ1世が崩御しました。 その後を継いだカール1世がオーストリア皇帝およびハンガリー王に即位しました。
フランツ・ヨーゼフ1世は1848年の即位以来、約68年にわたり帝国の政治と安定を維持しました。 しかし第一次世界大戦下の隆盛衰退期にあたり、戦局の悪化を経験しました。 1916年11月21日、ウィーンにて死去、享年86歳でした。 崩御に伴い、甥にあたるオーストリア大公カールが即位しました。 カール1世は若干30歳での皇帝即位となり、和平交渉を模索しましたが果たせませんでした。 彼の統治は帝国解体の危機を乗り越えられず、最終的にはハプスブルク家の終焉へとつながります。 これにより約700年続いたハプスブルク家の歴史は終止符を迎えることとなりました。
オーストリア=ハンガリー帝国 フランツ・ヨーゼフ1世 カール1世
1945年

治安警察法廃止。

戦後の日本で治安警察法が廃止され、治安統制体制に一石が投じられました。 言論・集会の自由拡大につながる転機となった法改正です。
1945年11月21日、治安警察法廃止法が公布・施行されました。 治安警察法は1931年に制定され、思想統制や集会制限に利用されてきました。 戦後占領下の民主化政策の一環として、本法廃止が決定されました。 これにより警察権限の縮小と市民の表現・結社の自由が保障される道が開かれました。 治安維持法同様の統制法令廃止は戦後日本の基本的人権回復に大きく寄与しました。 廃止後は新たな警察法体系の整備が進められ、現行法の基礎となりました。
1945年 治安警察法
1963年

第30回衆議院議員総選挙投票。

1963年11月21日、日本で第30回衆議院議員総選挙の投票が行われました。自由民主党が引き続き多数を維持し、池田内閣の政策運営を支えました。
1963年11月21日に実施された日本の第30回衆議院議員総選挙の投票日です。自由民主党が第1党を維持し、池田勇人内閣の政策継続が支持されました。投票率は比較的高く、第二次世界大戦後の日本政治における安定期を反映する選挙とされます。総選挙は高度経済成長期の政策推進が焦点となり、与野党間の論戦が国民の注目を集めました。
1963年 第30回衆議院議員総選挙
1969年

米大統領リチャード・ニクソンと日本の佐藤栄作首相が、安保堅持・1972年の沖縄返還などの日米共同声明を発表。

1969年11月21日、ニクソン米大統領と佐藤栄作首相が日米共同声明を発表し、日米安全保障条約の堅持と沖縄返還に合意しました。
1969年11月21日にリチャード・ニクソン米大統領と佐藤栄作首相が共同声明を発表しました。声明では日米安全保障条約の堅持を改めて確認し、1972年の沖縄返還に向けた具体的なスケジュール案を示しました。冷戦下のアジア太平湾地域での戦略的協力が鮮明になり、戦後日本外交の重要な節目となりました。
1969年 リチャード・ニクソン 佐藤栄作 安保 1972年 沖縄返還
1970年

国連総会で、中華民国追放・中華人民共和国招請議案が初めて過半数を獲得。

1970年11月21日、国連総会で中華民国追放・中華人民共和国招請議案が初めて過半数を獲得しました。
1970年11月21日の国連総会で、台湾政府を代表する中華民国を追放し、北京政府を代表とする中華人民共和国を招請する議案が初めて過半数を獲得しました。この結果は翌年の国連総会決議2758号の採択に向けた前哨戦となり、国際社会の対中国政策が大きく転換する契機となりました。冷戦期における中華人民共和国の国際的地位向上を象徴し、多くの国が一つの中国政策を採用する流れが加速しました。
1970年 中華民国 中華人民共和国
1990年

全欧安全保障協力会議が欧州分断終結を宣言したパリ憲章に調印。

1990年11月21日、CSCE加盟国が「新ヨーロッパのためのパリ憲章」に調印し、冷戦の終結を宣言しました。
1990年11月21日、CSCE(全欧安全保障協力会議)に参加する35か国が「新ヨーロッパのためのパリ憲章」に調印し、欧州の分断終結と冷戦の公式な終焉を宣言しました。憲章では民主主義の尊重、人権の保護、経済的相互依存の促進が謳われ、旧東側諸国の政治改革を支援する枠組みが提示されました。この調印により欧州の安全保障と協力体制が再構築され、その後のEU拡大やNATOの東方拡大を後押ししました。統一ドイツの成立や東欧諸国の民主化を支援する国際的合意として歴史的意義を持ちます。
1990年 全欧安全保障協力会議 パリ憲章 英語版
2002年

ブルガリア・エストニア・ラトビア・リトアニア・ルーマニア・スロバキア・スロベニアが北大西洋条約機構(NATO)に加盟。

7カ国がNATOに加盟し、北大西洋条約機構が東欧地域へ大きく拡大しました。
ブルガリア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ルーマニア、スロバキア、スロベニアの7カ国が同時にNATOに加盟。 2002年11月21日発効により、冷戦後の安全保障体制が大きく変化。 東欧諸国の加盟はロシアとの緊張緩和と欧州の安定化を図る狙い。 加盟国は集団防衛義務を負い、軍事同盟の範囲が東へ拡大。 EU加盟プロセスとの連携も加速し、域内統合が進展。 地域の安全保障と政治的統合を推進する歴史的瞬間でした。
2002年 ブルガリア エストニア ラトビア リトアニア ルーマニア スロバキア スロベニア 北大西洋条約機構
2003年

保守新党が解党し、自由民主党に合流。

保守新党が解党し、自民党に合流。日本の政界再編の一環として行われました。
2002年に結成された保守新党が1年半足らずで解党を決定。 2003年11月21日に正式に解散し、多くの議員が自由民主党へ移籍。 自民党は保守票の結集を図り、与党勢力の強化を狙った。 移籍議員は新たな党内組織を形成し、ポスト配分や政策調整が議論に。 政党再編の流れの中、自民党の一強体制がさらに固まる結果に。 地方組織や支持母体にも大きな影響を与えました。
2003年 保守新党 自由民主党
2011年

オウム真理教元幹部・遠藤誠一に最高裁判所が上告審判決(上訴棄却、死刑が確定)。オウム真理教事件の一連の刑事裁判がすべて終結。

オウム真理教元幹部・遠藤誠一の死刑が確定し、オウム真理教事件の刑事裁判がすべて終結しました。
1995年の地下鉄サリン事件などを引き起こしたオウム真理教。 元幹部の遠藤誠一は殺人などの罪で死刑判決を受けていた。 2011年11月21日、最高裁判所が上告を棄却し、死刑が最終確定。 これによりオウム真理教関係の主要な刑事裁判がすべて終了。 事件から16年を経て、被害者や遺族にとって一区切りとなった。 日本の近代史における重大な社会問題の一つとして記憶されます。
2011年 オウム真理教 遠藤誠一 オウム真理教事件