235年
ローマ教皇アンテルスが即位。
235年11月21日、ローマ教皇アンテルスが即位しました。
初期キリスト教会の運営に影響を与えた短命の教皇です。
アンテルスはピオ一世の後を継ぎ、第20代ローマ教皇として即位しました。
彼は教会の文書管理を重視し、殉教者名簿の編纂を試みたと伝えられます。
しかし在位期間は約3か月と非常に短く、詳細な記録はほとんど残っていません。
殉教者への献辞や教会法の整備を図ろうとした功績が評価されています。
236年初頭にその生涯を閉じたものの、後世の教皇制度に影響を与えました。
235年
ローマ教皇
アンテルス
1783年
パリでモンゴルフィエ兄弟が熱気球による初の有人飛行に成功。
1783年11月21日、モンゴルフィエ兄弟が世界初の有人熱気球飛行に成功しました。
パイオニアはジョセフ・モンゴルフィエとジャック=エティエンヌ・モンゴルフィエ兄弟。
飛行機体は布製の気球に籠を取り付け、約25分間の飛行で高度約900メートルを記録しました。
パイロットはピラトル・ド・ロジエとアルマン・マリ・ジャック・ダルランデの2人。
観衆はパリ市民や貴族ら数万人に及び、熱狂的な歓迎を受けました。
この成功が後の航空技術発展の道を開き、空の時代の幕開けとされています。
1783年
モンゴルフィエ兄弟
熱気球
1789年
ノースカロライナ州が12番目にアメリカ合衆国憲法に批准。
1789年11月21日、ノースカロライナ州がアメリカ合衆国憲法を批准し、12番目の州として加盟しました。
ノースカロライナ州は独立戦争後、当初は新憲法に慎重な姿勢を示していました。
人権章典(ビル・オブ・ライツ)が盛り込まれない限り承認しないとの立場を取っていました。
しかし憲法修正条項の約束を受け、ついに批准に踏み切りました。
これにより合衆国は12州体制となり、強固な連邦政府の基盤が整備されました。
後の米国憲法修正運動にも大きな影響を与えました。
1789年
ノースカロライナ州
アメリカ合衆国憲法
1806年
ナポレオン戦争: ナポレオン・ボナパルトによって大陸封鎖令が発せられる。
1806年11月21日、ナポレオン・ボナパルトがベルリン勅令(大陸封鎖令)を発布し、英国本土との通商を禁止しました。
大陸封鎖令(ベルリン勅令)はナポレオン戦争における経済戦略の一環でした。
フランス帝国および同盟国に対し英国製品の輸入・通商を一切禁じました。
狙いは英国の産業力を削ぎ、戦費調達を困難にすることでした。
しかし連合国や中立諸国での密輸が横行し、思惑通りにはいきませんでした。
欧州経済に混乱を招き、逆にフランス国内の商人層の反発を招きました。
この政策は最終的に失敗し、ナポレオンの没落を早めた要因ともいわれます。
1806年
ナポレオン戦争
ナポレオン・ボナパルト
大陸封鎖令
1859年
安政の大獄: 吉田松陰の死刑を執行。
1859年11月21日、安政の大獄により尊王攘夷の志士・吉田松陰が江戸で処刑されました。
安政の大獄は幕末の攘夷派に対する大規模な弾圧でした。
当時の大老・井伊直弼の命で孝明天皇の勅許を得ずに活動した志士が標的とされました。
吉田松陰は長州藩士であり、江戸から密航を企てた罪で投獄されました。
江戸伝馬町の獄で斬首刑に処され、その遺志は門弟たちに受け継がれました。
松陰の思想は後の明治維新を支えた人材育成に大きな影響を与えました。
若くして散った教育者としての評価は今日まで高く評価されています。
1859年
安政の大獄
吉田松陰
1889年
東京・木挽町(現:東銀座)に歌舞伎座が開場。
1889年11月21日、東京・木挽町(現・東銀座)に歌舞伎座が開場し、本格的な公演が始まりました。
歌舞伎座の開場は近代日本の劇場建築の先駆けとなりました。
設計は英風意匠を取り入れた和洋折衷様式で、定員は約2,500席でした。
初日の演目には市川團十郎や尾上菊五郎らが出演し華やかに幕を開けました。
以後、歌舞伎座は幾度かの火災や改築を経ながらも歌舞伎文化の中心地として栄えました。
庶民文化の象徴として、多くのファンを魅了し続けています。
1889年
東京
木挽町
東銀座
歌舞伎座
1894年
日清戦争: 旅順虐殺事件。
1894年11月21日、日清戦争中の旅順要塞陥落後、清国兵捕虜に対する虐殺が発生しました。
旅順虐殺事件は日清戦争の激戦地で起こった大虐殺です。
日本陸軍第2軍が陥落後に捕虜となった清国兵を多数殺害しました。
犠牲者数は諸説ありますが、数千人にのぼるとされています。
事件は国際的な批判を招き、中国側の軍人・民間人に深い衝撃を与えました。
戦後、戦争犯罪としての検証はほとんど行われず、歴史的論争の一つとなっています。
1894年
日清戦争
旅順虐殺事件
1903年
三田綱町球場にて早稲田大学野球部と慶應義塾大学野球部の対抗戦が初開催される(早慶戦の起こり)。
1903年11月21日、三田綱町球場で早稲田大学と慶應義塾大学の初の野球対抗戦が開催されました。
この試合が後の「早慶戦」の原点とされています。
当日は両校の学生や市民が多数詰めかけ、白熱した好試合となりました。
早稲田が勝利を収め、その後も毎年恒例の伝統行事へと発展しました。
今日では日本大学スポーツ界を代表する熱狂的な大学対抗戦として知られています。
学生応援団の応援スタイルにも大きな影響を与えました。
1903年
早稲田大学野球部
慶應義塾大学野球部
早慶戦
1905年
E=mc²の式が載ったアルベルト・アインシュタインの特殊相対性理論の第2論文がドイツの学術誌『アナーレン・デア・フィジーク』に掲載される。
1905年11月21日、アインシュタインの特殊相対性理論第2論文が発表され、E=mc²の式が初めて公に示されました。
この論文は物質とエネルギーの等価性を示すものとして知られます。
Einsteinは質量がエネルギーに変換される関係式E=mc²を導きました。
当時は量子論や電磁気学の研究が盛んであり、理論物理学に革命をもたらしました。
掲載先の『アナーレン・デア・フィジーク』はドイツの権威ある学術誌です。
この発表が20世紀物理学の基礎を築き、核エネルギー研究にもつながりました。
今日でも科学史上の偉大な発見の一つとして高く評価されています。
1905年
E=mc²
アルベルト・アインシュタイン
特殊相対性理論
アナーレン・デア・フィジーク
1909年
人吉 吉松間の開業により、門司(現在の門司港)から鹿児島までが鉄道で結ばれる(現在の肥薩線経由)。
1909年11月21日、人吉・吉松間の鉄道が開業し、門司港から鹿児島まで鉄道で直結しました。
この区間の開通により九州西部の鉄道ネットワークが完成しました。
肥薩線として現在も利用され、観光路線としても人気があります。
人吉温泉や霧島連山へのアクセスが飛躍的に向上しました。
地域経済の発展や物流の効率化にも大きく寄与しました。
鉄道ファンの間では多彩な車窓風景が楽しめる路線として知られます。
1909年
人吉
吉松
門司港
鹿児島
肥薩線
1916年
第一次世界大戦: イギリス海軍に病院船として徴用されていた客船「ブリタニック」が触雷し沈没。
第一次世界大戦中に病院船として徴用された客船『ブリタニック』が触雷し沈没しました。
豪華客船として知られたその姿が海底に沈んだ歴史的事故です。
多数の乗員・乗客が犠牲となりました。
ブリタニックは元々豪華客船タイタニックの姉妹船として建造され、1915年から病院船に改装されました。
1916年11月21日、エーゲ海を航行中にドイツ海軍の機雷に触れ、船体に大きな損傷を受けます。
乗員・患者・医療スタッフを含む約1,000名以上が乗船していました。
船は沈没まで約55分間浮揚し、多くの乗員が救助されましたが、約30名が命を落としたとされています。
比較的速やかに救助活動が行われ、他の船艇や駆逐艦が現場に駆け付けました。
沈没したブリタニックの残骸は1999年に発見され、現在は海底に安置されています。
戦時下の医療輸送船としての悲劇とともに、深海探査でも注目を集める事案です。
1916年
第一次世界大戦
イギリス海軍
病院船
ブリタニック
1916年
オーストリア=ハンガリー帝国君主フランツ・ヨーゼフ1世が崩御し、カール1世がオーストリア皇帝・ハンガリー王に即位。
長期君主として知られたフランツ・ヨーゼフ1世が崩御しました。
その後を継いだカール1世がオーストリア皇帝およびハンガリー王に即位しました。
フランツ・ヨーゼフ1世は1848年の即位以来、約68年にわたり帝国の政治と安定を維持しました。
しかし第一次世界大戦下の隆盛衰退期にあたり、戦局の悪化を経験しました。
1916年11月21日、ウィーンにて死去、享年86歳でした。
崩御に伴い、甥にあたるオーストリア大公カールが即位しました。
カール1世は若干30歳での皇帝即位となり、和平交渉を模索しましたが果たせませんでした。
彼の統治は帝国解体の危機を乗り越えられず、最終的にはハプスブルク家の終焉へとつながります。
これにより約700年続いたハプスブルク家の歴史は終止符を迎えることとなりました。
オーストリア=ハンガリー帝国
フランツ・ヨーゼフ1世
カール1世