天正6年10月21日
織田信長に帰属していた荒木村重が謀反。
織田信長の家臣・荒木村重が反旗を翻した事件です。
戦国時代、織田信長に仕えていた荒木村重は摂津国の有力大名でしたが、信長の厳しい政策に不満を募らせていました。
天正6年(1578年)10月21日、荒木は摂津国の有岡城(現・兵庫県伊丹市)で謀反を起こし、城に立て籠もりました。
織田信長は直ちに包囲作戦を開始し、翌年まで続く有岡城の戦い(有岡城攻め)へと発展します。
最終的に荒木は降伏・出家を余儀なくされ、織田家の支配体制は再び安定しました。
この反乱は信長の権力掌握と外様大名との緊張関係を象徴する事件として知られています。
1578年
天正
10月21日
織田信長
荒木村重
ユリウス暦11月11日
メイフラワー号に乗ってアメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズがメイフラワー誓約に署名。
メイフラワー号の乗組員と移民が自治のための誓約書に署名しました。
1620年11月11日(ユリウス暦)に、イングランド清教徒たちはメイフラワー号でアメリカ東海岸に到着しました。
到着地で法と秩序を維持するため、船内でメイフラワー誓約(Mayflower Compact)に署名し、自治体を組織することを誓いました。
この誓約はアメリカ合衆国における民主的自治の先駆けとされ、後の植民地政府の基礎となりました。
誓約書には政府の権限や市民の義務が簡潔に記され、その精神はアメリカ独立宣言や憲法にも影響を与えたといわれます。
この出来事は「アメリカ建国の精神」を象徴する歴史的瞬間です。
1620年
ユリウス暦
11月11日
メイフラワー号
ピルグリム・ファーザーズ
メイフラワー誓約
1805年
ベートーヴェン唯一のオペラ『フィデリオ』が初演。ベートーヴェン自身が指揮をするが失敗。
ベートーヴェンが自身で指揮した唯一のオペラ『フィデリオ』が初演されました。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン唯一のオペラ『フィデリオ』は、1805年11月20日(グレゴリオ暦)にウィーンのケルントナー劇場で初演されました。
作品は苦難の中で夫婦の愛と自由を描くもので、当時のヨーロッパ社会における人権思想とも響き合う内容でした。
ベートーヴェン自身が指揮を務めましたが、オーケストラと歌手の呼吸が合わず、演奏は不評に終わりました。
その後、数度の改訂を経て1806年と1814年に再演され、徐々に評価が高まりました。
今日では解放のシンボルともされる『フィデリオ』は、ベートーヴェンの芸術的理想の結晶として愛されています。
1805年
ベートーヴェン
オペラ
フィデリオ
1889年
マーラーの交響曲第1番が初演。
マーラーの交響曲第1番が初めて演奏されました。
グスタフ・マーラー作曲の交響曲第1番は、1889年11月20日にブダペストで初演されました。
作品は『巨人(Titan)』の副題を持ち、大規模なオーケストレーションと野性的なリズムが特徴です。
マーラー自身が指揮を執り、初演は賛否両論を呼びました。
その後の改訂版によって作品は完成度を増し、今日ではマーラーの代表作の一つとして高く評価されています。
革新的な構成と表現力豊かな楽想が、20世紀の交響曲作曲に多大な影響を与えました。
1889年
マーラー
交響曲第1番
1910年
メキシコ革命: フランシスコ・マデロがポルフィリオ・ディアス大統領の大統領選での不正と当選無効を訴えて一斉蜂起。メキシコ革命が始まる。
フランシスコ・マデロが独裁政権打倒のため蜂起し、メキシコ革命が始まりました。
1910年11月20日、フランシスコ・マデロはポルフィリオ・ディアス大統領の不正選挙を批判し、『サンルイス・ポトシ計画』の下で蜂起を呼びかけました。
この反乱の開始はメキシコ革命の発端となり、国内の大規模な武装衝突へと発展しました。
ディアス政権の33年にわたる独裁体制に対する市民の不満が爆発し、各地で革命派と政府軍の戦闘が続きました。
最終的にマデロは1911年に政権を掌握し、民主化の第一歩を踏み出しましたが、新たな内戦と混乱を招くことになりました。
メキシコの社会構造と政治体制を根底から揺るがした重要な歴史的転換点です。
1910年
メキシコ革命
フランシスコ・マデロ
ポルフィリオ・ディアス
1917年
ウクライナ初の近代国家となるウクライナ人民共和国が独立を宣言。
ウクライナ人民共和国が独立を宣言し、初の近代国家が成立しました。
ロシア帝国の崩壊に伴い、中央ラーダ(ウクライナ中央評議会)は1917年11月20日にウクライナ人民共和国の独立を宣言しました。
初の近代的ウクライナ国家の誕生は、民族自決の象徴とされました。
共和国は議会制民主主義を志向し、ウクライナ語の公用語化や土地改革などを掲げました。
しかし、内外の混乱とボリシェヴィキ勢力の台頭により、独立は短期間で終焉を迎えます。
その後のソビエト支配下でも、ウクライナ独立の精神は国民意識の基盤となりました。
1917年
ウクライナ
ウクライナ人民共和国
1917年
第一次世界大戦: カンブレーの戦いはじまる。
第一次世界大戦で初の大規模戦車攻撃が行われたカンブレーの戦いが始まりました。
1917年11月20日、第一次世界大戦の西部戦線でイギリス軍がドイツ軍に対してカンブレーの戦いを開始しました。
この戦いでは史上初めて約400台の戦車を大規模に展開し、ドイツ陣地に突破口を開こうと試みました。
戦車の威力によって初期の成功を収めたものの、補給や通信の混乱から突破口は維持できませんでした。
12月初旬にはドイツ軍の反撃により多くの領土が失われ、戦線は膠着状態に戻りました。
戦術的には限定的成果にとどまりましたが、戦車戦の可能性を示した画期的な作戦でした。
第一次世界大戦
カンブレーの戦い
1927年
御岳登山鉄道設立。
御岳登山鉄道が設立され、御岳山へのアクセスが飛躍的に向上しました。
1927年11月20日、東京都西多摩郡御岳村(現・東京都青梅市)に御岳登山鉄道が設立されました。
当初は参拝客や登山客の利便性向上を目的として、ケーブルカーや鋼索鉄道の計画が進められました。
会社設立後、線路敷設や車両調達などの準備が急ピッチで進められ、1929年に開業しました。
山麓から御岳山山頂近くまでの急勾配区間を結び、多くの観光客を東京近郊の自然へと誘いました。
地域経済や観光産業の発展に寄与した重要なインフラ事業です。
1927年
御岳登山鉄道
1934年
辻政信らの働きかけで、皇道派の村中孝次大尉・磯部浅一一等主計ら3人と陸軍士官学校生徒5人をクーデター謀議で逮捕(陸軍士官学校事件)。
皇道派将校らが陸軍士官学校でクーデターを計画し、逮捕されました。
1934年11月20日、陸軍士官学校事件として知られるクーデター未遂事件で、皇道派の村中孝次大尉・磯部浅一一等主計ら3人が逮捕されました。
事件は辻政信らの工作によって発覚し、5人の士官学校生徒も関与が疑われ拘束されました。
皇道派は統制派と対立し、政治への軍部介入を強めようとする過激派で、政変を目論んでいました。
事件は未遂に終わったものの、軍内部の対立構造を露呈し、後の二・二六事件へとつながる伏線となりました。
昭和史における軍部台頭の一大転機とされています。
1934年
辻政信
皇道派
村中孝次
磯部浅一
陸軍士官学校
クーデター
陸軍士官学校事件
1936年
秋田県鹿角市にあった尾去沢鉱山で鉱滓ダムが決壊。下流の住宅街や商店街が流失するなどして死者362人。
尾去沢鉱山の鉱滓ダムが決壊し、下流域で大規模な被害が発生しました。
1936年11月20日、秋田県鹿角市の尾去沢(おさりざわ)鉱山で鉱滓ダムが決壊しました。
ダムが支えきれない量の鉱滓水が突然放出され、下流の住宅街や商店街を飲み込みました。
流出した土砂と水は瞬く間に市街地を襲い、死者362人、負傷者多数の大惨事となりました。
事件をきっかけに鉱山安全基準の見直しが進められ、鉱業における環境・安全管理の強化が図られました。
昭和期の国内災害史において最悪級の一つとされています。
1936年
秋田県
鹿角市
尾去沢鉱山
鉱滓ダム
1937年
国民政府(蔣介石政権)が南京から重慶への遷都を宣言。
日中戦争の激化を受けて国民政府が安全な重慶へ首都を遷し、抗戦体制を強化しました。
1937年の日中戦争において南京は日本軍の攻勢に晒されていました。蔣介石率いる国民政府は安全な内陸の重慶へ首都機能を移転し、戦略的な防衛と政府継続を図りました。11月20日の遷都宣言は中国政府の抗戦意思を世界に示す重要な決断でした。以後重慶は暫定首都として機能し続け、日本軍の爆撃にも耐えながら政務を遂行しました。遷都は中国の戦時体制を象徴する事件として歴史に刻まれています。
1937年
国民政府
蔣介石政権
1938年
岩波書店が「岩波新書」の刊行を開始。
岩波書店が手頃な価格の新書シリーズ「岩波新書」を刊行し、知的普及を促しました。
岩波書店は1938年11月20日に岩波新書の刊行を開始しました。岩波新書は新書判サイズの文庫本スタイルを採用し、学術や思想を扱う内容を一般読者に提供することを目的としました。手軽な価格設定と幅広いテーマで戦前から戦後にかけて日本の知的土壌を耕しました。その後、数百冊を超えるラインナップが揃い、学術・思想分野の定番シリーズとして定着しました。現在も続く長寿シリーズとして、知的好奇心を刺激し続けています。
1938年
岩波書店
岩波新書