1874年

ドーラ・E・スクーンメーカーが学校法人青山学院の前身である「女子小学校」を創設。

ドーラ・E・スクーンメーカーが青山学院の前身となる女子小学校を創設しました。キリスト教教育を基盤とした日本初の女子教育機関です。
1874年、アメリカ出身の宣教師ドーラ・E・スクーンメーカーは 東京・青山に女子向けの初等教育機関を設立しました。 当時の日本では女子教育の機会が限られていた中で 聖書教育を中心とした教育理念を掲げたこの学校は 後に青山学院へと発展し今日の総合学園の礎となりました。
1874年 ドーラ・E・スクーンメーカー 学校法人青山学院
1876年

東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)開園。日本初の官立幼稚園。

日本初の官立幼稚園として東京女子師範学校附属幼稚園が開園しました。近代日本の幼児教育の先駆けです。
1876年11月16日、東京女子師範学校附属幼稚園が開園しました。 これは日本で最初の官立幼稚園であり それまで私立や寺子屋形式が主流だった幼児教育に 制度的な基盤を築く重要な役割を果たしました。 お茶の水女子大学附属幼稚園として現在まで続く伝統ある教育機関です。
1876年 東京女子師範学校 お茶の水女子大学附属幼稚園 日本初 幼稚園
1908年

東京市立日比谷図書館(千代田区立日比谷図書文化館。2011年に閉館。)の開館式が行われる。

東京市立日比谷図書館の開館式が行われました。市民に開かれた近代的な公共図書館の始まりです。
1908年11月16日、日比谷公園内に東京市立日比谷図書館が開館しました。 大正期の文化振興を背景に建設された図書館は 当時としては珍しい無料公開の公共図書館でした。 近代日本の知識普及と読書文化の発展に寄与し 2011年の閉館まで多くの市民に利用され続けました。
1908年 日比谷図書文化館
1930年

富士瓦斯紡績川崎工場の労働争議で男が40メートルの煙突に昇り演説を行う(煙突男)。6日後に工場側が妥協し、130時間ぶりに地上に降りる。

1930年11月16日、富士瓦斯紡績川崎工場の労働争議で『煙突男』と呼ばれる男が高さ40mの煙突上で演説を行いました。工場側と労働者の交渉の象徴的事件です。
1930年秋、川崎市の富士瓦斯紡績川崎工場で労働条件改善を求めるストライキが発生しました。 争議のさなか、『煙突男』と呼ばれる労働者が高さ約40mの煙突に登り、現場の注目を集めました。 彼は数日にわたり煙突上から演説を続け、労働者の団結と要求の正当性を訴えました。 工場側は対応に苦慮し、交渉を重ねた結果、6日後に妥協案を提示しました。 この結果、煙突男は約130時間ぶりに地上に降り、ストライキは終結しました。 労働運動史において象徴的な支援行動として知られ、後の労働争議にも影響を与えました。 現代でも『煙突男』の逸話は語り継がれています。
1930年 煙突男
1946年

内閣が「現代かなづかい」と「当用漢字表」1850字を告示。

政府が現代かなづかいと1850字の当用漢字表を公布し、文字表記を標準化した。
1946年11月16日、連合国軍総司令部(GHQ)の意向も背景に日本政府は「現代かなづかい」と「当用漢字表」を告示した。 現代かなづかいは旧仮名遣いを改め、教育や出版での統一を図るものだった。 当用漢字表には日常使用を想定した1850字が選定され、公文書や教科書での使用が推奨された。 これにより戦前の複雑な漢字使用が整理され、識字教育の効率化が進められた。 以後の日本語表記改革の基礎となり、現在の常用漢字制度へとつながっている。
1946年 現代かなづかい 当用漢字表
1979年

北九州市病院長殺害事件: 同年11月4日から行方不明になっていた福岡県北九州市小倉北区の病院長(当時61歳)が、大分県の国東半島沖でバラバラ死体となって発見される。

北九州市で行方不明となった病院長の遺体がバラバラ状で発見された衝撃の殺害事件。
1979年11月16日、大分県国東半島沖で小倉北区の病院長(当時61歳)がバラバラ状の遺体で発見された。 被害者は同年11月4日から行方不明となっていた。 遺体は複数の部分に分断されて海上に漂着したものとされる。 動機や犯人像は明らかになっておらず、捜査は難航した。 残忍な手口が地域社会に強い衝撃を与え、以降の安全対策や警察捜査への関心が高まった。
北九州市病院長殺害事件 福岡県 北九州市 小倉北区 大分県 国東半島 バラバラ