ユリウス暦11月5日
火薬陰謀事件。ガイ・フォークスらがイギリス国王ジェームズ1世らの爆殺を企てるも失敗。
1605年、カトリック過激派がイギリス国王暗殺を企てた「火薬陰謀事件」が未遂に終わった出来事。
1605年、イングランドのカトリック教徒グループがジェームズ1世らを排除するためにロンドン議会の爆破を計画しました。
計画はガイ・フォークスをはじめとするメンバーによって秘密裏に進められましたが、直前に発覚して未遂に終わります。
11月5日夜、フォークスが火薬樽を警備中に逮捕され、陰謀は頓挫しました。
この事件は「火薬陰謀事件」として知られ、以降毎年11月5日は「ガイ・フォークス・ナイト」として祭りが行われるようになりました。
宗教対立と政治的緊張を象徴する事件として、以後のイギリス国内政策に大きな影響を与えました。
1605年
ユリウス暦
11月5日
火薬陰謀事件
ガイ・フォークス
イギリス
ジェームズ1世
1777年
大陸会議において13植民地が連合規約を採択。
アメリカ独立戦争期に13植民地が連合規約を採択し、初の連邦的統治体制を確立した歴史的決定。
1777年11月15日、第二次大陸会議において13のアメリカ植民地代表が「連合規約(Articles of Confederation)」を採択しました。
各植民地は主権を維持しつつ、統一的な外交・通商・軍事協力を図る枠組みを構築しました。
しかし連合規約には中央政府の権限が弱いという課題があり、後に1787年の合衆国憲法制定へとつながります。
1791年まで正式運用され、初期アメリカ建国期の政治的実験として重要な役割を果たしました。
国家統一へ向けた第一歩とされ、後の連邦制確立の基礎となりました。
1777年
大陸会議
13植民地
連合規約
1889年
ブラジル帝国でデオドロ・ダ・フォンセカらによる軍事クーデター。ブラジル皇帝ペドロ2世を廃位させ共和制を宣言。
1889年、ブラジル帝国で軍事クーデターが発生し、皇帝ペドロ2世が退位、共和制が宣言された政治的転換点。
1889年11月15日、ブラジル帝国の首都リオデジャネイロでデオドロ・ダ・フォンセカ将軍らが無血の軍事クーデターを実行しました。
皇帝ペドロ2世は退位に追い込まれ、国外追放ののち帝政は終焉を迎えました。
同日にブラジル共和国(第一次共和制)が宣言され、新たな政治体制が誕生しました。
共和国政府は中央集権強化と近代化を掲げ、国家再編と経済発展を目指す政策を推進しました。
この政体転換は南米最大の国における君主制終焉を象徴し、地域全体の政治潮流にも影響を与えました。
1889年
ブラジル帝国
デオドロ・ダ・フォンセカ
ペドロ2世
1920年
ジュネーヴで国際連盟の第1回総会が開催。
1920年、ジュネーブで国際連盟の第1回総会が開催され、国際平和維持の枠組みが始動。
1920年11月15日、スイス・ジュネーヴで国際連盟の第1回総会が開幕しました。
国際連盟は第一次世界大戦後の平和構築を目的に設立され、世界各国の代表が参加しました。
総会では加盟国規約や常設委員会の設置など組織運営の基本方針が策定されました。
労働条件改善や難民保護など人道的課題に対応する機関創設も承認されました。
この会議は多国間協議の先駆けとなり、後の国際連合にも影響を与えた歴史的会合です。
1920年
ジュネーヴ
国際連盟
1935年
マニュエル・ケソンがフィリピン自治領の初代大統領に就任。
1935年、フィリピン自治領の初代大統領にマニュエル・ケソンが就任しました。
1935年11月15日、フィリピン自治領憲法に基づき初代大統領に選出されたマニュエル・ケソンが正式に就任しました。ケソンはアメリカの保護下にあったフィリピンの政治体制を主導し、自治権拡大と国内産業振興を目指しました。彼の指導のもとで教育制度や公共インフラの整備が進み、フィリピンの国家基盤が形成されました。大統領退任後も長年にわたり政治的影響力を保持し、同国の近代政治史に大きな足跡を残しました。
1935年
マニュエル・ケソン
フィリピン自治領
大統領
1945年
ベネズエラが国際連合に加盟。
1945年、ベネズエラが国際連合に加盟しました。
1945年11月15日、ベネズエラ共和国が国際連合に正式加盟しました。設立当初の51加盟国の一つとして参加し、戦後の国際平和と安全保障の維持に貢献を目指しました。ベネズエラは地域の安定や開発支援を訴え、中南米諸国との協調を推進しました。以降、同国は国連総会や安全保障理事会で活発な活動を続け、国際社会への影響力を高めています。
1945年
ベネズエラ
国際連合
1948年
イギリス連邦史上最長の3期22年にわたりカナダ首相を務めたウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングに代わり、ルイ・サンローランが就任。
1948年、カナダ首相にルイ・サンローランが就任しました。
1948年11月15日、イギリス連邦史上最長となる3期22年にわたり首相を務めたウィリアム・ライアン・マッケンジー・キングの後任としてルイ・サンローランがカナダ首相に就任しました。サンローランは法学者出身で、キング政権の政策を継承しつつ社会福祉や教育制度の拡充に取り組みました。第二次世界大戦後の復興期における国内経済の安定化や国際協力政策を推進し、カナダの政治的地位を強化しました。その後サンローランは1957年まで首相を務め、国内外で影響力を保持しました。
1948年
イギリス連邦
カナダ首相
ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング
ルイ・サンローラン
1955年
自由党と日本民主党が合併し、自由民主党が誕生。(保守合同)
1955年、自由党と日本民主党が合併し自由民主党が結成されました。
1955年11月15日、保守合同と呼ばれる政治再編により自由党と日本民主党が合併し、新党として自由民主党(自民党)が誕生しました。この合併は戦後日本政治における保守勢力の統一を図ったもので、以降の自民党は長期政権を支える基盤となりました。党結成初期には政策調整や組織統合が進められ、党内には異なる路線の派閥が形成されましたが、安定した政権運営を実現しました。自民党は以後、日本の戦後政治史を象徴する与党としての地位を確立しました。
1955年
自由党
日本民主党
自由民主党
保守合同
1959年
ドイツ社会民主党がゴーデスベルク綱領を採択。
1959年、ドイツ社会民主党が従来のマルクス主義からの転換を掲げたゴーデスベルク綱領を採択。
1959年11月15日、ドイツ社会民主党(SPD)は党大会において、歴史的なゴーデスベルク綱領を採択しました。
この綱領では従来のマルクス主義から距離を置き、市場経済を容認しつつ福祉国家を維持する中道的社会民主主義への転換を明確化。
SPDは新たな政策基盤を築くことで、中道右派や労働組合の支持拡大を図りました。
ゴーデスベルク綱領は後のSPDの政権復帰を可能にし、欧州社会民主主義運動全体に影響を与えました。
現在もドイツ政界における社会民主主義の基本路線として高く評価されています。
1959年
ドイツ社会民主党
ゴーデスベルク綱領
1970年
沖縄で復帰に向けた国政参加選挙の投票が行われる。
1970年、沖縄で復帰に向けた国政参加選挙が実施される。
1970年11月15日、沖縄県で日本復帰前の暫定措置として国政参加選挙(衆院予備選)の投票が行われました。
これは米国統治下の沖縄が日本への復帰プロセスに参加するための重要なステップ。
選挙権を得た住民は地域選出の代表を通じて議会に意見を反映。
この結果は1972年の本土復帰協定締結へ向けた政治的交渉に影響を与えました。
復帰後、沖縄は正式に日本の国政選挙に組み込まれ、地域の政治参加が大きく進展しました。
1970年
国政参加選挙
1975年
第1回先進国首脳会議(サミット)がフランスのランブイエで開催。11月17日まで。
1975年、第1回先進国首脳会議(サミット)がフランス・ランブイエで開催。
1975年11月15日から17日まで、石油危機後の経済問題を協議する第1回先進国首脳会議(通称サミット)がフランス・ランブイエで開催されました。
参加国はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、日本、カナダの7か国。
当初の目的はエネルギー政策や経済協力の強化で、議長国フランスの提唱によるもの。
サミットは恒常的な国際協議の枠組みとして評価され、その後毎年開催されるようになりました。
現在のG7サミットの原型として、国際経済政策協調の場を定着させました。
1975年
第1回先進国首脳会議
フランス
ランブイエ
11月17日
1977年
新潟市で横田めぐみが下校途中に北朝鮮の工作員に拉致される。
1977年、新潟市で中学生の横田めぐみさんが北朝鮮の工作員に拉致される。
1977年11月15日午後、新潟市で当時13歳の横田めぐみさんが下校途中に北朝鮮の工作員に拉致されました。
被害はその後の日本と北朝鮮間の外交問題に発展し、政府は北朝鮮による拉致問題として公式認定。
家族や支援者は解決を求め続け、国内外で大きな関心を呼びました。
拉致事件は未解決のまま長年にわたり日朝関係の最大の懸案事項となっています。
現在も横田さんの帰還を願う活動が続けられ、社会的な記憶として語り継がれています。
1977年
横田めぐみ
北朝鮮
拉致