1533年

フランシスコ・ピサロの一行がインカ帝国の首都クスコに入城。

1533年、ピサロ率いるスペイン遠征隊がインカ帝国の中心地クスコへ入城し、帝国支配の主導権を握った歴史的瞬間。
1533年11月15日、スペインの征服者フランシスコ・ピサロ率いる遠征隊が南米アンデスの中心、インカ帝国の首都クスコに入城しました。 当時、指導者アタワルパの処刑直後で、帝国は激しい混乱と衰退の途上にありました。 ピサロは少数の兵力で都市を掌握し、金銀財宝を略奪して勢力を拡大しました。 クスコ陥落はインカ帝国崩壊の決定的瞬間となり、スペインによる植民地支配が本格化しました。 以後、ピサロは新たな拠点リマを建設し、南米征服の歴史を大きく塗り替えました。
1533年 フランシスコ・ピサロ インカ帝国 クスコ
ユリウス暦11月5日

火薬陰謀事件。ガイ・フォークスらがイギリス国王ジェームズ1世らの爆殺を企てるも失敗。

1605年、カトリック過激派がイギリス国王暗殺を企てた「火薬陰謀事件」が未遂に終わった出来事。
1605年、イングランドのカトリック教徒グループがジェームズ1世らを排除するためにロンドン議会の爆破を計画しました。 計画はガイ・フォークスをはじめとするメンバーによって秘密裏に進められましたが、直前に発覚して未遂に終わります。 11月5日夜、フォークスが火薬樽を警備中に逮捕され、陰謀は頓挫しました。 この事件は「火薬陰謀事件」として知られ、以降毎年11月5日は「ガイ・フォークス・ナイト」として祭りが行われるようになりました。 宗教対立と政治的緊張を象徴する事件として、以後のイギリス国内政策に大きな影響を与えました。
1605年 ユリウス暦 11月5日 火薬陰謀事件 ガイ・フォークス イギリス ジェームズ1世
1777年

大陸会議において13植民地が連合規約を採択。

アメリカ独立戦争期に13植民地が連合規約を採択し、初の連邦的統治体制を確立した歴史的決定。
1777年11月15日、第二次大陸会議において13のアメリカ植民地代表が「連合規約(Articles of Confederation)」を採択しました。 各植民地は主権を維持しつつ、統一的な外交・通商・軍事協力を図る枠組みを構築しました。 しかし連合規約には中央政府の権限が弱いという課題があり、後に1787年の合衆国憲法制定へとつながります。 1791年まで正式運用され、初期アメリカ建国期の政治的実験として重要な役割を果たしました。 国家統一へ向けた第一歩とされ、後の連邦制確立の基礎となりました。
1777年 大陸会議 13植民地 連合規約
1864年

南北戦争: 北軍のウィリアム・シャーマン将軍が海への進軍を開始。

南北戦争中、シャーマン将軍がジョージア州を横断して海岸を目指す焦土作戦を展開した重要な軍事行動。
1864年11月15日、アメリカ南北戦争において北軍のウィリアム・シャーマン将軍がアトランタ攻略後、ジョージア州を東方へ横断する「海への行軍(March to the Sea)」を開始しました。 この作戦は敵の補給路や物資を徹底的に破壊する焦土戦術を伴い、南軍の戦意を著しく低下させました。 シャーマン軍は鉄道橋や倉庫を破壊し、民間施設にもダメージを与えて南部経済を混乱させました。 数週間にわたる行軍の末、12月にはサバンナの海岸に到達し、連邦軍の勝利を確実なものとしました。 その戦略は戦争終結への決定的な一手と評価され、軍事史上の教科書的作戦として知られています。
1864年 南北戦争 ウィリアム・シャーマン 海への進軍

1874年 ‐ 犬吠埼灯台竣工。

1874年、日本房総半島の犬吠埼に洋式灯台が竣工し、太平洋航路の安全確保に大きく寄与。
1874年11月15日、房総半島最東端の犬吠埼に「犬吠埼灯台」が竣工しました。 これは日本政府が近代海上交通の安全確保を目的に建設した洋式灯台の一つです。 設計には外国人技師の技術が導入され、頑丈な石造りの六角形塔として築かれました。 竣工後は太平洋航路を行き交う船舶の安全航行に大きく寄与し、地域経済にも貢献しました。 現在も現役で稼働し、歴史的建造物として多くの観光客を集めています。
1874年 犬吠埼灯台
1889年

ブラジル帝国でデオドロ・ダ・フォンセカらによる軍事クーデター。ブラジル皇帝ペドロ2世を廃位させ共和制を宣言。

1889年、ブラジル帝国で軍事クーデターが発生し、皇帝ペドロ2世が退位、共和制が宣言された政治的転換点。
1889年11月15日、ブラジル帝国の首都リオデジャネイロでデオドロ・ダ・フォンセカ将軍らが無血の軍事クーデターを実行しました。 皇帝ペドロ2世は退位に追い込まれ、国外追放ののち帝政は終焉を迎えました。 同日にブラジル共和国(第一次共和制)が宣言され、新たな政治体制が誕生しました。 共和国政府は中央集権強化と近代化を掲げ、国家再編と経済発展を目指す政策を推進しました。 この政体転換は南米最大の国における君主制終焉を象徴し、地域全体の政治潮流にも影響を与えました。
1889年 ブラジル帝国 デオドロ・ダ・フォンセカ ペドロ2世
1903年

『萬朝報』を退社した幸徳秋水らが設立した平民社が『平民新聞』を発刊。

幸徳秋水らが設立した平民社が『平民新聞』を創刊し、社会主義・平等思想を民衆に発信。
1903年11月15日、思想家の幸徳秋水や植木枝盛らが「平民社」を設立しました。 同社は同日に機関紙『平民新聞』を発刊し、社会主義や民主主義、平等思想を広く民衆へ伝えることを目的としました。 彼らは日露戦争への反戦運動や労働者権利の擁護を訴え、既存政党や政府との対立を深めました。 発行部数は徐々に増加し、全国の知識人や労働者層から支持を集めました。 言論統制や警察弾圧を受けながらも、日本の社会運動とメディアの関係を考える上で重要な役割を果たしました。
1903年 萬朝報 幸徳秋水 平民社
1911年

東京市が芝と浅草に職業紹介所を開設。日本初の公共職業紹介所。

1911年、東京市が芝と浅草に日本初の公共職業紹介所を開設し、雇用支援を開始。
1911年11月15日、東京市は芝と浅草に公共職業紹介所を開設しました。 これは日本で初めての公的機関による職業斡旋施設で、失業対策や労働市場調整を目的として設立されました。 当初は製造業や建設業を中心に求人情報の提供や求職者への就職援助を行いました。 民間斡旋業の高額手数料への対抗策として市民の経済的負担軽減にも寄与しました。 この先駆的試みは後の雇用保険制度やハローワークの原型となり、日本の雇用支援史における重要な一歩となりました。
1911年 東京市 公共職業紹介所
1920年

ジュネーヴで国際連盟の第1回総会が開催。

1920年、ジュネーブで国際連盟の第1回総会が開催され、国際平和維持の枠組みが始動。
1920年11月15日、スイス・ジュネーヴで国際連盟の第1回総会が開幕しました。 国際連盟は第一次世界大戦後の平和構築を目的に設立され、世界各国の代表が参加しました。 総会では加盟国規約や常設委員会の設置など組織運営の基本方針が策定されました。 労働条件改善や難民保護など人道的課題に対応する機関創設も承認されました。 この会議は多国間協議の先駆けとなり、後の国際連合にも影響を与えた歴史的会合です。
1920年 ジュネーヴ 国際連盟
1923年

ドイツでハイパーインフレからの経済立て直しのため、臨時通貨レンテンマルクを発行。

1923年、ドイツでハイパーインフレ収束を図り、暫定通貨レンテンマルクを発行。
1923年11月15日、第一次世界大戦後の極度のインフレーションに対応するため、ドイツ政府はレンテンマルクを発行しました。 レンテンマルクは不動産や工業資産を担保とした暫定通貨で、旧紙幣の信用回復を狙いとしました。 新通貨導入により急激な物価上昇が抑制され、市場に一定の安定をもたらしました。 同年末には乱高下が収まり、ワイマール共和国経済の混乱からの脱却に寄与しました。 この改革は後のドイツ復興と信認回復の基盤を築いた重要な政策と評価されています。
1923年 ドイツ ハイパーインフレ レンテンマルク
1926年

アメリカのラジオ放送ネットワークNBCで最初のラジオが放送される。

1926年、アメリカのNBCで初めてラジオ放送が開始されました。
1926年11月15日、アメリカのナショナル・ブロードキャスティング・カンパニー(NBC)で史上初のラジオ番組が放送されました。放送内容はニュースや音楽など多彩なプログラムで、後のラジオ文化の礎となりました。NBCはこの放送を皮切りに全国ネットワークを構築し、アメリカの家庭に生中継の情報娯楽を届ける存在へと成長しました。その後のラジオ産業や放送技術の発展に大きな影響を与えました。当日は限られた地域で試験放送の形で開始されました。
1926年 NBC
1935年

マニュエル・ケソンがフィリピン自治領の初代大統領に就任。

1935年、フィリピン自治領の初代大統領にマニュエル・ケソンが就任しました。
1935年11月15日、フィリピン自治領憲法に基づき初代大統領に選出されたマニュエル・ケソンが正式に就任しました。ケソンはアメリカの保護下にあったフィリピンの政治体制を主導し、自治権拡大と国内産業振興を目指しました。彼の指導のもとで教育制度や公共インフラの整備が進み、フィリピンの国家基盤が形成されました。大統領退任後も長年にわたり政治的影響力を保持し、同国の近代政治史に大きな足跡を残しました。
1935年 マニュエル・ケソン フィリピン自治領 大統領