1305年

クレメンス5世がフランスのリヨンにあるサン=ジュスト教会(現存せず)にて戴冠された。教皇への選出、就任は1305年6月5日。

フランス人初の教皇クレメンス5世がリヨンで戴冠。 アヴィニョン捕囚の契機となった重要な儀式です。
1305年6月5日に教皇に選出されたクレメンス5世は、同年11月14日にフランスのリヨン、サン=ジュスト教会にて正式に戴冠しました。 史上初のフランス人教皇であり、教皇庁がローマを離れる前触れとなった出来事です。 戴冠式がローマ以外の地で執り行われたのは異例で、教会とフランス王フィリップ4世との緊密な関係を示しています。 1309年には教皇庁をアヴィニョンに移し、約70年続いたアヴィニョン捕囚のきっかけとなりました。 この期間は教会の権威や西ヨーロッパ政治に大きな影響を与え、後の教会大分裂へとつながっていきました。
1305年 クレメンス5世 フランス リヨン 1305年 6月5日
元禄3年10月14日

水戸藩の徳川光圀が隠居。

水戸藩主・徳川光圀が隠居し、藩政を次代に譲った。 「水戸黄門」として知られる名君の政治手腕は江戸時代に影響を残しました。
1690年(元禄3年10月14日)、徳川光圀は29年間の藩主在職を終え隠居を表明しました。 徳川御三家の一つ・水戸徳川家二代目藩主として、藩政改革と学問振興に尽力しました。 特に領民救済や教育機関の整備を進め、のちの公武合体運動にも影響を与えました。 隠居後は弟の綱條に家督を譲りつつも、『大日本史』編纂を推進し歴史学の発展に寄与しました。 光圀の治世と隠居後の業績は、水戸学として後世に継承されました。
1690年 元禄 10月14日 水戸藩 徳川光圀
1860年

清とロシア帝国が北京条約に調印。

清朝とロシア帝国が北京条約を締結し、国境線と領土割譲を合意。 第二次アヘン戦争後の列強介入を象徴する条約です。
1860年11月14日、清朝とロシア帝国は北京条約に調印し、イリ川以北をロシアへ割譲する条項で合意しました。 この条約は第二次アヘン戦争中の欧米列強の圧力を背景に締結され、清朝の主権を大きく侵害しました。 ロシアは南下政策を強化し、ウラジオストクや沿海州地域を拡大しました。 条約の即時発効は清朝の弱体化を一層促進し、東アジアの勢力均衡を大きく変動させました。 後の対露関係や中国国内の改革運動にも長期的な影響を及ぼしました。
1860年 ロシア帝国 北京条約
1897年

ドイツ軍が山東半島南西岸の膠州湾を占領(膠州湾租借地)。

ドイツ帝国が山東半島・膠州湾を占領し租借地化。 清朝の弱体化に乗じた列強の植民地拡大例です。
1897年11月14日、ドイツ軍は山東半島南西岸の膠州湾を占領し租借地権を確立しました。 清朝は列強の圧力に抗しきれず、ドイツは軍事力を背景に有利な条件を押し付けました。 膠州湾租借地はドイツの軍港や鉄道建設の拠点となり、中国北部への侵出を図る戦略拠点となりました。 この動きは他の列強による中国分割支配を助長し、後の八カ国連合軍介入への口実ともなりました。 地域住民の抵抗や排外運動の契機を生み、清末の革命運動に影響を与えました。
1897年 山東半島 膠州湾 膠州湾租借地
1918年

チェコスロバキアの革命国民議会で共和国宣言。

1918年11月14日、革命国民議会がチェコスロバキア共和国の独立と成立を公式に宣言しました。
1918年11月14日、ウィーンを中心としたハプスブルク帝国の崩壊を受け、プラハの革命国民議会でチェコスロバキア共和国が正式に宣言されました。 初代大統領にはトマーシュ・マサリクが就任し、西欧諸国からの承認を得て新国家が成立しました。 共和国宣言は多民族国家としての連帯を掲げ、憲法制定会議へとつながる歩みを始めました。 チェコからはチェコ人、スロバキアからはスロバキア人の代表が議会に参加し、共存を図りました。 この宣言は第一次世界大戦後のヨーロッパ再編の一環として注目されました。
1918年 チェコスロバキア
1930年

濱口雄幸首相が東京駅で右翼青年佐郷屋留雄に狙撃され重傷。

1930年11月14日、濱口雄幸内閣総理大臣が東京駅構内で右翼青年に狙撃され重傷を負いました。
1930年11月14日、首相濱口雄幸が東京駅構内で右翼団体・国粋主義者の佐郷屋留雄に狙撃され、胸部に重傷を負いました。 事件後、濱口は長期間治療と静養を余儀なくされ、政治活動にも大きな影響を与えました。 加害者の佐郷屋は国家考証を主張し、政治的混乱期の過激主義の表れとされました。 濱口は翌年まで公務復帰を果たせず、その後も体調不良と闘いながら政権を維持しました。 この事件は日本の政治史におけるテロリズムの一例となり、治安対策強化の契機となりました。
1930年 濱口雄幸 東京駅 佐郷屋留雄
1951年

天野貞祐文相が、教育勅語に代わる国民道徳の基本として国民実践要領大綱を発表。言論界や教育界から猛反発を受け27日に撤回。

1951年11月14日、文部大臣の天野貞祐が教育勅語に代わる国民道徳の基本指針を発表しました。
1951年11月14日、文部大臣の天野貞祐が戦前の教育勅語に代わる国民道徳の基本指針として「国民実践要領大綱」を発表しました。 この大綱は民主的道徳観の醸成を目指すものでしたが、学者や教育関係者から「旧体制への回帰」「思想統制」と批判されました。 報道や論説が連日反発を報じ、教育界の混乱が深刻化しました。 批判の高まりを受けて天野は11月27日に大綱を撤回し、政策は宙に浮いた形となりました。 この出来事は戦後日本の教育政策が歩むべき方向性を巡る議論を喚起しました。
1951年 天野貞祐 教育勅語
1968年

皇居新宮殿が落成。

東京・皇居に新宮殿が完成し、天皇の公的儀式の場が整備されました。
1968年11月14日、戦後の皇居再整備計画の一環として新宮殿(現在の宮殿)が落成しました。 設計は前宮殿の面影を継承しつつも、耐震構造や近代設備を取り入れた建築様式が特徴です。 即位や大嘗祭などの重要儀式が行われる場として、国の象徴的建造物に位置づけられています。 この完成により、天皇の公務執行環境が大きく改善されました。 現在も皇室行事の中心施設として使用されています。
1968年 皇居
1970年

ソビエト連邦が国際民間航空機関 (ICAO) に加盟。ロシア語がICAOの第4の公用語になる。

ソ連がICAOに加盟し、ロシア語が同機関の公用語に追加されました。
1970年11月14日、国際民間航空機関(ICAO)はソビエト連邦の正式加盟を承認しました。 これにより、ロシア語が英語・フランス語・スペイン語に続く第4の公用語として採用されました。 ICAOの公用語拡大は加盟国の多様性を反映するとともに、航空安全と国際交流の促進に寄与しました。 ソ連の加盟は冷戦期における国際機関での協調の象徴的出来事ともされています。
1970年 ソビエト連邦 国際民間航空機関 ロシア語 公用語
1989年

前年7月の潜水艦なだしお衝突事故で、なだしおの艦長が衝突時の航海日誌の改竄をしていたことが判明。

潜水艦なだしお衝突事故に関連し、艦長による航海日誌改竄が明るみに出ました。
1989年11月14日、前年7月に発生した潜水艦なだしお衝突事故で、同艦艦長が航海日誌を改竄していたことが発覚しました。 事故発生当初は衝突の詳細が不明とされていましたが、調査の過程で日誌の記録が書き換えられていたことが明らかになりました。 この事実は海上自衛隊内外で大きな波紋を呼び、軍の情報管理と責任問題が問われました。 防衛庁は調査委員会を設置し、関係者への処分と再発防止策を講じることとなりました。 この事件は自衛隊の透明性確保と信頼回復の必要性を浮き彫りにしました。
1989年 潜水艦なだしお衝突事故 なだしお
1990年

ドイツ・ポーランド両国が、オーデル・ナイセ線が両国の国境であることを確認するドイツ・ポーランド国境条約に調印。

ドイツとポーランドがオーデル・ナイセ線を正式国境とする条約に調印し、戦後処理に区切りをつけました。
1990年11月14日、ドイツ連邦共和国とポーランド共和国がオーデル・ナイセ線を両国の正式な国境とする国境条約に署名しました。 この条約により、第二次世界大戦後の領土問題に終止符が打たれ、国境線の最終的な確定が図られました。 西ドイツと東ドイツの合併前に結ばれたこの条約は、ヨーロッパ統合と東欧の安定に寄与しました。 条約締結を受け、両国間の経済協力や文化交流が一層促進されました。 現在でもオーデル・ナイセ線はEU域内の移動と連帯を象徴する歴史的境界として位置づけられています。
1990年 ドイツ ポーランド オーデル・ナイセ線 ドイツ・ポーランド国境条約
1991年

カンボジアのノロドム・シハヌーク元国王が13年間の亡命を終え首都プノンペンに戻る。

ノロドム・シハヌーク元国王が13年ぶりに亡命から帰国し、カンボジアの和平プロセスが新たな段階へ進みました。
1991年11月14日、カンボジアのノロドム・シハヌーク元国王が13年におよぶ亡命生活を終え、首都プノンペンに帰還しました。 シハヌーク氏は1970年のクーデター以降、中国や北朝鮮などを転々としながら政治活動を続けていました。 帰国は複数の和平協議と国連監視下での選挙準備を経て実現し、カンボジア和平プロセスの重要な節目となりました。 首都到着時には多くの市民が出迎え、シハヌーク支持派の再結集が期待されました。 彼の帰国後は王制を重視する立場から国政に影響を与え、カンボジアの再建に向けた歩みが加速しました。
1991年 カンボジア ノロドム・シハヌーク 亡命 プノンペン