1028年

東ローマ皇帝コンスタンティノス8世の娘ゾエが元老院議員ロマノスと結婚。3日後にコンスタンティノス8世が死去し、ロマノスが即位。

東ローマ帝国で皇位継承を巡る重要な結婚と即位が行われた日。
1028年11月12日、東ローマ皇帝コンスタンティノス8世の娘ゾエが元老院議員ロマノスと結婚しました。 結婚からわずか3日後に父帝が死去し、ロマノスがロマノス3世として帝位を継承。 この一連の出来事は、皇帝後継問題を解決するとともに、新たな専制政治の幕開けを示しました。 ゾエは後に姉テオドラとともに共治を行い、宮廷内の権力構図に大きな影響を与えました。 ロマノス3世の即位は、元老院と宮廷の力関係を再編し、帝国の統治構造に変化をもたらしました。
1028年 東ローマ皇帝 コンスタンティノス8世 ゾエ ロマノス
1793年

フランス革命: パリ・コミューン初代市長ジャン=シルヴァン・バイイが処刑。

パリ・コミューンの初代市長がギロチンにかけられた事件。
1793年11月12日、フランス革命期に初代パリ市長となったジャン=シルヴァン・バイイが反革命容疑で処刑されました。 バイイは1789年のバスティーユ襲撃後に市長に就任し、穏健派として王政廃止を目指す勢力との調整を試みていました。 しかし、急進派ジャコバン派の台頭と権力闘争の激化により政治的地位を失い、最終的に反逆罪で断頭台へ。 彼の処刑は、革命の過激化と恐怖政治の象徴的な出来事として歴史に刻まれています。
1793年 フランス革命 パリ・コミューン ジャン=シルヴァン・バイイ
1893年

イギリス領インド帝国とアフガニスタンがデュアランド・ライン条約に調印。

英領インドとアフガニスタンが国境線を画定する条約に調印。
1893年11月12日、イギリス領インド帝国とアフガニスタンがデュアランド・ライン条約に調印しました。 この条約は、英領インドの外務事務次官モーティマー・デュアランドとアブドゥル・ラフマーン・ハーン参差相との間で締結。 現在のパキスタンとアフガニスタン国境の大部分を定めるもので、境界線は「デュアランド・ライン」として知られます。 境界の画定は現地部族の意向を十分に反映せず、後の地域紛争の要因ともなりました。 今日でもアフガニスタン政府はこの国境線を承認しておらず、国際的な摩擦を残しています。
1893年 イギリス領インド帝国 アフガニスタン デュアランド・ライン
1918年

オーストリア第一共和国が発足。

ハプスブルク帝国崩壊後にオーストリア第一共和国が成立した日。
1918年11月12日、第一次世界大戦終結とともにハプスブルク帝国が崩壊し、オーストリア第一共和国が発足しました。 ウィーンでカルル・レーナーを中心とする臨時国民議会が共和国樹立を宣言。 これにより長く続いた帝政が終焉を迎え、近代的な民主主義国家への転換が図られました。 新共和国は食糧不足や経済混乱に直面し、周辺地域の独立運動との調整を迫られました。 その後の条約交渉で領土が大幅に縮小され、現代オーストリアの基礎が形成されました。
1918年 オーストリア第一共和国
1920年

イタリア王国とセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(ユーゴスラビア)の間でラパッロ条約が締結。

戦後の領土問題を解決するためのイタリアとユーゴスラビア間の条約締結。
1920年11月12日、イタリア王国とセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア)がラパッロ条約に調印。 両国間の国境線やマンドリーノ諸島の帰属などを規定し、戦後の混乱を収束させる狙いがありました。 条約はイタリアに有利な領土割譲を含み、ユーゴスラビア側の一部不満を残しました。 この取り決めは後の地域緊張にも影響を与え、バルカン半島の政治地図に重要な役割を果たしました。 ヨーロッパの戦後秩序構築の一環として国際法的意義も大きいです。
1920年 イタリア王国 ユーゴスラビア ラパッロ条約
1921年

ワシントン会議が始まる。

太平洋地域の軍縮と安全保障を協議する国際会議が開幕。
1921年11月12日、アメリカ合衆国主催によるワシントン会議(海軍軍縮会議)が開幕しました。 米英日仏伊の主要5か国が参加し、太平洋地域の軍備制限と勢力均衡を協議。 会議では四国条約、海軍軍縮条約、九カ国条約などが採択され、国際秩序構築に寄与。 第一次世界大戦後の軍拡競争を抑制し、平和維持を目指す初の多国間交渉として注目されました。 この枠組みは1922年まで続き、後の国際連盟や国際政治の先駆けともなりました。
1921年 ワシントン会議
1933年

ドイツで国会選挙。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のみが出馬し、全議席を占める。

ナチ党だけが立候補し全議席を独占した操作的選挙。
1933年11月12日、ドイツで開催された国会選挙では国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のみが候補を擁立。 実質的に一党独裁体制を強化するための演出的選挙で、他党は参加を許されませんでした。 公式発表ではナチ党が約90%の票を獲得し、全議席を占めたとされています。 この選挙はヒトラー政権による民主主義の完全破壊と独裁体制確立を象徴する出来事です。 以降、ドイツは合法的な手続きを欠いた政権運営へと転換しました。
国会選挙 国家社会主義ドイツ労働者党
1944年

新疆ウイグル自治区、北部のイリで(第二次)東トルキスタン共和国独立宣言。

新疆北部のイリ地域で東トルキスタン共和国が独立を宣言した。
1944年11月12日、中国国民党の統制から離脱を図るウイグル民族を中心とした勢力がイリ地域で第二次東トルキスタン共和国の独立を宣言しました。 この共和国はソビエト連邦の支援を受けて成立し、漢民族支配に対する反発が背景にありました。 短期間で独自の政府機構を樹立しましたが、1949年に中国人民解放軍が進攻し、共和国は崩壊しました。 この出来事は新疆地域の政治的緊張の一端を示し、現在に至るまで民族問題の火種として語り継がれています。
1944年 新疆ウイグル自治区 東トルキスタン共和国
1948年

極東国際軍事裁判で、25人の戦犯に対し東條英機ら7人の絞首刑を含む有罪判決。

東京裁判で25名の戦犯に有罪判決が下され、東條英機ら7名が絞首刑を宣告された。
1948年11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決公判が行われ、A級戦犯25名に対して有罪判決が言い渡されました。 その中で元首相・東條英機を含む7名には絞首刑、16名には懲役刑が科され、12月23日に処刑が執行されました。 この裁判は戦後の国際法・戦争犯罪の歴史において重要な節目とされ、日本国内外で賛否両論を呼びました。 裁判の遺産は後の国際刑事司法制度の発展にも影響を与えています。
1948年 極東国際軍事裁判 東條英機 絞首刑
1955年

ドイツ連邦軍発足により西ドイツの再軍備が始まる。

西ドイツがドイツ連邦軍を発足し、第二次世界大戦後初めて正式に再軍備を開始した。
1955年11月12日、連合国占領下にあった西ドイツ(ドイツ連邦共和国)がドイツ連邦軍(ブンデスヴェーア)を正式に発足させた。 この発足により、西ドイツはNATOに加盟し、冷戦下における西側陣営の防衛力強化に寄与した。 国内では再軍備をめぐり賛否両論が巻き起こり、アデナウアー首相は主権回復と安全保障の必要性を訴えた。 再軍備はヨーロッパの軍事情勢再編を促し、東西対立を象徴する歴史的転換点となった。 以後、ブンデスヴェーアは西ドイツの防衛の中核を担う組織として発展していった。
1955年 ドイツ連邦軍 西ドイツ 再軍備
1956年

モロッコ・スーダン・チュニジアが国連に加盟。

モロッコ、スーダン、チュニジアが同時に国連加盟を果たした出来事。
1956年11月12日、アフリカのモロッコ、スーダン、チュニジアの3か国が同日に国際連合に加盟した。 これにより、植民地支配からの独立を果たした新興国家が国際社会に正式参加し、国連での発言権を獲得した。 モロッコはフランス、チュニジアはフランス、スーダンはイギリスとエジプトから独立後まもなく加盟している。 これらの加盟はアフリカ独立運動の象徴とされ、冷戦期における国際勢力均衡にも影響を与えた。 現在でもこれらの国々は国連の場で活発に活動を続けている。
1956年 モロッコ スーダン チュニジア 国連
1964年

アメリカ海軍の原子力潜水艦「シードラゴン」が佐世保に初寄港。

アメリカ海軍の原子力潜水艦シードラゴンが日本の佐世保基地に初寄港した。
1964年11月12日、米海軍の原子力潜水艦USSシードラゴン(SSN-584)が長崎県佐世保市の基地に初寄港した。 日本の港に核動力艦が入港するのは戦後初の事例で、日米安全保障条約下での同盟強化を象徴した。 佐世保港では歓迎式典が行われ、日本側関係者と米艦乗組員の交流が行われた。 国内では核潜水艦の寄港に対する是非を問う論争が起き、市民の関心を集めた。 冷戦期の東アジアにおける米軍戦略の一端を示す重要なイベントである。
1964年 アメリカ海軍 シードラゴン