1215年

第4ラテラン公会議が始まる。

1215年11月11日、第4ラテラン公会議がローマで開幕。 教皇インノケンティウス3世が主導し、教会改革や異端対策が議題となった。
第4ラテラン公会議はカトリック教会の歴史において重要な全世界司教会議です。 教皇インノケンティウス3世が開催を宣言し、教義の統一や免罪符の販売規制、異端の取締りなどが審議されました。 会議では聖体拝領の定式化や十字軍の計画も話し合われ、教会権威の強化を図りました。 この会議は中世ヨーロッパの宗教・社会に大きな影響を与え、教会の制度改革を推進する契機となりました。 最終的に第1回から第5回ラテラン公会議に続く一連の会議の中で、最も多くの決議を取りまとめました。
1215年 第4ラテラン公会議
1572年

ティコ・ブラーエがカシオペヤ座の超新星SN 1572(ティコの星)を発見。

1572年11月11日、天文学者ティコ・ブラーエがカシオペヤ座の超新星SN 1572を観測し、新天体の出現を記録した。 後に“ティコの星”と呼ばれ、当時の天文学に大きな衝撃を与えた。
ティコ・ブラーエは1572年11月11日、肉眼で見える新天体を発見し、その詳細な位置と明るさを記録した。 当時、天空は不変と考えられていたため、“新しく”星が現れたことは天動説に大きな疑問を投げかけた。 この観測はコペルニクスの地動説の支持を強める契機の一つとなり、近代天文学の発展に寄与した。 SN1572は超新星爆発であり、その正体は後にIa型超新星であることが示された。 ティコの詳細な観測データは以後の天文学者による軌道計算や宇宙論の研究に活用された。 その観測成果はデンマーク王の庇護のもとで出版され、ヨーロッパ全土に大きな反響を呼んだ。
1572年 ティコ・ブラーエ カシオペヤ座 超新星 SN 1572
1790年

神聖ローマ帝国皇帝レオポルト2世戴冠式。

1790年11月11日、レオポルト2世が神聖ローマ皇帝として戴冠されました。 ハプスブルク家による治世の一環です。
レオポルト2世はマリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世の死去を受けて即位し、皇帝となった。 戴冠式はフランツィスカーナ大聖堂で執り行われ、宮廷儀礼が華麗に展開された。 彼は啓蒙専制君主として知られ、宗教寛容や司法改革などを推進した。 しかし、改革は反動を招くこともあり、国内外で複雑な政情を生んだ。 在位は短期間に終わったが、近代化政策への試みは後のオーストリア帝国に影響を及ぼした。
1790年 神聖ローマ帝国皇帝 レオポルト2世
1811年

ヌエバ・グラナダのカルタヘナ・デ・インディアスがスペインからの独立を宣言。

1811年11月11日、ヌエバ・グラナダ領カルタヘナ・デ・インディアスがスペインからの独立を宣言しました。 南米独立運動の先駆けとなった歴史的事件です。
カルタヘナ・デ・インディアスは当時スペイン帝国の植民地政府に対し反乱を起こし、独立宣言を採択した。 この動きは南米各地に広がる独立運動の重要な拠点となり、“カルタヘナ宣言”として知られる。 反乱軍は財政自治の獲得と自由貿易の実現を目指し、スペイン軍との武力衝突も発生した。 最終的に独立は維持され、1821年には大コロンビア共和国の一部となった。 この宣言は南米における自由と主権を求める動きに大きな影響を与えた。
1811年 ヌエバ・グラナダ カルタヘナ・デ・インディアス スペイン
1813年

米英戦争: クライスラー農園の戦い。

1813年11月11日、米英戦争中のクライスラー農園の戦いが行われました。 カナダへのイギリス防衛線を破る北軍の進撃を食い止めた戦闘です。
クライスラー農園の戦いはオンタリオ州近郊で発生し、アメリカ陸軍とイギリス・カナダ軍が激突した。 北軍は国境を越え進撃を試みたが、イギリス軍の巧妙な防御陣地に阻まれ壊滅的打撃を受けた。 戦力差を補うため現地民兵や郷土騎兵隊が重要な役割を果たした。 この戦いは戦局に大きな影響を与え、北軍の侵攻計画を頓挫させる結果となった。 最終的に米英戦争は膠着状態で終結し、戦前の国境線が維持された。
1813年 米英戦争 クライスラー農園の戦い
安政2年10月2日

安政江戸地震。

1855年11月11日(安政2年10月2日)、江戸を襲った大地震が発生し、多数の建物倒壊と火災を引き起こしました。 幕末の混乱期に大きな被害を与えた災害です。
安政江戸地震は推定マグニチュード7強の首都直下型地震とされ、震度は最大で6弱以上と推定される。 江戸市中では多くの家屋や寺社が倒壊し、延焼による火災が街を焼き尽くした。 死者・行方不明者は約6千人に上り、幕府は復興のため大規模な復旧工事と救援活動を行った。 この地震は幕藩体制下での災害対策の限界を露呈し、後の防災制度改革に繋がった。 記録として残された浮世絵や報告書は、当時の被害状況を後世に伝えている。
1855年 安政 10月2日 安政江戸地震
1881年

日本初の私鉄・日本鉄道に設立特許条約書が下付される。

1881年11月11日、日本初の私鉄・日本鉄道に設立特許条約書が下付されました。 民間資本による鉄道建設の幕開けとなった出来事です。
日本鉄道は渋沢栄一らにより設立が計画され、初の私鉄として認可を受けた。 同社は東京から横浜間の鉄道敷設を目指し、資金調達や技術導入に尽力した。 これにより日本の鉄道網拡大が民間主導でも可能であることが示された。 政府鉄道に加え私鉄が参入したことで、鉄道産業の発展と交通利便性の向上が加速した。 後に日本鉄道は国有化されるまで約30年間、日本の近代化を支える重要な役割を果たした。
1881年 日本鉄道
1889年

ワシントン準州が州に昇格し、アメリカ合衆国42番目の州・ワシントン州となる。

1889年11月11日、ワシントン準州がアメリカ合衆国42番目の州・ワシントン州に昇格しました。 太平洋沿岸地域の発展と行政区画の整理を示す出来事です。
ワシントン準州は1853年に設置され、その後急速な人口増加と経済発展を遂げた。 1889年の州昇格により、州政府樹立や議会設置が可能となり自治権が拡大した。 農業、林業、漁業など地域資源の開発と鉄道網の整備が進み、西海岸の発展を牽引した。 州名は初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンにちなんで命名された。 州昇格式典は州都タコマで盛大に行われ、多くの住民が祝賀に参加した。
1889年 ワシントン準州 アメリカ合衆国 ワシントン州
1918年

連合国とドイツ共和国が休戦協定に調印。第一次世界大戦が終結。

1918年11月11日、連合国とドイツが休戦協定に調印し、第一次世界大戦が終結しました。 “休戦日”として後に記念日となった歴史的瞬間です。
休戦協定はフランス・コンピエーニュの森林の列車内で調印され、11月11日午前11時に戦闘が停止された。 この合意によりヨーロッパ大陸での激しい戦闘は終息し、戦後処理と平和交渉が本格化した。 戦争は約4年にわたり1千万人以上の死傷者を出し、世界史に大きな衝撃を残した。 戦勝国はドイツに対して厳しい賠償や領土割譲を要求し、ヴェルサイユ条約へと繋がった。 なお、この日はイギリス連邦やフランスなどで記念行事が行われ、“休戦記念日”として定着している。
1918年 連合国 ドイツ共和国 休戦協定 第一次世界大戦
1918年

オーストリア皇帝カール1世が退位。700年余りに及ぶハプスブルク家のオーストリア支配が終わる。

1918年11月11日、オーストリア皇帝カール1世が退位し、ハプスブルク家のオーストリア支配が終わりました。 約700年続いた王朝の歴史的幕引きです。
カール1世は第一次世界大戦の敗北を受け、帝国の存続が困難となったため退位を宣言した。 ハプスブルク家は1278年から約640年続く帝位を誇り、中欧の政治・文化を支配していた。 退位は皇帝の座からの辞任という形式をとり、共和国樹立への道を開く契機となった。 後にオーストリア・ハンガリー帝国は解体し、オーストリア共和国とハンガリー王国が別々に成立した。 カール1世自身は亡命先のマデイラ島で過ごし、1922年に没した。
オーストリア皇帝 カール1世 ハプスブルク家
1918年

ユゼフ・ピウスツキがワルシャワへ戻り軍の統帥権を掌握。ポーランド(ポーランド第二共和国)がロシア帝国から事実上独立。

ユゼフ・ピウスツキがワルシャワに戻り、軍の統帥権を掌握。 ポーランド第二共和国がロシア帝国から事実上独立。
ユゼフ・ピウスツキはポーランド軍の元帥で、第一次世界大戦後の国家建設に寄与した。 1918年11月11日、彼はワルシャワに帰還し、軍の統帥権を掌握した。 この行動により、ポーランドは事実上ロシア帝国から独立を果たした。 同年のヴェルサイユ条約締結を控え、独立国家としての地位を確固たるものとした。 ポーランド第二共和国の建国を象徴する歴史的瞬間とされる。 ピウスツキはその後、政治・軍事の両面で国家統合を進めた。 彼の指導力はポーランドの再建に大きな影響を与えた。 その業績は現在でもポーランド独立記念日に語り継がれている。
ユゼフ・ピウスツキ ワルシャワ ポーランド ポーランド第二共和国 ロシア帝国
1920年

アメリカ・アーリントン国立墓地に無名戦士の墓が作られる。

第一次世界大戦の戦没者を追悼する無名戦士の墓がアーリントン国立墓地に設置された。 国家的な慰霊の象徴とされた。
1920年11月11日、アーリントン国立墓地に「無名戦士の墓」が建立された。 この墓は第一次世界大戦で身元不明のまま亡くなった戦士を追悼するために設けられた。 墓はフランスのトルビュイ司令部から送られた遺体が選定された。 墓碑には「Soldier Unknown」という英字と「不明の兵士」という碑文が刻まれている。 その後の追悼式典は毎年行われ、国家的な儀式となった。 米国の戦没者慰霊の象徴として退役軍人省が管理を行っている。 同様の無名戦士の墓はイギリスやフランスなど他国にも設置されている。 今日では記念日や祝典における重要なスポットとなっている。
1920年 アーリントン国立墓地 無名戦士の墓