1519年

スペインの探検家エルナン・コルテスがアステカ帝国の首都テノチティトランに進軍。メキシコ征服を開始。

1519年11月8日、エルナン・コルテス率いるスペイン遠征隊がアステカ帝国の首都テノチティトランへの進軍を開始し、征服の幕を開けた歴史的瞬間です。
1519年11月8日、エルナン・コルテス率いるスペイン遠征隊はメキシコ高原に位置するアステカ帝国の首都テノチティトランへの進軍を開始しました。 コルテスは小規模な軍勢ながら、戦略的同盟と鋭い軍事戦術を駆使して進撃を続けました。 アステカ帝国は高度に発達した文明を誇り、壮麗な神殿や運河網が都市を彩っていました。 スペイン軍は銃砲と騎兵の力を背景に、次第に帝国内部への影響力を強めていきました。 この進軍は後のアステカ帝国滅亡と新大陸におけるスペイン植民地支配の転換点となりました。
1519年 スペイン エルナン・コルテス アステカ テノチティトラン
1520年

ストックホルムの血浴。スウェーデンのカルマル同盟からの独立運動を鎮圧した国王クリスチャン2世が、スウェーデン人の反乱指導者ら100名以上を捕え、翌日処刑。

1520年11月8日、デンマーク王クリスチャン2世がストックホルムで反乱指導者ら100名以上を捕えたのち、翌日に大量処刑を行った残虐な事件です。
1520年11月8日、デンマーク王クリスチャン2世はストックホルムを制圧した後、反乱を指導したスウェーデン貴族や市民100名以上を捕縛しました。 彼はカルマル同盟への忠誠を誓わせる目的で、翌9日に公開処刑を実行し、スウェーデンに恐怖政治を敷きました。 この「ストックホルムの血浴」はスウェーデン人の強い反発を招き、後の独立運動を加速させる一因となりました。 事件の残虐さはヨーロッパ中に衝撃を与え、カルマル同盟の崩壊へとつながる歴史的転機となりました。
1520年 ストックホルムの血浴 スウェーデン カルマル同盟 クリスチャン2世 スウェーデン人
1620年

三十年戦争: 白山の戦い。

1620年11月8日、三十年戦争の一大決戦「白山の戦い」がボヘミア地方で行われ、帝国軍が劇的な勝利を収めました。
1620年11月8日、三十年戦争の初期段階において、ボヘミア王国貴族連合軍と神聖ローマ帝国軍が白山の丘で激突しました。 カトリック側のマクシミリアン・フォン・ヴァレンシュタイン率いる帝国軍がプロテスタント軍を圧倒し、わずか数時間で勝敗を決しました。 この敗北によりボヘミア貴族の抵抗は壊滅的打撃を受け、多くが処刑や追放に直面しました。 戦いの結果、ハプスブルク家による領土統制が強化され、ボヘミア地域のカトリック化が進む契機となりました。 白山の戦いは三十年戦争全体の情勢を左右する歴史的な転換点とされています。
1620年 三十年戦争 白山の戦い
1745年

ジャコバイト蜂起: 若僭王チャールズがスコットランドからイングランドに侵攻。(カロデンの戦いの前哨戦)

1745年11月8日、ジャコバイト蜂起の先導者チャールズ・エドワード・ステュアート(若僭王チャールズ)がスコットランドからイングランドへの進軍を開始しました。
1745年11月8日、スチュアート家の血統を称するチャールズ・エドワード・ステュアートは、支援を得てハイランド地方を越えイングランド南下を図りました。 この行動はジャコバイト蜂起の一環として、カロデンの戦いへ向けた前哨戦と位置づけられています。 チャールズは「若僭王チャールズ」の号で同盟貴族やクラン首長の支持を集め、王位奪還を目指しました。 進軍はイングランド北部で一時的な成功を収めるものの、補給や兵力の不足が後の敗北を予兆させました。 この蜂起はスコットランドとイギリス史に大きな爪痕を残す出来事となりました。
1745年 ジャコバイト 若僭王チャールズ スコットランド イングランド カロデンの戦い
1861年

南北戦争: トレント号事件起こる。

1861年11月8日、南北戦争中にアメリカ海軍が英船トレント号を拿捕したトレント号事件が発生し、英米間の緊張が一気に高まりました。
1861年11月8日、北軍の軍艦サンジャシント号は公海上でイギリス郵船トレント号を停止させ、南部連合の外交官二名を拘束しました。 この事件は英米間の国際法や中立権を巡る問題を浮き彫りにし、イギリスが南部連合を支持する口実を与える恐れがありました。 アメリカ政府は事態のエスカレートを避けるため、最終的に外交官を釈放し事態を沈静化させました。 トレント号事件は南北戦争の国際的側面を示す代表例であり、米英関係に深い影響を与えました。 この出来事は軍事行動が外交問題に発展する危険性を広く認識させる契機となりました。
1861年 南北戦争 トレント号事件
1923年

ミュンヘンのビアホール「ビュルガーブロイケラー」でアドルフ・ヒトラー率いるナチス一派がバイエルン首脳部を拘束、ミュンヘン一揆が起こる。

1923年11月8日、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党がミュンヘンでクーデターを企て、バイエルン政府首脳を拘束しました。
ミュンヘン一揆(ビアホール・プッチ)は、ナチス党のアドルフ・ヒトラーらによる国家転覆未遂事件。 11月8日夜、ビュルガーブロイケラーでバイエルン州政府幹部を拘束し、新政府樹立を宣言。 翌日の警察鎮圧で計画は頓挫し、ヒトラーは逮捕・投獄。 獄中で『我が闘争』執筆の機会を得たことが、後のナチス党再建につながりました。 この事件はヴァイマル共和政の不安定さを象徴し、ナチス党台頭の転機となりました。
1923年 ミュンヘン ビアホール ビュルガーブロイケラー アドルフ・ヒトラー ナチス バイエルン ミュンヘン一揆
1942年

第二次世界大戦: トーチ作戦開始。

連合軍が北アフリカにおける反攻作戦「トーチ作戦」を開始し、モロッコとアルジェリア沿岸への上陸を実施した。
1942年11月8日、アメリカ軍とイギリス軍を中心とする連合軍部隊がフランス保護領モロッコとアルジェリアに上陸し、北アフリカ戦線での大規模な反攻を開始した。 指揮官はドワイト・D・アイゼンハワー将軍で、上陸部隊にはアメリカ第1歩兵師団や英国第1歩兵師団が含まれていた。 作戦の目的は地中海西部を掌握し、イギリスとの連絡線を安全化することと、枢軸軍を二正面から挟撃することであった。 上陸後の戦闘は激烈を極めたが、連合軍は徐々にアルジェリア内陸へ進出し、ヴィシー政府軍を圧迫した。 この作戦は北アフリカ戦線での戦略的転換点となり、後のチュニジア攻略やシチリア上陸への布石となった。
1942年 第二次世界大戦 トーチ作戦
1942年

第二次世界大戦: カサブランカ沖海戦。

同日、カサブランカ沖でヴィシー・フランス海軍と連合国海軍による海戦が発生し、作戦の海上支援が行われた。
カサブランカ沖海戦は1942年11月8日に行われ、アメリカ太平洋艦隊とヴィシー・フランス海軍が対峙した。 作戦の一環として、連合軍は上陸地点の防衛を固めるため敵艦隊の撃破を目指した。 アメリカ駆逐艦や巡洋艦が先制攻撃を行い、ヴィシー艦隊を後退に追い込んだ。 戦闘では両者に損害があったものの、連合軍は航路確保と上陸作戦の継続を優先した。 この海戦は大西洋戦線における最初の大規模海戦の一つとされ、連合軍の海上優位を示す出来事となった。
1942年 第二次世界大戦 カサブランカ沖海戦
1950年

朝鮮戦争: 米軍のジェット戦闘機F 80が北朝鮮軍のMiG 15を撃墜。史上初のジェット機戦。

朝鮮戦争で史上初のジェット機同士による空中戦が行われ、F-80がMiG-15を撃墜した。
1950年11月8日、朝鮮戦争の戦闘空域でアメリカ空軍のF-80シューティングスターが北朝鮮軍のMiG-15戦闘機を撃墜した。 これはジェット戦闘機同士の初の実戦交戦とされ、近代航空戦の到来を象徴する出来事となった。 MiG-15は当時のソ連製最強戦闘機と評価されており、撃墜は連合軍の士気を大いに高めた。 空戦は雲上での高高度戦闘となり、パイロットの技量と機体の性能が激しく競われた。 この交戦をきっかけに、以降の航空戦術やジェット機開発競争が本格化した。
1950年 朝鮮戦争 F-80 MiG-15
2004年

イラク戦争・ファルージャの戦闘: 米軍によるファルージャ市街掃討作戦「新たな夜明け」が始まる。

2004年、米軍がファルージャ市街掃討作戦「新たな夜明け」を開始し、激戦地となった。
2004年11月8日、イラク戦争中のファルージャ市街掃討作戦「新たな夜明け」が開始された。 アメリカ軍が市内に入り、反政府勢力掃討と市民保護を名目に本格的な攻撃を展開。 史上最激戦の一つとされる第二次ファルージャの戦闘で、両軍に多大な犠牲者が出た。 陸上部隊と海兵隊が連携し、市街戦の様相を呈しながら作戦は約1か月続いた。 後にイラク国内の治安情勢と反政府運動の転換点として位置付けられた。
2004年 ファルージャの戦闘 ファルージャ