680年
第3コンスタンティノポリス公会議が始まる。
680年、ビザンツ皇帝コンスタンティヌス4世の主導で第3コンスタンティノポリス公会議が開かれました。主な議題はモノテリティズム(意思単一説)の是非判定です。
第3コンスタンティノポリス公会議は680年11月7日に開始された第6回全教会公会議です。
皇帝コンスタンティヌス4世の招集により、東方正教会やローマ教皇庁の代表が参加しました。
主要な論点は、キリストの意志をめぐるモノテリティズム(意思単一説)の是非判定でした。
会議では異端とされたモノテリティズムを公式に否定し、二意志説(神聖意志と人間意志の二元性)を支持しました。
この決定はキリスト教神学の基本教義を確立し、東西教会の教義上の統一に大きく寄与しました。
公会議は681年に閉会し、その決議は後世の教会政治や神学に長い影響を残しました。
680年
第3コンスタンティノポリス公会議
1492年
フランスにエンシスハイム隕石が落下。
1492年11月7日、フランスのアルザス地方エンシスハイムに隕石が落下しました。現存する最古級の観測記録として知られています。
エンシスハイム隕石は1492年11月7日にフランス東部アルザス地方の町に落下しました。
落下時の轟音とともに現地住民が多数集まり、その直後には現物が回収されました。
隕石は石質コンドライトで、現在もパリの自然史博物館などに所蔵されています。
この隕石落下の記録は中世ヨーロッパにおける最古級の科学的観測事例とされ、天文学史上の重要な資料です。
落下後には神の啓示と捉える者もおり、当時の文化や宗教観にも影響を与えました。
その後、皇帝マクシミリアン1世によって保護され、博物学の発展に寄与しました。
1492年
フランス
エンシスハイム隕石
慶長3年10月9日
慶長の役・順天城の戦い終結:順天城を包囲していた明・朝鮮水軍が古今島に撤退する。
1598年11月7日に慶長の役の一戦、順天城の包囲戦が終結し、明・朝鮮連合軍が古今島へ撤退しました。戦役末期の重要な転機となりました。
慶長の役(文禄・慶長の役)は1592年から始まった豊臣秀吉の朝鮮出兵です。
その終盤にあたる順天城の戦いでは、明・朝鮮連合軍が城を包囲していました。
1598年11月7日、包囲中だった連合軍が補給線の混乱や寒波により撤退を決断し、古今島へ撤退しました。
この撤退により日本軍の占領地が縮小し、秀吉の死去も相まって撤兵への流れが加速しました。
戦いは東アジア情勢に大きな影響を与え、江戸幕府による鎖国政策の契機の一つとも言われています。
現在でも順天城の跡は韓国に史跡として残り、戦史研究の対象となっています。
1598年
慶長
10月9日
慶長の役
順天城の戦い
順天城
明
朝鮮
1665年
現存する世界最古の新聞『オックスフォード・ガゼット』(現在のThe London Gazette(ロンドン・ガゼット))が創刊。
1665年11月7日、イングランドで世界最古の新聞として知られる『オックスフォード・ガゼット』が創刊されました。のちに『ロンドン・ガゼット』として続刊します。
『オックスフォード・ガゼット』は1665年11月7日に、チャールズ2世の命により発行されました。
当初はロンドンで疫病を避けたためオックスフォードで刊行され、後にロンドンに戻り『ロンドン・ガゼット』と改称されました。
政府公式の公告紙として、国家の布告や戦争報告などを掲載し、信頼性の高い情報源となりました。
その出版様式は後の新聞史に大きな影響を与え、近代新聞の原型とも評価されています。
現在もイギリス王室官報として発行が続いており、世界最古の定期刊行物の一つです。
1665年
新聞
The London Gazette(ロンドン・ガゼット)
1837年
チリ中部で大地震(M8.4、60名死亡)。
1837年11月7日、チリ中部でマグニチュード8.4の大地震が発生し、約60人が犠牲になりました。
1837年11月7日、チリ中部の海域を震源とするM8.4の大地震が発生しました。
大規模な津波や地滑りが発生し、沿岸部を中心に甚大な被害をもたらしました。
当時の建築は耐震性が低く、多くの建物が倒壊しました。
被害状況の詳細な記録は限られていますが、死者は約60人と推定されています。
この地震はチリで観測史上初期の大規模地震の一つとして、地震学史や津波研究において重要な資料となっています。
1837年
チリ
M
1848年
1848年アメリカ合衆国大統領選挙でザカリー・テイラーが選出。
1848年11月7日、アメリカ合衆国大統領選挙で将軍ザカリー・テイラーが当選しました。
アメリカ合衆国大統領選挙は1848年11月7日に実施されました。
ホイッグ党候補のザカリー・テイラー将軍は、メキシコ–アメリカ戦争での活躍を背景に支持を集めました。
民主党候補のルイス・キャロルトン・ウィルソンを破り、選挙人票の過半数を獲得しました。
テイラーは任期中の国内問題や奴隷制問題に直面しましたが、そのリーダーシップは高く評価されました。
しかし在任中の1850年に急逝し、大統領としての任期は短く終わりました。
1848年
1848年アメリカ合衆国大統領選挙
ザカリー・テイラー
1861年
南北戦争: ベルモントの戦い
1861年11月7日、南北戦争の初期戦闘の一つであるベルモントの戦いが起こりました。ユリシーズ・グラント将軍が初めて指揮した戦いとして知られます。
ベルモントの戦いは1861年11月7日にミズーリ州ベルモント付近で行われました。
北軍のユリシーズ・S・グラント大佐が初めて指揮を執った戦闘として有名です。
北軍は川を渡り南軍の防衛陣地を攻撃し、一時的に南軍を退却させました。
戦闘自体は大規模ではなかったものの、両軍に多数の死傷者を出しました。
この戦いはグラントの戦術的手腕が注目される契機となり、その後の南北戦争での活躍につながりました。
1861年
南北戦争
ベルモントの戦い
1908年
西部開拓時代: ガンマンのサンダンス・キッドとブッチ・キャシディが高飛びした先のボリビアで隠れ家を包囲され射殺される。
1908年11月7日、西部開拓時代のガンマン、サンダンス・キッドとブッチ・キャシディがボリビアで射殺されました。彼らの最期は西部劇の伝説の一部となりました。
サンダンス・キッドとブッチ・キャシディはアメリカ西部で悪名を馳せたアウトローです。
1908年11月7日、二人は逃亡先のボリビアで政府軍に包囲されました。
銃撃戦の末、二人は射殺されたと伝えられていますが、詳細な記録は不明瞭です。
その伝説的な最期は多くの書籍や映画で語られ、西部開拓時代のロマンとして後世に語り継がれています。
彼らの墓は特定されておらず、謎に包まれたエピソードはいまだに人々の興味を引き続けています。
1908年
西部開拓時代
ガンマン
サンダンス・キッド
ブッチ・キャシディ
ボリビア
1914年
第一次世界大戦: 青島のドイツ軍守備隊が降伏し、青島の戦いが終結。
1914年11月7日、第一次世界大戦のアジア戦線で青島のドイツ守備隊が降伏し、青島の戦いが終結しました。
青島の戦いは第一次世界大戦の初期におけるアジア戦線の主要作戦です。
日本海軍と陸軍を主体とする連合軍はドイツ租借地の青島を包囲しました。
約1か月にわたる攻城戦の末、1914年11月7日にドイツ守備隊は降伏しました。
この勝利により連合国側は太平洋・中国地域での優位を確立しました。
戦後、青島は日本の占領下に置かれ、戦後処理や対中国外交にも影響を与えました。
1914年
第一次世界大戦
青島
青島の戦い
1916年
ジャネット・ランキンが女性初のアメリカ下院議員に選出。
1916年11月7日、ジャネット・ランキンがアメリカ下院に初めて女性議員として選出されました。女性参政権運動の歴史的快挙です。
ジャネット・ランキンはモンタナ州選出の共和党員で、1916年の選挙で下院議員に当選しました。
彼女はアメリカ下院史上初の女性議員となり、議会での女性の地位向上に寄与しました。
女性参政権運動家としても知られ、平和主義や社会福祉の推進に取り組みました。
下院では軍需予算に反対票を投じるなど積極的な活動を展開しました。
当選はアメリカ合衆国における女性の政治参加の転機となりました。
1916年
ジャネット・ランキン
ユリウス暦10月25日
レーニン率いるボリシェヴィキによりロシア10月革命が成立。
ボリシェヴィキが臨時政府を打倒し、世界初の社会主義国家への道を切り開いた歴史的革命です。
1917年11月7日(ユリウス暦10月25日)、レーニン率いるボリシェヴィキが武装蜂起を決行しました。
臨時政府を崩壊させ、ソビエト権力を樹立してロシア帝政を終焉に導きます。
世界初の社会主義国家樹立への過程として、内戦や干渉戦争を経てソビエト連邦が成立。
この革命は世界の労働運動やマルクス主義政党に大きな影響を与え、冷戦構造の遠因ともなりました。
現代の国際政治や社会思想に深い余波を残す、20世紀最大の政治変動です。
1917年
ユリウス暦
10月25日
レーニン
ロシア10月革命
1918年
スペインかぜ: 西サモアでインフルエンザが始まり、年末までに人口の2割の7,542人が死亡。
西サモアでのスペインかぜ大流行により、島民の約2割が犠牲となった痛ましい出来事です。
第一次世界大戦直後の1918年11月7日、西サモアにスペインかぜが侵入しました。
医療体制と隔離措置が不十分なままウイルスが拡散し、年末までに約7,542人が命を落とします。
致死率と感染力の高さが明らかとなり、パンデミックの恐ろしさを世界に知らしめました。
この悲劇を契機に公衆衛生の重要性が再認識され、感染症対策の研究と制度整備が進みました。
史上最悪級のインフルエンザ流行の一つとして語り継がれています。
1918年
スペインかぜ
西サモア
インフルエンザ