1757年

七年戦争: ロスバッハの戦い。

1757年11月5日、七年戦争中のプロイセン軍とフランス・神聖ローマ帝国連合軍の間でロスバッハの戦いが行われた。
ロスバッハの戦いは現在のドイツ、シュヴェリン付近で行われた。フリードリヒ大王率いるプロイセン軍が数で勝る連合軍を打ち破った。戦術的な奇襲と機動戦が勝利の鍵となり、プロイセン軍の名声を高めた。この勝利によりフリードリヒ大王は欧州戦術史上における天才司令官としての評価を確立した。戦いは七年戦争全体の行方に大きな影響を与えた。
1757年 七年戦争 ロスバッハの戦い
1854年

クリミア戦争: インカーマンの戦い。

1854年11月5日、クリミア戦争中に英仏連合軍とロシア軍がインカーマンの戦いで激突した。
インカーマンの戦いはクリミア半島のバラクラヴァ近郊で行われた。霧に包まれた戦場で歩兵による接近戦となり、両軍は激しい白兵戦を繰り広げた。英仏連合軍が数々の攻撃をいなしてロシア軍を退け、その防御戦術が評価された。戦闘の惨状は両軍合わせて数千の犠牲を出し、多くの負傷者を生んだ。作戦は連合軍の指揮系統と兵站の強化を促す転機ともなった。
1854年 クリミア戦争 インカーマンの戦い 英語版
1937年

ナチス・ドイツの総統官邸において秘密会議が開かれ、アドルフ・ヒトラーが陸海軍司令官に対外進出構想を明らかにする(ホスバッハ覚書)。

1937年11月5日、ホスバッハ覚書がまとめられ、ヒトラーが対外侵攻構想を軍最高幹部に示した秘密会議の記録が作成された。
ホスバッハ覚書はベルリンの総統官邸で開かれたヒトラー主宰の会議の公式記録である。出席者には陸海軍の司令官や外務大臣らが含まれ、戦略的野心が議論された。覚書にはチェコスロバキアやオーストリアへの侵攻計画が明記されている。第二次世界大戦前夜のドイツ軍事政策を示す重要資料とされている。戦後、ニュルンベルク裁判などで証拠として利用された。
1937年 ナチス・ドイツ 総統官邸 アドルフ・ヒトラー ホスバッハ覚書
1941年

第二次世界大戦: 日本の御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定。対米交渉2案と、交渉決裂の場合は12月初旬に武力行使することを決定する。

1941年11月5日の御前会議で「帝国国策遂行要領」が決定され、対米交渉と交渉決裂時の武力行使方針が了承されました。
御前会議は大日本帝国憲法下の最高会議体で、1941年11月5日に対米交渉を行う二つの案と、交渉が決裂した場合に12月上旬に武力行使に踏み切る方針を議決しました。 この「帝国国策遂行要領」により、日本政府はアメリカからの石油禁輸など経済制裁打開の最終策と、戦争に突入する決断を公式に文書で定めました。 決定は太平洋戦争開戦への最終調整と位置づけられ、12月8日のハワイ真珠湾奇襲攻撃へとつながる重要な節目となりました。 会議では東条英機内閣が主導し、軍部の意向が強く反映された結論となりました。 この時点での日米交渉は事実上決裂を前提にしており、日本の対外戦略の転換点となりました。
1941年 第二次世界大戦 御前会議 帝国国策遂行要領
1943年

東京で大東亜会議が開催される。

1943年東京で大東亜会議が開催され、アジア諸国間の共栄圏を掲げた連帯を演出しました。
大東亜会議は1943年11月5日から10日まで東京で開催され、満州国や汪兆銘率いる南京国民政府など日本の傀儡政権代表が参加しました。 会議は「大東亜共栄圏」の理念を謳い、対外的にはアジアの解放と共栄を訴える政治ショー的側面が強いものでした。 実務的な政策決定は限定的で、各代表国の実質的な意思決定権はほとんどありませんでした。 戦況が悪化する中でのプロパガンダ目的が主で、国際的な正当性獲得を狙った日本側の宣伝活動の一環と位置づけられます。 会議後、実効性のある協力体制は築かれず、戦後の評価はほとんど否定的となりました。
1943年 東京 大東亜会議