1838年
中米連邦からホンジュラスが分離。
1838年11月5日、中米連邦からホンジュラスが分離し、独立への道を歩み始めた。
中米連邦は1823年に結成された国家連合体であったが、内部対立や経済的困難を抱えていた。ホンジュラスは自治強化を求めて分離を決定し、正式に独立を宣言した。この分離はグアテマラなど他の構成州にも影響を及ぼし、連邦解体の契機となった。ホンジュラスは以後、共和国として独立国家の地位を確立した。政治的混乱を経ながらも、後に中米諸国との協力関係を模索していくことになる。
1838年
中米連邦
ホンジュラス
1895年
日本とブラジルが、日伯修好通商条約締結。
1895年11月5日、日本とブラジルが日伯修好通商条約を締結し、公式な通商関係を樹立した。
日伯修好通商条約は明治政府が南米諸国との関係を拡大する一環として交渉された。条約の締結により両国は関税や領事裁判権など商務面の取り決めを定めた。これを契機に日本からの移民が徐々にブラジルへ渡航し、大規模な労働力移動が始まった。両国間の文化交流や経済協力の基盤が形成され、現在に至る日系ブラジル人社会の礎となった。
1895年
1937年
ナチス・ドイツの総統官邸において秘密会議が開かれ、アドルフ・ヒトラーが陸海軍司令官に対外進出構想を明らかにする(ホスバッハ覚書)。
1937年11月5日、ホスバッハ覚書がまとめられ、ヒトラーが対外侵攻構想を軍最高幹部に示した秘密会議の記録が作成された。
ホスバッハ覚書はベルリンの総統官邸で開かれたヒトラー主宰の会議の公式記録である。出席者には陸海軍の司令官や外務大臣らが含まれ、戦略的野心が議論された。覚書にはチェコスロバキアやオーストリアへの侵攻計画が明記されている。第二次世界大戦前夜のドイツ軍事政策を示す重要資料とされている。戦後、ニュルンベルク裁判などで証拠として利用された。
1937年
ナチス・ドイツ
総統官邸
アドルフ・ヒトラー
ホスバッハ覚書
1940年
アメリカ合衆国大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトが当選。アメリカ史上初の三選。
1940年のアメリカ合衆国大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトが当選し、史上初の三選を果たしました。
第二次世界大戦を目前に控えた中、ルーズベルトはニューディール政策の継続と強固なリーダーシップを訴え、共和党候補アルフレッド・ランドンを退けました。
この勝利により、彼はジョージ・ワシントン以来の記録となる大統領三選を果たし、連続して12年以上政権を維持することになります。
長期政権に対する批判も高まりましたが、戦時体制での安定した指導力が評価されました。
その後の議論を経て、再選を制限する憲法修正第22条が1947年に批准され、現職大統領の二期までの制限が制度化されました。
ルーズベルトの三選はアメリカ政治の歴史を大きく変え、戦後の政治システム設計に影響を与えました。
1940年
アメリカ合衆国大統領選挙
フランクリン・ルーズベルト
1941年
第二次世界大戦: 日本の御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定。対米交渉2案と、交渉決裂の場合は12月初旬に武力行使することを決定する。
1941年11月5日の御前会議で「帝国国策遂行要領」が決定され、対米交渉と交渉決裂時の武力行使方針が了承されました。
御前会議は大日本帝国憲法下の最高会議体で、1941年11月5日に対米交渉を行う二つの案と、交渉が決裂した場合に12月上旬に武力行使に踏み切る方針を議決しました。
この「帝国国策遂行要領」により、日本政府はアメリカからの石油禁輸など経済制裁打開の最終策と、戦争に突入する決断を公式に文書で定めました。
決定は太平洋戦争開戦への最終調整と位置づけられ、12月8日のハワイ真珠湾奇襲攻撃へとつながる重要な節目となりました。
会議では東条英機内閣が主導し、軍部の意向が強く反映された結論となりました。
この時点での日米交渉は事実上決裂を前提にしており、日本の対外戦略の転換点となりました。
1941年
第二次世界大戦
御前会議
帝国国策遂行要領
1945年
コロンビアが国際連合に加盟。
1945年11月5日、コロンビアが国際連合に正式加盟しました。
国際連合は1945年10月に発足し、加盟国の拡大が続く中、コロンビアは第24番目の加盟国として迎えられました。
コロンビアの加盟はラテンアメリカ諸国の国際協調の一環であり、同国は平和維持活動や経済開発の分野で積極的な役割を果たしました。
加盟により国連総会や安全保障理事会非常任理事国としての影響力が高まり、国際舞台での発言力を強化しました。
これ以降、コロンビアは国連を通じて人権や環境保護などの問題提起を行う常連国となりました。
その後の国連活動における同国の貢献は、国際協力のモデルケースの一つとして評価されています。
1945年
コロンビア
国際連合
1964年
1944年に処刑されたリヒャルト・ゾルゲにソ連邦英雄勲章が授与される。
1964年、1944年に処刑されたスパイ・リヒャルト・ゾルゲにソ連邦英雄勲章が授与されました。
リヒャルト・ゾルゲは第二次世界大戦中に日本でソ連の情報活動を行ったドイツ人スパイです。
1941年から1942年にかけて重要な軍事情報をモスクワに送り、その功績で1944年に逮捕・処刑されました。
戦後20年を経て、ソ連は彼の働きを再評価し、1964年11月5日にソ連邦英雄勲章を追贈しました。
この勲章はソ連最高の栄誉であり、ゾルゲの諜報活動が国家存続に寄与したものと認められました。
ゾルゲは戦後のスパイ史における象徴的存在となっています。
1964年
1944年
リヒャルト・ゾルゲ
ソ連邦英雄勲章
1968年
アメリカ合衆国大統領選挙でリチャード・ニクソンが当選。
1968年のアメリカ大統領選でリチャード・ニクソンが当選し、共和党政権が復帰しました。
アメリカ大統領選挙は1968年11月5日に実施され、共和党候補リチャード・ニクソンが民主党の現職副大統領ハーバート・ハンフリーを破りました。
この選挙はベトナム戦争や公民権運動による国内の混乱が背景にあり、「法と秩序」を訴えるニクソンの公約が支持を集めました。
選挙結果は僅差であったものの、ニクソンは外交政策に重点を置き、後の冷戦戦略やベトナム和平交渉に大きな影響を与えました。
共和党は1969年に政権を奪還し、ニクソン政権はアメリカの政治・社会に新たな転換点をもたらしました。
後に水門事件などの困難もありながら、彼の大統領在任期間は国際政治において重要な役割を果たしました。
1968年
アメリカ合衆国大統領選挙
リチャード・ニクソン
1969年
大菩薩峠事件。警視庁が赤軍派53名を逮捕。
1969年、大菩薩峠事件で警視庁が赤軍派のメンバー53名を逮捕しました。
1969年11月5日、日本の山梨県甲州市・大菩薩峠付近で、過激派組織赤軍派のメンバーが潜伏していたとされる事件が発生し、警視庁は実行犯とみられる53名を逮捕しました。
赤軍派は学生運動から派生した左翼過激派組織で、連続企業爆破事件やハイジャックなどを実行していました。
この一斉逮捕は彼らの活動に大きな打撃を与え、後の組織崩壊へとつながりました。
襲撃事件では犠牲者は確認されていませんが、国内の治安維持における警察の危機管理能力が注目されました。
大菩薩峠事件は日本の戦後政治史における重要なターニングポイントの一つとされています。
1969年
大菩薩峠事件
警視庁
赤軍派
1991年
宮澤喜一内閣が発足。
1991年、宮澤喜一が第78代内閣総理大臣に就任し、宮澤内閣が発足しました。
1991年11月5日、皇居での認証式を経て宮澤喜一が第78代内閣総理大臣に任命されました。
宮澤氏は渡辺美智雄・橋本龍太郎らを起用し、バブル崩壊後の経済対策や行政改革を重要課題に掲げました。
内閣発足当初は自民党の派閥調整が難航しましたが、幅広い支持を背景に政権運営を進めました。
国際舞台では湾岸戦争後の経済復興支援や環境問題への取り組みを強化し、日本の外交に新たな方向性を示しました。
在任期間中には消費税率引き上げなどが行われ、後の政治構造に影響を与えました。
1991年
宮澤喜一内閣
1994年
ロナルド・レーガン元大統領のアルツハイマー病が公表される。
1994年、元アメリカ大統領ロナルド・レーガンのアルツハイマー病が公表されました。
1994年11月5日、当時83歳のロナルド・レーガン元大統領の秘書官が、彼がアルツハイマー病を患っていることを公式に発表しました。
レーガン氏は1981年から1989年まで第40代大統領を務め、冷戦終結や大幅な減税政策で知られています。
病状公表は元大統領として初めてで、認知症への理解促進や啓発のきっかけとなりました。
家族は病状進行に伴う公的役割からの退任を支援し、財団を通じた研究支援活動を開始しました。
この発表以降、アルツハイマー病研究や患者支援への注目が世界的に高まりました。
1994年
ロナルド・レーガン
大統領
アルツハイマー病
1996年
汚職などのスキャンダルによりパキスタン首相ベーナズィール・ブットーが解任される。
1996年、パキスタンの首相ベーナズィール・ブットーが汚職疑惑などを理由に解任されました。
1996年11月5日、当時のパキスタン大統領ファルーク・レガリが、汚職や腐敗の疑いを理由に首相ベーナズィール・ブットーを解任しました。
ブットー氏は1988年に初の女性首相として就任後、民主化や女性の社会進出を推進しましたが、度重なる政治的不安定に見舞われました。
解任は軍部との権力闘争の一環ともされ、国内外で議論を呼びました。
その後ブットー氏は政治的弾圧を受けつつも、復権を目指して活動を続け、2007年に凶弾に倒れるまで影響力を維持しました。
この出来事はパキスタン政治の混迷を象徴し、民主主義の脆弱性を浮き彫りにしました。
1996年
パキスタン
ベーナズィール・ブットー