1757年
七年戦争: ロスバッハの戦い。
1757年11月5日、七年戦争中のプロイセン軍とフランス・神聖ローマ帝国連合軍の間でロスバッハの戦いが行われた。
ロスバッハの戦いは現在のドイツ、シュヴェリン付近で行われた。フリードリヒ大王率いるプロイセン軍が数で勝る連合軍を打ち破った。戦術的な奇襲と機動戦が勝利の鍵となり、プロイセン軍の名声を高めた。この勝利によりフリードリヒ大王は欧州戦術史上における天才司令官としての評価を確立した。戦いは七年戦争全体の行方に大きな影響を与えた。
1757年
七年戦争
ロスバッハの戦い
1854年
クリミア戦争: インカーマンの戦い。
1854年11月5日、クリミア戦争中に英仏連合軍とロシア軍がインカーマンの戦いで激突した。
インカーマンの戦いはクリミア半島のバラクラヴァ近郊で行われた。霧に包まれた戦場で歩兵による接近戦となり、両軍は激しい白兵戦を繰り広げた。英仏連合軍が数々の攻撃をいなしてロシア軍を退け、その防御戦術が評価された。戦闘の惨状は両軍合わせて数千の犠牲を出し、多くの負傷者を生んだ。作戦は連合軍の指揮系統と兵站の強化を促す転機ともなった。
1854年
クリミア戦争
インカーマンの戦い
英語版
1838年
中米連邦からホンジュラスが分離。
1838年11月5日、中米連邦からホンジュラスが分離し、独立への道を歩み始めた。
中米連邦は1823年に結成された国家連合体であったが、内部対立や経済的困難を抱えていた。ホンジュラスは自治強化を求めて分離を決定し、正式に独立を宣言した。この分離はグアテマラなど他の構成州にも影響を及ぼし、連邦解体の契機となった。ホンジュラスは以後、共和国として独立国家の地位を確立した。政治的混乱を経ながらも、後に中米諸国との協力関係を模索していくことになる。
1838年
中米連邦
ホンジュラス
1886年
初代小菅丹治が中山道沿いの東京府神田区旅籠町(現在の東京都千代田区外神田)に、伊勢屋丹治呉服店(現在の伊勢丹)を創業。
1886年11月5日、東京・神田の旅籠町で呉服店『伊勢屋丹治』が創業し、後の百貨店・伊勢丹へと発展した。
創業者の小菅丹治は中山道沿いの旅籠町で呉服店を開き、地元住民や旅人からの信頼を得た。店は質の高い呉服と丁寧な接客で評判を呼び、徐々に規模を拡大していった。明治期の東京の商業発展を背景に、新宿や銀座にも出店するまで成長した。1930年代には総合百貨店としての形態を整え、『伊勢丹』のブランド名を確立した。現在では国内外に展開する大手百貨店として知られている。
1886年
東京都
千代田区
外神田
伊勢丹
1889年
パリの自由の女神像の除幕式が行われる。
1889年11月5日、パリでフレデリック・バルトルディ作の自由の女神像が除幕され、アメリカへの贈呈事業が開始された。
自由の女神像はフランスとアメリカの友好を記念して製作された巨大ブロンズ像である。除幕式はパリのシャン・ド・マルス広場で厳粛に行われ、多くの市民や要人が参列した。デザイナーのバルトルディと製作者ガジェ・ゴーティエの協力で完成し、解体・輸送の準備が進められた。像は後にニューヨークに送られ、アメリカ独立100周年にあわせて披露された。現在も世界的なランドマークとして知られている。
1889年
パリ
自由の女神像
1895年
日本とブラジルが、日伯修好通商条約締結。
1895年11月5日、日本とブラジルが日伯修好通商条約を締結し、公式な通商関係を樹立した。
日伯修好通商条約は明治政府が南米諸国との関係を拡大する一環として交渉された。条約の締結により両国は関税や領事裁判権など商務面の取り決めを定めた。これを契機に日本からの移民が徐々にブラジルへ渡航し、大規模な労働力移動が始まった。両国間の文化交流や経済協力の基盤が形成され、現在に至る日系ブラジル人社会の礎となった。
1895年
1911年
曹洞宗大本山總持寺が能登から鶴見に移転する。
1911年11月5日、曹洞宗大本山の總持寺が能登から神奈川・鶴見に移転し、新たな門跡地が開かれた。
總持寺は曹洞宗を代表する大本山であり、能登半島の東端に長く所在していた。明治期に入り、交通や信徒の便宜を考慮して移転計画が進められた。移転先の鶴見は東京への交通が便利な土地で、仏教教育の拠点として選ばれた。1911年の移転により宗務庁などの施設も整備され、現在の大規模伽藍が形成された。以降、總持寺は多くの僧侶や信者を育成する道場としても発展した。
1911年
曹洞宗
總持寺
鶴見
1923年
伊勢神宮で最も新しい別宮である倭姫宮が創建される。
1923年11月5日、伊勢神宮の別宮である倭姫宮が創建され、内宮周辺の祭祀空間が拡張された。
倭姫宮は日本神話に登場する倭姫命を祀る神社であり、伊勢神宮の別宮の中では最も新しい社殿である。1923年の創建は明治期以降の神宮整備計画の一環として行われた。社殿は伝統的な神明造で建てられ、厳かな雰囲気を漂わせる。創建後は内宮を参拝する多くの人々が詣でる場となり、周辺の森林保全にも寄与している。
1923年
伊勢神宮
倭姫宮
1930年
倉敷の実業家大原孫三郎が、日本最初の私立西洋美術館、大原美術館を開館。
1930年11月5日、倉敷の実業家・大原孫三郎が日本初の私立西洋美術館『大原美術館』を開館した。
大原美術館は大原孫三郎が欧米で収集した絵画や彫刻を公開するために設立した。コローやモネ、ルノワールなど印象派を中心としたコレクションで知られている。倉敷の町並みにマッチした建築も評価され、文化観光施設として発展した。戦後も市民への文化普及に努め、1950年代には国内外から高い評価を受けた。現在は国際的な美術館として多くの観光客を集めている。
1930年
倉敷
大原孫三郎
大原美術館
1937年
ナチス・ドイツの総統官邸において秘密会議が開かれ、アドルフ・ヒトラーが陸海軍司令官に対外進出構想を明らかにする(ホスバッハ覚書)。
1937年11月5日、ホスバッハ覚書がまとめられ、ヒトラーが対外侵攻構想を軍最高幹部に示した秘密会議の記録が作成された。
ホスバッハ覚書はベルリンの総統官邸で開かれたヒトラー主宰の会議の公式記録である。出席者には陸海軍の司令官や外務大臣らが含まれ、戦略的野心が議論された。覚書にはチェコスロバキアやオーストリアへの侵攻計画が明記されている。第二次世界大戦前夜のドイツ軍事政策を示す重要資料とされている。戦後、ニュルンベルク裁判などで証拠として利用された。
1937年
ナチス・ドイツ
総統官邸
アドルフ・ヒトラー
ホスバッハ覚書
1940年
アメリカ合衆国大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトが当選。アメリカ史上初の三選。
1940年のアメリカ合衆国大統領選挙でフランクリン・ルーズベルトが当選し、史上初の三選を果たしました。
第二次世界大戦を目前に控えた中、ルーズベルトはニューディール政策の継続と強固なリーダーシップを訴え、共和党候補アルフレッド・ランドンを退けました。
この勝利により、彼はジョージ・ワシントン以来の記録となる大統領三選を果たし、連続して12年以上政権を維持することになります。
長期政権に対する批判も高まりましたが、戦時体制での安定した指導力が評価されました。
その後の議論を経て、再選を制限する憲法修正第22条が1947年に批准され、現職大統領の二期までの制限が制度化されました。
ルーズベルトの三選はアメリカ政治の歴史を大きく変え、戦後の政治システム設計に影響を与えました。
1940年
アメリカ合衆国大統領選挙
フランクリン・ルーズベルト
1941年
第二次世界大戦: 日本の御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定。対米交渉2案と、交渉決裂の場合は12月初旬に武力行使することを決定する。
1941年11月5日の御前会議で「帝国国策遂行要領」が決定され、対米交渉と交渉決裂時の武力行使方針が了承されました。
御前会議は大日本帝国憲法下の最高会議体で、1941年11月5日に対米交渉を行う二つの案と、交渉が決裂した場合に12月上旬に武力行使に踏み切る方針を議決しました。
この「帝国国策遂行要領」により、日本政府はアメリカからの石油禁輸など経済制裁打開の最終策と、戦争に突入する決断を公式に文書で定めました。
決定は太平洋戦争開戦への最終調整と位置づけられ、12月8日のハワイ真珠湾奇襲攻撃へとつながる重要な節目となりました。
会議では東条英機内閣が主導し、軍部の意向が強く反映された結論となりました。
この時点での日米交渉は事実上決裂を前提にしており、日本の対外戦略の転換点となりました。
1941年
第二次世界大戦
御前会議
帝国国策遂行要領